不幸の始まり (4)
セレスが、ハッと顔を上げる。
どうかした?と彼女の異変に気付いてナーシャが声をかけてきた。セレスはしばらく黙り込み、いや、と首を振る。
一瞬、ユーリの心が乱れるのを感じた。
すぐに平静を取り戻したみたいだが、自分を呼んでいたような気もする。それが気になってユーリの感情を追ってみるが、とりあえず大丈夫……だろうか。
「ルティは絵が上手いな。才能がある」
ナーシャに褒められ、えへへ、と嬉しそうにルティがはにかむ。
その笑顔はユーリそっくりで、眩しいほどに愛おしい。セレスも、つられて笑った。
最近のルティは、絵を描くことにハマっている。
マティアスが絵を描くと知ってから、自分も描いてみるようになり、それを知ったマティアスから画材道具の一部を譲ってもらって、本格的に絵の練習をするようになった。
いまも、頭にリンゴを乗せたヒスイをモデルに、彼の横顔を描いている。
欲目抜きに見ても、なかなか良い出来だ。
「僕、まだこのリンゴ乗せてないとダメなの?」
「もうちょっと」
モデルとしての姿勢を保つために乗せられたリンゴ。ヒスイは器用にそれを頭に乗せ、動かないようにしている。
「今度は、武器を持った姿が描きたいな。あの光をバチバチさせるやつ」
「もちろん良いよ、それぐらい」
「僕は良くない」
ナーシャに可愛らしいおねだりをするルティを微笑ましく眺めていたが、今度こそユーリの声が聞こえてきて、セレスは立ち上がった。
「ユーリに呼ばれた。ルティを頼む」
ナーシャたちにルティを任せ、セレスはユーリを探しに行く。
ルティのことを任せたのに、彼女が自分を呼ぶなんて。
あまりないことだから、正直嫌な予感がしてならない。
化神は、自身の宿主の気配を追える。広い城だから、気配を追って移動するにしてもなかなか厄介なのが難点である。
とりあえずユーリの部屋がある方に向かって急いでいたら、マティアスと出くわした。
「陛下ならば、まだ部屋に戻られていない」
セレスの様子から、ユーリを探しているのだと察したらしい。今回はありがたい情報だ。
部屋に戻っていない。なら、まだ客室だろうか。
セレスと別れる直前、ユーリは枢機卿ローヴァインを部屋に送るところだった。ライス王国からの戦利品――フリッツァー将軍が所持していた紋章を渡すため、人のいない場所へと移動していた。
……男と、部屋に二人きり。
そこでユーリの心が乱れることが起きたのかと思うと、ざわりと背筋に冷たいものが走った。すごく……身に覚えのある感覚。以前も、同じことが起きた。
辺境の城で暮らしていた頃。ユーリを、マティアスと二人きりにした。それはよくあることだった。
マティアスはユーリの後見役で、信頼できる相手だったし……そういうそぶりを見せたこともなかったから。
何も疑わずにマティアスと二人だけにして、ユーリが激しく心乱れるのを感じた。
急いで駆け付けたが、自分は何も間に合わなかった……。
「ユーリ、ここにいるのか?」
枢機卿のために用意された客室。使者たちの中でも彼の客室は、明らかに格が違う。
大きな扉をいささか乱暴にノックすると、戸が開き、中からユーリが姿を現す。
シーツを身体に巻き付けただけ……何が起きたのか、その姿を見ただけでセレスはすべてを察した。
二度と起きて欲しくなかったことが、また――絶望に、血の気が引くのをセレスは感じていた。
「セレス……湯の用意をしてくれないか。この部屋にも風呂はあるから、ここで……。この姿で自分の部屋に戻るわけにもいかないだろうからね」
そう言って笑うユーリの笑顔には、いつもの覇気がなかった。眩しいほどの輝きは陰り、二度とそんな笑顔は見たくなかったのに、という痛々しい思いにセレスは目を伏せるしかできない。
すぐに用意する、と言って急いで風呂の準備をする。すぐにでも、彼女の身体を清めてあげたくて。
浴槽に湯を張り、ユーリが深く身を沈める。
目障りな情事の跡を慣れた手つきで洗い流しながら、ユーリの身体を確認した。
傷などはないみたいだが、ユーリの左手首……白い肌に、くっきりと赤い痣が。
「あの男、かなり握力が強いみたいだな。おかげで、玉のようなボクの肌には不似合いな跡が残ってしまった。しばらくルティと風呂はおあずけだ」
こんな時、彼女が泣き言をぶつける相手にすらなれない自分が、とても歯がゆい。
女の姿をしていても人間と異なる感覚で存在するセレスには、どうやって支えたらいいのか分からないのだ。いまも、昔も。
風呂から上がり、ユーリの身体を拭いて服を着せる。
と言っても、元の服は引き裂かれてしまったから、客用の寝衣ぐらいしかないが。
身を清めて浴室を出ると、ローヴァイン卿は目を覚ましており、寝台に横になったまま用意されていた酒を飲んでいた。
「ようやく出てきおったか。身支度の長さは普通の女と変わらぬようだな」
手にしていた杯を乱暴にサイドテーブルに置き、無遠慮にユーリに近づいてくる。
ローヴァイン卿は強引にユーリを抱き寄せ、白い首筋に鼻を寄せた。
「……うむ。悪くない香りだ。匂いのきついものは好みではないが、これは気に入ったぞ」
せっかく着せた寝衣を、ローヴァイン卿は雑に脱がせにかかり、セレスは怒りで顔を歪めてしまいそうになった。そんなセレスに、ユーリはそっと首を振る。
……出て行くしかない。
歯ぎしりしそうなほど悔しい思いを何とか堪え、セレスは部屋を出た。
扉を閉め、その場に立ち尽くす。
このまま、何もなかったように立ち去れるわけがない。でも、どうしたらいいのか。
本当はあのまま、部屋に残ってあの男を斬り捨てられたら良かったのだが……勝てる自信はない。
命を賭けるのは構わない。でも、あの男がユーリを人質に取ってきたら……ユーリを狙われながらの戦いになったら、さすがに勝つことは不可能だろう。
だから、悔しくても引き下がるしかできなかった。
誰かに助けを求めるにしても……。ユーリとて、他の人にこのことを知られたくはないだろうし。
「ノイエンドルフに話すのだ」
聞こえてきた声に、セレスは振り返った。
ユーリのことで頭がいっぱいで、周囲への警戒を怠っていた。
フェルゼンが、少し離れたところからこちらを見ているようだった。顔を完全に兜で覆っているから、表情や視線などはまったく見えない。
「この城で、枢機卿ローヴァインと対等以上に渡り合える者は奴以外にいまい。ユリウスにも、いまはいささか荷の重い相手……。奴とてローゼンハイムの宰相だ。他国の人間が、ローゼンハイム皇帝を娼婦扱いしていると知って、愉快な気分にはならぬだろう」
フェルゼンをじっと見つめた後、セレスは頷き、すぐに駆けて行った。
離れた窓から、空が白ばむのが見える。この部屋に来た時には、まだ宵の口だったのに。
寝台の上でユーリは身動ぎ、床に散乱した衣服を拾い集めようとした。
すぐに大きな手が自分の身体を引き戻し、重いものが圧し掛かってくる。大きく、鋼のように鍛えられた肉体で圧し掛かられると、ユーリはひとたまりもなく、動けなくなってしまう。
眠ったと思ったのに。
圧し掛かってきた男は、剥き出しになったままのユーリの背に唇を這わせてくる。身体を押し付けてきて、自分がまだ満足していないことを思い知らせてくる――年齢を考えると、驚くほど元気な男だ。意外でもないけれど。
このままだと、一日中この男に付き合わされる羽目になるのでは。
恐ろしい予感に、ユーリも嫌な汗が伝う。
どうにか逃げ出さないと。
ユーリがそのことを考えていると、大きな音を立てて部屋の扉が開いた。
怒り心頭に達したセレスが戻って来たのかとヒヤリとしたが、部屋に入ってきたのは背の高い男で、ユーリも思わず目を瞬かせてしまう。
宰相ノイエンドルフは、部屋の様子に驚いたそぶりもなく、普段と変わらぬ険しい顔で寝台に近づいてくる。
「……陛下。いつまでも戯れていないで、さっさと執務室へお越しください。式が重なり、いまは一秒でも時間が惜しい時期ですぞ」
絡み合う男女を目の当たりにしているというのに、宰相は寝坊する子どもにでも言い聞かせるように言った。
ユーリもローヴァイン卿の身体の下から這い出て、自分を捕えようとする枢機卿に声をかける。
「ご覧の通り、私の自由時間は終了した模様です。鬼のような宰相にこき使われる私を憐れみ、もうお放しください」
ユーリが言えば、チッと舌打ちをしながらも、ローヴァイン卿はユーリの上から退いた。
しかし、ユーリが寝台から降りた途端にまた腕をつかんで引き寄せてきて。
う、と痛みにユーリも思わず声を漏らした。
「っ……」
肉を食いちぎるつもりなのではないかと思うほど、強くうなじに噛みついてくる。
ユーリの視界の端で、平静を装う宰相ノイエンドルフですら、わずかに顔をしかめるのが見えた。
噛みついた跡をぺろりとローヴァイン卿が舐め、ちりっとした痛みにユーリはうなじを押さえる。
指先に血が滲み、かなり深く噛みつかれたことが分かった。
視線を向けてみれば、ローヴァイン卿は愉快そうに笑っている。
「陛下。いい加減になさらないと、私も容赦致しませぬぞ」
「……ああ。すぐに行く」
風呂上がりにセレスが着せてくれた寝衣は無事だったので、そちらを軽く羽織って。
部屋を出ると、待っていたセレスがすぐに上着を着せ、ユーリの肌が見えないよう配慮してくれた。
「……執務室へは、早めにお願いいたします」
ため息を吐き、宰相が言った。ユーリは頷き、セレスを連れて自分の部屋に戻る。
「セレス、すまなかった……ありがとう」
長い廊下をゆっくり歩きながら、ユーリは礼を伝える。セレスは首を振った。
「私はフェルゼンの言われた通りにしただけだ。私だけでは何もできず、手をこまねいて見ていることしかできなかっただろう」
「フェルゼンが?」
部屋の前に、フェルゼンが立っている。ユーリは笑い、フェルゼンに近寄った。
「キミには助けられてばかりだな」
「……気にする必要はない」
ありがとう、と礼を伝えて部屋に入るユーリを見届け、フェルゼンもその場を去る。
ユーリが、自分に礼を言う必要はない。自分は、こうなる未来を知っていた。
知っていて、放置した。自分の都合のために。
クレイグ・ローヴァインに伽を強制されたユーリは、やがてエンデニル教団に敵意を募らせるようになる。
悪虐帝ユリウス三世――彼女の治世は、悪虐帝などと言われるほど酷いものではなかった。
ただ……皇帝の評価というものは、聖職者によって左右されることが多い。
彼女は教団を敵に回してしまい、聖職者たちによって悪虐帝という名で歴史書に記されることになってしまったのだ。
フェルゼンはどうしても、ユーリと――ローゼンハイム帝国とエンデニル教団を戦わせなければならない理由がある。
だから……。
彼女が、意に添わぬ男に抱かれることも見過ごした。
それが原因で彼女が自身の性に嫌悪し、女である自分を憎むようになることを知っていても。
ユーリが、娘のルティに絶対に打ち明けなかった真実。フェルゼンも、この真実を語るつもりはなかった。




