異変と始まり (1)
「お姉様、お帰りなさい!」
ラングハイム城からようやく帰ってきてくれたユーリにルティは駆け寄り、抱きつく。
そんなに大きな戦いにはならないから大丈夫、と笑って出て行ったのに、最初に聞いていた予定より帰りが遅くて、ルティもちょっと心配になっていたのだ。
無事に帰ってきてくれて、すごくホッとした。
「お帰りなさい、ユーリ様。それに皆様方も。ご無事に帰ってきてくださって、私たちも安心いたしました」
ミーナも、笑顔でユーリたちを出迎える。
ミーナの言う通り、ユーリだけでなく、ナーシャや他の人たちもみんな無事で良かった。ルティは嬉しくてニコニコとユーリに抱きついていたが、ふと、血の臭いがするような気がして顔を上げる。
自分を見上げるルティに、ユーリが笑顔で小首を傾げていた。
……なんだか、ユーリの顔色も悪いような。
「ユリウス。戻って来て早々で悪いんだが、報告したいことが。カルタモ公国のことだ」
ディートリヒが言い、分かった、とユーリが頷く。
ユーリの体調が悪いのではないか、それが気になったけれど、言い出せる雰囲気ではなくて。執務室へ向かうユーリを、ルティは見送ることしかできなかった。
ライス王国の一件で西側の国境地帯から帰還したディートリヒは、ライスの現状を報告すると同時にカルタモ公国の不審な動向についても話し始めた。
「どうやら、エンデニル教団の人間がカルタモ公主に近付いているらしい。ローゼンハイムに攻め入る算段でもしに行ってるんじゃないかって、兵たちも噂している」
「エンデニル教団か……枢機卿ローヴァイン殿とは、悪くない関係だと思うのだが」
ユーリのその言葉に隠れたものを理解しているのは、宰相ノイエンドルフだけだろう。ノイエンドルフは何も言わず、ユーリの言葉に反応を示さなかった。
「教団とて一枚岩ではありません。武勲で成り上がったローヴァイン卿を疎ましく思う人間も多い。ローゼンハイムは、大紋章をこの近隣で二番目に多く所有する国ですから、教団内の権力闘争において、槍玉に挙がることは容易に想像できます」
「まったく!聖職者のくせに、一皮むけば俗世よりも俗っぽい連中だ!」
グライスナー参謀の推測に、バックハウス隊長が憤慨する。
そんなところだろうな、とディートリヒは参謀の推測に同意した。
「カルタモにとっても、ユリウスやリンデンベルク伯といった紋章使いは脅威だ。エンデニル教団と共闘できるのなら、その問題も解決する――教団は、大紋章をこの近隣で最も多く所有しているからな。紋章使いも大勢所属している」
「と言っても、紋章使い全員が対ローゼンハイムとの戦に駆り出されることはないだろう。グライスナー候も述べた通り、教団は一枚岩ではない。ローゼンハイムとの対立は、教団の総意ではないはず」
宰相ノイエンドルフは、自身の顎を撫でながら考え込んで言った。
「半端な紋章使いでは、返り討ちに遭い稀少な紋章を取り上げられるだけ。ローゼンハイムの戦力を強化させ、ひいてはローヴァイン卿の権威を強めてしまう。本末転倒だ」
宰相は冷静に話すが、バックハウス隊長はかなりおかんむりな様子である。
「そもそも!あちこちにいい顔をし、自分たちの利権のためならば国同士の戦争も推奨するような蝙蝠連中が許されているのがおかしい!俺たちがそのようなことをすれば、近隣諸国から総スカンを食らうというのに、聖職者の特権ですべて許されている!」
「落ち着け、ラファエル。気持ちは分かるがな」
苦笑いで、グライスナー参謀が友人をなだめる。
だが、その場にいる全員が、隊長の発言に甚だ同意であった――国にとって、エンデニル教団が厄介な存在であるのは違いない。
「まだ確証のないことではあるが、ローヴァイン卿には話しておいたほうがいいかもな。俺たちも共闘を……というつもりはないが、向こうからも多少牽制しておいてもらわないと。そもそもが、あっちの権力闘争に巻き込まれたわけだし――ユリウス?」
今後の方針についての話し合いだというのに、肝心のユーリが黙ったままであることに気付き、ディートリヒは彼女を見た。
ユーリは椅子に座り、机に頬杖をついた状態で、どこかぼんやりしている。
顔を上げて自分を見るディートリヒに視線を返したが、ああ、とあまり覇気のない声で返事をするばかり。
「すまない。話はちゃんと聞いている」
「ユーリ――カルタモのことも教団のことも早めに対応しなくてはならないが、まずは休もう。まだ万全の状態じゃないんだし」
ナーシャが、そっと声をかける。彼の言葉に、何かあったのか、とディートリヒが心配そうに眉を潜める。
「陛下は帰路の途中で体調を崩されて。昨日の内に城に戻ってきているはずが、予定が遅れたのはそのせいなんです」
「まだ体調は回復しきっていらっしゃらなかったのか!そのようなことにも気付かず、陛下をお引き留めしてしまって申し訳ない!」
バックハウス隊長も焦ったように言い、ユーリを気遣う。
体調が悪い、というのは事実だろうとディートリヒも思った。精彩に欠け、言われてみれば顔色も悪い……もっと早くに自分も気付いてやるべきだった……。
「そうだったのか。すまない――そうと知ってたら、こんな話のためにおまえを引き留めなかった。ノイエンドルフたちと相談して、それからでもいいことだ。おまえは、とりあえず休め」
皇帝である彼女の多忙さ、重責はディートリヒもよく理解している。
彼女でなければ果たせない役目は多いのだから、休める時に休ませてやらないと。それが、ディートリヒたちの役目であることは自覚していた。
「帝国を照らす太陽であるべきボクが、その輝きを曇らせて不安を与えるなど何と情けない。しかしいまは、ボクを支える星々の煌めきに頼ることにしよう」
相変わらず意味不明なことを言いだす奴だ、とディートリヒは苦笑する。
ユーリは立ち上がりかけて、一瞬よろめいた――やっぱり、誤魔化すのも精一杯なぐらいに彼女は不調なのだ。
よろめいたユーリの身体を、ナーシャが支える。
「大丈夫?」
「ああ――やれやれ。ボクとしたことが」
ナーシャはユーリの近衛騎士だ。彼女を支え、守ることが彼の役目であり何よりも優先すべき務め。
だから、彼がユーリを助ける姿は当たり前のはず……なのに、なぜかディートリヒは胸がモヤモヤしていた。自分でも、どうしてそんな感情を抱いてしまうのかは分からないけれど。
……俺の手は、振り払ったのに。
ディートリヒが彼女に手を伸ばした時は、ユーリは容赦なくはねのけた。なのに、ナーシャの手は振り払わない。そのことが、なぜか気になって仕方がない。
「陛下は大丈夫だろうか。昨日、急な不調を聞かされ、ずっと心配していたが……俺に何かできることはないだろうか。風邪は人にうつすとすぐに治るというし、俺が代わりに引き受けることはできぬものだろうか……!」
「超健康優良児は黙っていろ――貴公が余計な気を回すと、陛下の気が休まらん」
宰相がピシャリと言い捨てるが、ユーリが心配なバックハウス隊長はその言葉も耳に入らないようで、うろうろと考え込んでいる。
「放っておけばよい。寝ていれば治ることだ」
「俺じゃあるまいし!陛下は繊細なのだぞ!」
即座に反論する隊長に、意外と自分のことがよく分かっている男だ、と宰相も妙に感心していた。
……でも今回ばかりは、グライスナー参謀も宰相の意見に同意だ。
恐らく、ユーリの不調の理由に気付いていないのはバックハウス隊長だけだろう。ナーシャもマティアスも、宰相ノイエンドルフも、確認し合ったわけではないが不調の理由には気付いている。
ディートリヒは気付いていないかもしれない。
参謀は、ディートリヒをさりげなく観察する。
ユーリの不調をバックハウス隊長も気にはしていたが、彼女を見送った後はすぐにカルタモの対応についての話し合いに切り替えたというのに、ディートリヒだけは、どこか心ここにあらずといった様子で。
ナーシャも色々と不可解なところのある男だが、ディートリヒも、気になる振る舞いをしてくれるものだ。
ナーシャに自室へ送ってもらったユーリは、お気に入りの長椅子に、毛布にくるまって横になっていた。
顔色も悪く、時々小さな呻き声まで漏らすユーリのそばで、ルティはおろおろしている。
「お姉様、大丈夫?辛い?」
「心配をかけてすまない……ああ、だが……この時期だけは、ボクも笑っている場合ではないな……」
月に一度は襲われる、女性特有の不調。
巻き戻り前も含め、ルティはまだ経験したことがない辛さ。巻き戻り直前の自分は十四歳だったけれど、それはまだ来ていなかった。
だから、いつだって明るく笑っているユーリを、こんなにも打ちのめすものなのだと思うと……来るのが怖いし、来てほしくないとすら思ってしまう。
とりあえず、毛布の上からユーリのお腹のあたりをなでなでした。
「ユーリ様。何か、温かい飲み物でも……そうだ、ココアはいかがですか?私、皆様の分も用意してきますね」
「あ、じゃあ僕も」
ミーナを手伝おうとするナーシャを、セレスが遮る。私が手伝おう、とミーナと共に立ち上がり、ナーシャはちょっと申し訳なさそうにしていた。
「いいじゃん。僕たち、一仕事終えて帰ってきたばかりなんだから、お客さん扱いしてもらうべきだよ」
ヒスイが抜け抜けと言い、ナーシャが苦笑する。一仕事して帰ってきたのはセレスも一緒だというのに。
人数分のティーカップと、ホカホカと湯気の上がるポットを台車に載せ、部屋へ戻ろうとするミーナを宰相ノイエンドルフが呼び止める。
彼が自発的に自分に会いに来るとは珍しい、とミーナも小首を傾げながら、彼に振り返った。
「エンデニル教団の枢機卿殿に、カルタモに接近する人間のことを知らせる手紙を送って頂きたい。本来ならば陛下の仕事ではございますが」
含みのある言い方をする宰相に、ミーナもすぐにピンと来た。
ローヴァイン卿に手紙。もしユーリが送れば、彼はそれを口実に帝国へとやって来ることだろう。
そして……その後何が起きるかは、想像する必要もない。
もちろん、宰相はそれを望まない。だから、そんな展開を回避できる相手に頼みに来た。
「承知いたしました。すぐにローヴァイン様に宛てて、手紙を書きますね。ユーリ様が伏せっていらっしゃるので、皇后の私がご対応させていただきます、と」
にっこり笑ってミーナが言えば、宰相が頷く。
来たところでいまのユーリに伽は不可能だ、ということを遠回しに伝えれば、枢機卿も舌打ちしながら諦めることだろう。
「……陛下のご様子は」
「さすがのユーリ様も、少しお辛いみたいです。思っていたよりずっと早かったので、昨日は大いに焦ったとおっしゃっていましたわ」
左様ですか、と宰相は静かに答え、ミーナが押していた台車に茶葉の缶をそっと載せる。
中身は……たぶん、ハーブティー。ハーブの中には、痛みを和らげるものもある……。
「ユーリ様、きっと大喜びしますよ」
「私からということは伝えなくてよろしい――知られると、かえって面倒なもので」
本気で嫌そうな顔をする宰相に、ミーナはくすくす笑った。




