彼女が選ぶ覇道 (2)
ユーリがミーナの待つ部屋に戻ってみると、彼女は豪華で広い部屋の真ん中にある長椅子に座っており、ユーリを見てすぐに顔を上げた。
「休んでいなかったのか。ボクならご覧の通り、大丈夫だから、休んでおいで」
ローヴァイン卿の部屋へ行ってしまった自分を心配して、眠らずに待っていたのだろう。
ユーリが安心させるように笑いかければ、ミーナは思い詰めたような表情でぎゅっと自分の手を握っていた。
「……ごめんなさい。私……役立たずで」
「そんなことはないさ。キミはちゃんと、ボクを守ってくれている」
自分を守ろうとしてくれた――彼女のその決意で、ユーリも決めたのだ。
自分の弱さや、目を背けていたこと……見ないふりをするのは止めようと。
皇帝として、背負っていかなくてはならないものがあるのだから。自分と一緒に歩んでくれる人たちのためにも、強くありたい。なら、直視するのが歯がゆい自分の内面も、受け入れなくては。
「ユリウス様……」
「前から気になっていたんだが、キミもボクのことはユーリと呼ぶべきだ。夫婦だというのに、距離を感じさせる呼び方はいかがなものかと思うぞ」
ユーリの言葉に、まだ泣き出しそうな顔をしていたが、ミーナも少し笑った。
ユーリはミーナを抱きしめ、彼女も、おずおずと背に手を回す。
「ユーリ様……私、皇后として、妻として、あなたをお支えしたい――何の力も持たぬ、ちっぽけな身ではございますが」
「……うん。広大な帝国に比べれば、ボクたちはまだまだ小さな存在だ。だがいつか必ず、世界も跪く王になってみせる。その后となるのだから、キミも卑屈になっている場合じゃないぞ。そんな暇はない」
今度こそ、ミーナはクスクスと声を上げて笑った。
ミーナに改めて先に休むよう言いつけ、ユーリは風呂へ向かう。部屋に戻ってくるために着ていた上着を脱ぎ、酒で染まった中のシャツを脱ぎかけて……ふと思い出し、ノイエンドルフを呼ぶよう頼んだ。
セレスに身体を洗ってもらいながら、浴槽の衝立の向こうに、宰相がやって来たのを感じて声をかけた。
「キミも起きていたのか。夜更かしは肌に良くないぞ」
「呼び出されるのではないかと考え、休むのを先延ばしにしていたのです。私の予想はその通りとなったのですから、咎められる覚えはございません――いささか、意味合いは違いましたが」
気を遣ってやったというのに文句を言うな小娘。
……という台詞を言外に潜ませ、宰相ノイエンドルフが答える。
衝立で互いの姿は見えないが、特大の溜め息が聞こえてきたので、宰相がどんな表情をしているのかは想像する必要もなかった。
「……陛下がお越しになるとは、思ってもおりませんでした」
「思い立ったが何とやらだ。キミたちにかばわれて逃げ回るのは止めにして、ボクがローヴァインの相手を務めるべきだと思った――ベネディクト。ボクは、どう足掻いても女なんだ」
衝立の向こうから反応する音は聞こえないが、ベネディクト・フォン・ノイエンドルフがユーリの言葉に思うところがあるのは分かっていた。彼も、そのことはずっと気になっていたことだろう。
ローゼンハイム帝として生きるユーリの、女としての感情。
宰相は、ユーリが女であることを望まない。
だからユーリが母親として振る舞う姿も肯定できなかったし、女を感じさせるような状況も回避したかった。
しかし、ユーリはもう、目を逸らすのは止めた。
「キミももう受け入れたまえ。ボクに求愛するぐらいには、女としてのボクにも惹かれているのだと」
「それとこれとは話が別です」
ユーリを女として受け入れるのはまだしも、自分が求愛者扱いされるのは大問題だ。
だがユーリの身体を洗うセレスすら笑う声が聞こえてきて、衝立の向こうの宰相はむすっと黙り込んでいた。
「ああ。話は変わるがな、ベネディクト。キミの部屋には風呂がないだろう。ここで入っていくといい」
風呂から出て身体を拭きながら、ユーリは宰相に言った。
この宿には、風呂付の部屋は二つしかない。ひとつは枢機卿ローヴァインにあてられ、もうひとつがこの部屋だから、宰相が滞在する部屋には風呂がない。
というか、皇后の部屋と、枢機卿の部屋が別格なのだ。ローゼンハイム帝国は、風呂に入る習慣そのものが一般的ではないし。
「風呂は良いぞ。ボクが生活していた城は東側の文化の影響を大いに受けていたから、それは豪華な浴室があつらえてあって、ボクは毎日のように入浴していたんだ。やっぱり、グランツローゼの城にも、あれに負けないものを作らせよう」
「……お好きになさってください」
これに関しては彼女を止められないだろうということを学んでいた宰相は、わざとらしいため息を吐いて投げやりな返事をした。
浴室から出た時、ミーナは長椅子にいて、今度はすやすやと眠っていた。
たぶん、まだユーリのことを待っていてくれたのだろう。でも、つい眠ってしまった。
ユーリはくすりと笑い、セレスに振り返る。
「寝室へ連れて行ってあげてくれ。起こすのは気の毒だ」
セレスも笑顔で頷き、そっとミーナを抱きかかえて奥の寝室へと連れて行く。自分も、もう休もうか――そう考えかけて、ユーリは踵を返した。
薔薇の香りがただよう湯にゆったりと浸かり、ノイエンドルフ公も大きく息を吐く。
実は彼も、風呂は嫌いではなかったりする。
宰相という立場上、外交に赴くことも多く、彼もまた、東側の文化に触れる機会が多かった。だから、風呂は良いと言った彼女の意見にはひそかに賛成していた。
それを口にするとまたあの小娘は調子に乗るので、黙っていたが。
「陛下。覗きなど、下世話な振る舞いは感心致しません」
「覗きではない。観察だ。ボクは男に関する知識が少ないから、ちょうどいい教材がここにあったことを思い出して」
「まごうことなく覗きではありませんか」
むしろ覗きを否定する要素がなさすぎて、宰相のほうが呆れてしまう。
ユーリは当たり前のような顔で浴槽の縁に腰掛け、宰相は顔をしかめた。
「そのような役割は、エルメンライヒ候に頼めばよいでしょう」
「キミはマティアスをなんだと思っているんだ」
ユーリが絡むとだいぶ阿呆になる男。
自分と同じ、感情に流されることなく論理的かつ冷静に動ける男だと思っていたのに、ユーリがそばにいるようになってから、ずいぶん感情に流されるようになった。
……やつも、自分も。
「求愛までした仲じゃないか。いまさら遠慮は無用だぞ」
「その台詞、逆ではありませんか」
自分が求愛者であることを認めた覚えは一切ないが、とりあえず彼女がそう言い出すのはおかしい。
ツッコミどころが多すぎて、宰相も天を仰ぎ、盛大な溜め息を吐くしかなかった。
「ローヴァインに飲まされた媚薬が、まだ抜けきっていないんだ。悩めるボクを、少しは構いたまえ」
いっそ清々しいほどの笑顔でそんなことを言う彼女をじっと睨み……浴槽のふちについた手をつかんで思いきり引っ張る。
驚いたユーリが悲鳴を上げるのを聞いて、ちょっとざまあみろと思ってしまった。
湯の中に引きずりこまれたユーリは宰相の上にのしかかって、けほけほと軽く咳き込む。
濡れて顔に張り付くユーリの髪をかきあげながら、悪くない光景だな、とひそかに思った。
水が白い肌を滴る様も、濡れて水気を含むまつげのせいで伏せ気味になった目も……彼女の女性らしい曲線がはっきり見えるようになった姿も。
これを手に入れたいと強く望んだ枢機卿の気持ちも、分からなくはない。
頂点を象徴するようなこの女が、自分だけのものにできたら……。
「キミたちは、ボクの服を気軽にダメにし過ぎだぞ。そういった気遣いが足りないから結婚できないんだ」
口を開くとイラッとさせられてばかりなので、とりあえず唇をふさいで黙らせることにした。
薬で沈んでいた意識が浮上し、ユーリは目を覚ました。まだ頭も痛むし、重い身体をすぐに持ち上げることはできず、清潔な寝台の上で視線だけ動かし、すぐそばにいた宰相を見る。
「……思ったより、長い時間、眠っていたらしいな」
説明を受けてはいたが、予想以上に大がかりなことになったらしい。
……命をひとつ消し去る作業なのだから、当然と言えばそれもそうか。
自嘲するような笑みを浮かべるユーリに、宰相が静かに切り出した。
「予想以上に困難な作業となり陛下のお身体にもいささか影響が出る結果となってしまいました――侍医の話によると、二度と子は望めぬかと」
しばらくの沈黙の後、そうか、とユーリは短く答えた。
その一言が精一杯であった。
動揺も衝撃も押し殺して答えるには……。
もぞりと動いて背を向け、感情のこもらない声で続ける。
「もう少し休む」
宰相が頭を下げ、部屋を出ていくのを感じた。ずっと付き添っていたセレスはなにも言わず――彼女も、ユーリにかける言葉が思い付かなくて困っているようだが、いまはユーリもそれをフォローする気になれなかった。
――なんてことはない。
罪のない命を自分の都合で不要のものと切り捨てた代償に、自分も、その身体から不要なものを取り上げられただけだ。
必死で、自分にそう言い聞かせる。
嘆き悲しむことなど、何もないと。その資格を、自分は失ってしまったのだから……。
「君も神出鬼没な化神だな――そんなところにいないで、入って来い」
部屋のバルコニーにひっそりたたずんでいたフェルゼンに苦笑いで声をかけ、招き入れるようにセレスが窓を開ける。
女性用の部屋だろう、と遠慮するフェルゼンに、セレスは不思議そうに首を傾げた。
「……君は、妙に人間くさいな。私たちとは違う……ああ、すまない。貶したつもりはないんだ。私は人間のように振舞っていても、人間の気持ちを理解しきることができず、ユーリを支えることができない……君を見習うことができたらと思ったんだ」
「ユリウスは、十二分におまえに支えられている。今日まで彼女が生き延びることができたのは、間違いなくおまえのおかげだ」
両親に見捨てられ、国から忘れられた皇子を献身的に守り、育ててきたのがセレスだ。見様見真似、手探りの子育てであったが、セレスが世話をしなければ文字通りユーリは生きていくことができなかった。
――ただ、人間ではなく、化神のセレスではどうしても越えられない壁があった。
男と女の違い――女としての面では、ユーリを支えられなかった。
最初の世界……ローヴァイン卿に伽を強要され、以降も彼に求められるままずるずると関係を続ける羽目になった彼女は、やがて奴の子を身ごもることになってしまった。
ナーシャがいれば、彼に相談しただろう。ルティの時にも彼には力になってもらっていたから。
だが、ナーシャはその時、すでにユーリから離反していて。
マティアスとヴィルヘルミーナとも微妙な距離――隔たりを埋められずにいたユーリは、宰相ノイエンドルフに相談した。そして宰相は……当たり前のように、彼女に堕胎させた。
ユーリ自身、ローヴァイン卿の子を生むなど考えられず同意した。
……その結果、自分も大きな代償を支払うことになり……女としての自分を嫌悪する、決定打を招くことになるとも知らず。
「セレス。新しい着替えを持ってきてくれ。ベネディクトまでボクの服を台無しにしてくれた」
浴室から自分を呼ぶ声が聞こえてきて、セレスは新しい服を手に、急いでそちらへ向かう。
部屋に入ることなく、フェルゼンはじっとその場に立っていた。
やがて寛衣を着たユーリが宰相ノイエンドルフと共に浴室から出てきて、扉まで彼を見送った。
「一眠りしてくるといい。ボクもさすがに、いまは眠りたい――出発は昼過ぎにしよう」
「御意に」
わずかに頭を下げる宰相に背伸びして、ユーリは自ら彼に口付ける。宰相はその口付けを平然と受け入れていたが、ユーリを見る目にかすかに熱がこもるのをフェルゼンは見た。
ノイエンドルフ公が自分の部屋へ向かうのを確認した後、ユーリは扉を閉め、バルコニーにいるフェルゼンに気付いた。
「おや、フェルゼン。キミも来ていたのか。聞いての通り、グランツローゼへは昼過ぎから帰ることにした。キミもそれまで、ゆっくりしているといい。なんだったら、ゼームリングの町を見て回ってきてもいいぞ――そうだ、ルティへの土産を考えておいてくれ」
フェルゼンは頷き、お休み、と言って寝室へと入っていくユーリを見送る。浴室の片づけを終えたセレスも出てきて、寝室へと姿を消した……。
宰相ノイエンドルフは、ユーリを嫌っていたわけではない。むしろ、ローゼンハイム帝としての彼女の才を評価していた。
だからこそ、彼女が女として生きることを忌避したがった。皇帝として、彼女には生きて欲しかったから。
バックハウス隊長を謀殺した理由も、実はそれだ。ルティには明かさなかったが。
マティアスを失い、ナーシャもいない。孤独なユーリに、男のバックハウスが献身的に寄り添う。
バックハウス隊長に下心はなく、ユーリも彼の忠誠心に純粋に感謝していたが……過ちが起こる可能性は十分あった――女として見るまいと決めている自分ですら、どうしようもなく惹かれてしまうほどの相手なのだから。
結局、男としての嫉妬でノイエンドルフ公はバックハウス隊長に手をかけてしまったのだ。そしてグライスナー参謀を巻き込み、自身も破滅した。
皇帝の寵愛を巡って重鎮三人が愛憎の末に殺し合い、やがて帝国すら滅んだ――他ならぬユーリ自身が、傾国の女だったのだ。
ルティがどれほど抗ってみようとも、ユーリが傾国の女となる運命は変わらない。
だからユーリに女であることを否定させるのではなく、受け入れて、その才を帝国を生かすために振るわせるしかない。
どちらも、ユーリにとって覇道であることに変わりはないが。




