幕前から始まる (2)
ローゼンハイム帝国の華やかな帝都――そこに建つ、マティアス・フォン・エルメンライヒ侯爵の屋敷にて。
辺境の城からユーリが帝都へとやって来ることになり、マティアスは自身の屋敷に彼女を迎え入れる準備をさせていた。
帝都に呼ばれた彼女は、城に泊まらず、マティアスの屋敷に滞在することになっている。
……それはいつものことで、皇子でありながら、彼女は城に居場所がなかった。
それはさておき、マティアスの屋敷には彼女のための部屋があつらえてあり、今回も大急ぎで掃除中。これもいつものことなので、マティアスはシャンフという青年に言いつけて、いつものように準備を進めていた。
「おーい、マティアス。ちゃんと商人を呼んでくれたか?」
掃除の合間に、書斎で書類を片付けていたマティアスにシャンフが声をかけてくる。
書類の手を止めることはなく顔を上げ、マティアスはわずかに不可解そうな表情をした。
マティアスという男は表情の起伏に乏しく、ポーカーフェイスが常態化していた。
長い付き合いのシャンフもそれはもう慣れっこで、表情が変わらずとも、マティアスの内心を察する能力に長けていた。
「いや、だってさ。あの部屋じゃ殺風景だろ。やっぱり商人呼んで、きちんと選んでやらないと」
「……ユリウス様の部屋ならば、十分に買い揃えてあるはずだろう」
ユーリの部屋は、彼女の好みに合わせ、長年掛けて家具や調度品を買い揃えてある。彼女が滞在する際には手入れや……場合によっては新しく買い替える必要もあるが、いまさら何かを特別に増やす必要もないはず。
マティアスがそう考えていると、シャンフが盛大に顔をしかめ、わざとらしくよろめいた。
「あんた……今回はルティが来るってこと、分かってんのか?あの子はここに来るの初めてだぞ!」
指摘され、マティアスが内心で盛大に焦っていることがシャンフにも分かった。
どうやら、ルティのことをすっかり失念していたらしい。
ルティがこの屋敷を訪ねるのは、今回が初めてだ。つまり、この屋敷にはルティのための部屋がない。
だからこそ、シャンフは商人を呼ぶよう助言した。ルティに喜んでもらえるような、可愛らしい女の子好みの家具を調達するために。
「しっかりしろよ!そんなんだから、ルティもあんたよりナーシャに懐くんだぞ!」
シャンフが叱ると、マティアスがじろりと睨んだ。ポーカーフェイスが常の彼にしては珍しい反応である。
ナーシャと比較され……図星をさされ、少々不愉快になっているのだ。そんな感情を抱くぐらいには、彼もルティに愛情がある。
愛情があるどころか、本当はユーリのことも、彼女が生んでくれた自分の娘のことも、とても大切に想っているのに。
当人は自覚がないうえに、いまのように唐変木な有様で。
ルティからは、気持ちの分かりにくい相手として苦手意識を抱かれている。そしてマティアスは、ものすごくそのことを気にしていたりする。
……気にしているのに、一向に関係が改善できないでいるのが何とも情けない話だ。
自分の部屋に戻り、ルティは旅のため荷物を用意する。
部屋のクローゼットには、買ってもらったドレスがいっぱい。ドレスを着るようなことなんて、起きるはずもないのに。
たぶん、マティアスが贈ってくれたもの……のはず。
荷物を整理しながら記憶も整理しているのだが、どうもこの辺境の城での生活がほとんど思い出せない。当然と言えば、当然なのだが。
あの手紙が届いてユーリと共に帝都の城で暮らすようになったのは、四歳の誕生日の直前。
とっさに出た十年前という単語であったが、やっぱり皇帝ユリウス三世の処刑から十年ほど時間を遡っている。
さすがに、その頃の記憶はほとんど残っていない。印象的な思い出はいくつか出てくるけれど、いくらなんでも幼な過ぎて。
とりあえず、この辺境の城を出ることになった日のことは、なんとなく覚えている。
生まれてからずっと、人のほとんどいないこの城で生活をしていた。
一応、自分たちの身の回りの世話をする人間はいるのだけれど、いま思い返してみれば、セレスが自分たちに近寄せなかった気がする。
……なぜなのか、考えたこともなかったけれど。
とにかく、初めての旅、初めて外の世界を見に行けるということで、自分は浮かれきって……あれやこれや持って行こうとして、鞄をパンパンにしてしまった。
「ルティ。持っていくものは決まったかい?」
部屋の外からユーリの声が聞こえてきて、彼女が部屋に入ってくる。
うん、と頷いて中を開いたままの鞄を見せれば、ふむ、とユーリが中身を観察した。
「ずいぶん少ないんだね。人形もドレスも入っていない」
ルティの部屋には、たくさんのお人形やぬいぐるみが飾られている。
でも、どれもピンとこないのだ。
たぶん、当時は自分なりに大切にしていたと思う。だけど、ユーリやマティアスが何でも買ってくれるのをいいことにたくさんねだり、結局どれ一つとしてルティの心に残らなかった。巻き戻り前の自分のわがままさには、我ながら呆れるしかない。
「ドレスは持って行ったほうがいいかもしれない。ボクたちは叔父上の誕生日祝いに呼ばれ、建国祝いの式典に出席する予定なのだから――もしかしたら、それらの予定はすべて取り止めになってしまうかもしれないが」
最後はちょっとおどけたように言ったが、ユーリの言葉にルティは目をぱちくりさせ、そうだった、と納得した。
「ドレス……でも、どれにしよう?」
いまの宮廷の流行りなんて、いくらなんでも知らない。いまの自分が背伸びしておしゃれしても滑稽なだけだと分かっていても、恥をかくのは嫌だ。
「そうだね……帝都に着いたら、マティアスに買わせることにしよう。彼は有意義な金の使い方が見つけられないそうだから、ボクたちでその手本を見せるべきだ」
笑顔で断言するユーリに、ルティは苦笑する。巻き戻り前も、彼女はそういうところ、遠慮なしだったなぁ……。
「とりあえずということで、一揃いだけ持っていくことにしようか。ふむ……だがボクの美貌と才能を受け継いだキミには、どんな衣装も似合ってしまうから……どれにすべきか悩むな」
クローゼットに並ぶドレスを見比べ、ユーリも考え込む。
色々と手に取って眺めてみたり、ルティの隣に置いて見比べてみたり。
「……お姉様。どうしてお姉様って、皇子って呼ばれてるの?」
この質問は、巻き戻り前にもしたような気がする。
……たぶん、ちゃんと答えてもらったはずだけど、当時の自分にとってはあまり面白いものでもなくて、聞いてなかったか、聞いたけどすぐに忘れてしまったのだろう。
女のユーリが、帝国皇子という称号を与えられていること――ローゼンハイム帝国は、女児でも皇位継承権はある。男のほうが優先されがちではあるが、女帝の前例だってあるのに……。
「父が間違えたんだ。生まれたボクに興味がなかったから、性別を知らなかった。伝聞で聞いて、その後、自分で会いに来ることもなく……男だと思って、ユリウス皇子誕生を公表してしまった」
何でもないことのようにユーリは答えたが、そのエピソードの重さを理解してルティは押し黙ってしまった。
……そうだ。前の時も、ユーリはこんな感じで答えて、幼かった自分は大した理由じゃなかったように感じて流してしまったのだ。
生まれた我が子に、父帝は興味を示さなかった。
それが子どもにとってどれほど無慈悲なことであるか……当時の自分には分からなかった。
当たり前のように母親から愛され、愛されることを当たり前と思っていた自分には。
「母もボクを生んだあとは、離宮に閉じこもっていた。だから娘のボクが皇子として公表されてしまったことにも気づかなかった。ボクの乳母や、周囲の人間は間違いに気付いていただろうが、一介の召使いに皇帝の誤りを指摘できるはずもなく。気が付いたらユリウス皇子の名は浸透してしまい、いまさら覆すこともできない状況だったというわけだ――性別をどう公表しているかなど、些細なことだ。ボクが正統なるローゼンハイム皇帝の後継者だという事実は何も変わらない」
話しながら、ユーリは裾に薔薇の刺繍が入ったピンクのドレスを選び、旅行鞄にしまう。髪飾りも、ドレスに似合うものを……。
「お姉様……お姉様は、女性らしい恰好をしないの?お姉様も、きっと長い髪が似合うわ」
自分の髪を梳き始めたユーリを鏡越しに見つめ、ルティが尋ねる。
だろうね、とユーリは笑顔で同意した。
「ボクの美しさは、何があろうと陰ることはない。ドレスを着たボクも、きっと世界一美しいことだろう――分かりきっているのに、わざわざ着飾る必要はないとも思ってしまうのだ」
自惚れにも等しい、傲慢な発言。
でも、ルティの記憶にある限り、ユーリがドレスを着たことはない。巻き戻り前の世界でも、女性らしい恰好をしているのを見たことがない。
そういった衣装が嫌いなわけではないはずだ。
ルティにはたくさんのドレスを与え、すべて吟味して選んでいたし、自分の従者でもあるセレスには、わざわざ女性らしさや可愛らしさが感じられるような軍服を着せている。
ただ……自分で着用しないだけ。髪も短くして。
男らしく振舞っている、というわけでもないと思う。
ユーリの姿は誰がどう見ても女性だし、立ち振る舞いや口調も中性的なだけで、男らしさを強調しているわけではない。女だということを、隠してはいない。
考えてみれば、ものすごく不思議だ。
巻き戻り前の自分が何の疑問も抱かない鈍感さに呆れてしまうほどに。
ルティの問いにユーリが答えるよりも先に、部屋にセレスがやって来た。
「馬車の手配をした。明日の朝、出発するぞ」
「ご苦労。今夜は早めに休んだほうがいいだろうな――この城で過ごす、最後の夜と言うわけか」
ルティにとっては、あまり馴染みのない辺境の城。
でも、ユーリにとっては十年以上暮らしてきた城。ここを出て帝都に着いたら……自分にはどんな運命が待ち受けているのか、知ってしまったことだし……。
ルティはうなだれた。
思わず喋ってしまったけれど、もしかしたら自分は、この先何が起こるのか、話してはいけなかったのでは。
結局、ユーリの帝都行きが変わるわけでもなし。ただいたずらに、ユーリに不吉な未来を教えてしまっただけで。
ユーリは笑っているけれど、破滅的な運命を辿ると分かっていても、その選択をするしかなくて……むごいことをさせてしまった。
落ち込むルティの内心を察したように、ユーリが自分の頭を撫でる。
「ルティ、大丈夫だ。どのような道であれ、ボクの輝きが陰ることはない。皇帝ユリウス――素晴らしい語感だな!」
ユーリは楽しそうに笑う。ルティは笑う気にはなれなくて、ユーリにぎゅっと抱きついた。
「……お姉様。今夜は、一緒に寝てもいい?」
「もちろんだとも――帝都へ行ってしまったら、こうして二人だけでゆっくり過ごす時間もなくなってしまうかもしれないのだから。大事に過ごさなくては」
ユーリも、ルティをぎゅっと抱きしめる。
そうか、とルティもようやく思い至った。
皇帝になったら、こうやってルティが彼女を独り占めできる時間はほとんどなくなってしまう。
巻き戻り前の自分はそのことにたびたび不満を抱いて、自分から姉を取り上げる人間に子どもっぽい態度を取っていた。だから、あの城の人たちともあんまり打ち解けられなくて……。
……思い返すたび、自分の役立たずっぷりを思い知らされる。
こんなことで、自分は果たして彼女の運命を変えられるのだろうか。運命を変えるどころか、同じ運命を辿ることになったとしても、自分の経験は何の役にも立たずに終わるのでは……。
「――ルティ」
ユーリに呼びかけられ、ルティはハッと顔を上げた。
彼女は、自分に向かって優しく微笑んでいた。こんな自分に、どうしていつも彼女は優しいのか。
……母親だから。たったそれだけで、いつも自分は当たり前のように愛されて、守られて……。
「帝都へ行ったら、また姉妹に逆戻りだ。せっかくだから、それまではさっきみたいに呼んでくれないだろうか」
ぱちくりと目を瞬かせ、お母様、と呟く。ユーリが、嬉しそうににっこりした。
いつも笑顔を絶やさない彼女だけど、その笑顔は特別輝いているように見える。
「よっぽど嬉しいんだな」
二人のやり取りを見守っていたセレスが口を挟み、くすりと笑う。
当然さ、とユーリが言った。
「ボクにとって、ルティという娘を得られたことは至上の幸運だからね。本当は、もっと多くの人に知って欲しいぐらいさ――ボクが生んだ娘が、どれほど素晴らしい子であるかを」
「私……お母様に自慢に思ってもらえるような子じゃないわ」
謙遜ではなく、心からの言葉だった。
甘ったれで、世間知らずで。自分一人では何もできなかった、誰も助けられなかった役立たず。
今度こそはと思っているけれど、すでに自分の無能さに嫌気がさしているぐらいで。
おやおや、とユーリは言った。
「キミにはキミの素晴らしさが、まだ見えていないようだね。ボクにはしっかり見えているよ。キミはボクの娘で、自らの使命を果たそうと必死で足掻いている。大きく、抗えるはずもない流れに……それでも立ち向かおうと。それだけでも、キミは十分素晴らしい人間だよ」
ルティはじっとユーリを見つめた後、小さく頷いた。
役立たずかもしれないし、何も変えられないかもしれない。でも、諦めるわけにはいかない。諦めるという選択肢は、ルティにはない。
そんなところは、母親に似たのだと思う。
不遜なほど自分の運命に強く立ち向かっていった母のように、無謀でも、ルティも立ち向かうしかないのだ。