炎の中で (3)
華やかなロビーに対し、バックヤードは狭くて、雑多で、ちょっと汚い。
やっぱりドレスは急いで移動するには邪魔で、もたもたと逃げることになってしまった。
入り組んだバックヤードを支配人は慣れた足取りで進み、先を歩く。いくつかの角を曲がって、内装の変わらない長い廊下の先で、両開きの扉を前に立ち止まった。
「ここから先は一本道なので、もう迷うことも――」
そう説明しながら、支配人はドアノブに手をかけて扉を開く。
――瞬間、巨大な炎がルティたちを飲み込んだ。
悲鳴を上げる間もなく炎に包まれ、ミーナがとっさにルティを抱きしめてかばう。
そんな二人をユーリがかばい、炎は、不可思議にも自分たちを避けた。
「ミーナ、ルティ、大丈夫か?」
「は、はい――セレス様が……!」
ミーナは頷きつつも、自分たちの前に立つセレスの姿に血の気が引いていた。
セレスの美しい顔に火がつき、あちこちが焼けただれている。セレスは動じる様子もなく、問題ない、と炎を振り払った。
「化神の私は、宿主さえ無事ならばこの程度の火傷、すぐに回復できる――みんな無事か」
話している間にも、セレスの火傷がすっと消えていく。何事もなかったように、セレスは振舞っていた。
ミーナとユーリの二人にかばわれながら、ルティは周囲を見回した。
さっきまで何ともなかったのに、いまはもう、一面が火の海と化している。
バックヤードには物が積み上げられているから、置かれた荷物に次々と火が燃え広がっていって。
先ほどまで自分たちを案内していた支配人の姿はない。
扉のそばには、真っ黒な塊が……。
「ルティ様、見てはだめ!」
ルティの視界を遮るように、ミーナがぎゅっと抱きしめる。ルティも、できるだけそれを視界に入れないようにした。
ふと見れば、ユーリの左手の紋章が輝いている。
「ミーナ、ルティ、絶対にボクやセレスから離れないように」
火の海の中で自分たちが無事に生き延びているのは、ユーリの紋章のおかげ。彼女の力が及ばないところに行ってしまったら、自分たちもたちまちあの姿になってしまうことだろう。
ミーナとルティはぴったりとユーリにくっつく。ユーリとセレスは周囲を見回して、状況を確認していた。
「どうやら、こちらのほうが火のまわりが早かったらしいな。正面に引き返すか?」
セレスが問いかけ、ユーリは首を振る。
「入り組んだこのバックヤードを、素早く戻れる確信はボクにもない。この先は一本道だと言った彼の言葉を信じ、先を進もう」
ユーリの紋章がさらに光を放ち、ルティたちはほのかに青い光に包まれた。
紋章に守られているから大丈夫……と分かっていても、燃え盛る場所を通り抜けるにはかなりの勇気が必要だった。
ミーナと二人、ぎゅっと強く手を握り合い、懸命にユーリについていく。
バックヤードを戻らないと決めたのも、自分たちがいるからだ。
ドレスでもたもたと歩くことしかできないルティたちでは、引き返しても火が燃え広がるスピードに勝てない。この炎の中を突き進んだほうがマシだと、ユーリはきっとそう思った。
炎に包まれた長いバックヤードを進み、ようやくたどり着いた階段を降りると、目の前にはまた扉。
さっきの爆発を思い出して身構えたが、大きな異変が起きることなく扉は開き、扉を閉めてしまうと、一旦炎は見えなくなった。
次の扉の先はまだ炎が広がっていないらしく、静かだった。
ホッとしながら歩いていたら、ルティの手がガクッと引っ張られた。
――ミーナが、バランスを崩して膝をついている。脚を押さえていて、顔色が悪い。
「ご、ごめんなさい……ホッとしたら、急に足が痛み出して……」
なんでもないことのように笑みを繕いながら、ミーナが言った。
でも、ミーナがずっと無理をしていたのはルティにもすぐに分かった。炎への恐怖で麻痺していただけで、ミーナの脚は、とうに限界を迎えていた。
なんとか立ち上がろうとするが、堪えきれず顔をしかめ、また膝をついてしまう。
「ここは火もまだ来ていないみたいですし……少し休めば、すぐに歩けるようになると思います。ユーリ様、ルティ様を連れて先に――」
「だめよ、そんなこと!ミーナを置いてなんか行けない!そうよね、お姉様!?」
扉一枚隔てたところで、炎はいまも勢いを増し、燃え続けているのだ。ミーナを置いていけるわけがない。
そんな運命をまた繰り返してしまうだなんて――ルティが必死の思いでユーリを見れば、もちろんだ、とユーリが言った。
「ボクが、后を置いて逃げ出すはずがないだろう?キミも、ボクの妻ならば、ボクのことは正しく評価したまえ」
ユーリは笑い、セレスも笑顔で頷いて、ミーナを抱きかかえる。
化神のセレスなら、ミーナ一人ぐらい抱えて歩いたって楽勝だ。ルティは今度はユーリと手を繋ぎ、次の階段を目指して急ぐ。
次の階段を降りれば一階――出口は目の前だ。今回はみんな一緒に、ちゃんと逃げ出せた。
ルティがそう喜んだのも束の間、ユーリが自分を強く引っ張って、叫んだ。
「ルティ、全速力で走れ!」
なんで、と問い返す間もなく、ユーリは走り出す。ドレスを着た小さいルティでは彼女のスピードについていくのも容易ではなく、スタミナ切れから足がもつれ、途中でつまずいてしまった。
手を繋いだままのユーリも立ち止まり、急いでルティを抱き起こそうとする。
ユーリを見上げた時、天井が崩れ落ちてくるのが見えた……。
「ふー……なんとか間に合ったな……」
ぎゅっと目を閉じていたルティは、聞こえてきた声に目を開けた。
いつもより目線が高くなっていて、自分は宙に浮いている――と勘違いしかけたが違った。
誰かに抱えられている。
長い三つ編みが見えて、顔を上げれば、シャンフが自分を見て笑った。
「無事か、ルティ。怪我してないか?」
「シャンフ!」
シャンフは片方の手でルティを抱きかかえ、もう片方の手でユーリを担いでいる。
後ろを見てみれば、天井が崩れ落ちて道が完全に塞がっていた。シャンフが助け出してくれていなかったら、自分たちもあのガレキと火の中に埋まっていたことだろう……。
「助かったぞ、シャンフ。君がいるということは、マティアスも近くまで来ているのだな?」
相変わらずミーナを抱きかかえたまま、セレスが言った。
化神のスピードなら、崩壊しかけた道を駆け抜けていくことも可能だ。
ただ、セレスはすでにミーナを抱きかかえていたから、ユーリとルティに差し出す手が足りず、シャンフの登場には大いに助けられた。
「ああ。屋敷からこの劇場の火が見えてな。マティアス抱えて、すっ飛んできたんだぜ」
「シャンフ。キミが来てくれたのなら、ミーナとルティを頼みたい」
シャンフの腕から下りながら、ユーリが言った。ルティは降ろされず、どういうことだ、とシャンフが聞き返している。
「この火事……ただの火事ではない。これだけ燃えているのに、煙の影響がほとんどない。燃え広がり方も尋常ではないし、セレスを連れ、ボクは詳細を調べてこようと思う」
「紋章が原因だということか?」
セレスが言い、シャンフは心当たりがあるようだった。
いつもの人懐っこい笑顔は消え、眉間に皺を寄せて険しい顔をしている。
「やっぱりそうか――いや、あんたらを追いかけるために、セレスの気配を探ってたんだがな。地下にも化神の気配を感じてたんだよ。貴賓のあんたたちは上階にいるだろうと思ったから無視したけど」
「地下か……恐らく楽屋裏だな」
シャンフからもたらされた情報を聞き、ユーリが考え込む。
何の話なのかはよく分からないけれど、ユーリはここを出るつもりがない――それだけは分かった。自分とミーナを先に逃がして、この建物に残る。
やだ、と思わずルティが叫んだ。
「お姉様も一緒に逃げましょう!一緒じゃなきゃ嫌!」
「ルティ。ユーリは私が一緒だから大丈夫だ」
シャンフの腕の中で暴れるルティをなだめるように、セレスが言った。抵抗してみても、化神のシャンフの力に敵わず、腕はびくともしなかった。
「ルティ、マティアスが待っている――外で、ボクが戻ってくるのを待っていてくれ。必ずキミの元へ戻ってくるから」
ユーリはそう言って、ルティの頬にキスした。
半べそ状態のルティを、ミーナもなだめる――ミーナはセレスの腕から下りて、今度はシャンフに担いでもらう。
「私たちは、先に外へ出ましょう。ユーリ様たちならば絶対大丈夫ですよ」
納得できたわけではないが、誰も自分に賛同してくれないし、ルティもユーリの無事を信じて外へ出るしかなかった。
気を付けろよ、とシャンフはユーリとセレスに声をかけ、壁に向かって猛ダッシュする。
跳んで、頑丈そうな壁に強烈な蹴りを食らわせて破壊し、その勢いのまま外へ飛び出した。
飛び出した先は屋根で、その上を走り、ルティたちを抱えたままシャンフは地上へと飛び降りた。
「リーゼロッテ様!」
地面に降り立つと、すぐにマティアスが駆け寄ってくる。
いつもきっちり服を着ている彼にしては珍しく、適当に寛衣を羽織っただけの姿。ポーカーフェイスもわずかに崩れ、焦った表情をしていた。
ルティに駆け寄ってきた彼は、ためらいなく抱きしめる。ルティはびっくりして、マティアスの腕の中で目をぱちくりさせた。
「ご無事で……間に合って、本当に良かった……」
自分もおずおずと手を伸ばしてマティアスに触れてみれば、彼の身体はいつもより熱い気がした。薄手の寛衣だから、いつもよりダイレクトに熱が伝わってくるし。
「マティアス、もしかして熱がある?」
体調を崩して休みを取っていると、ユーリはたしかにそう言っていた。
仕事が忙しくて大変だったから、疲れているだけだと単純に思っていたけれど……もしかして、本当に不調だった……?
マティアスはルティを離して顔を見つめ、大きくため息を吐いた。
「……申し訳ありません。礼儀を弁えず……感染させてしまう危険にも、まったく思い至っておりませんでした……。ご無礼を、お許しください」
そう言って自分から離れようとするマティアスを、ルティはぎゅっと抱きしめた。
病をおしてでもマティアスが駆けつけてくれて、とても嬉しい。びっくりしたけど、自分を見てためらいなく抱きしめてくれて、本当はすごく嬉しかった。
もう一度自分のことをしっかり抱きしめてくれるマティアスの腕の中で、ルティは幸せを感じていた。




