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夜は更けて (2)


エンデニル教団が総力を持って戦いに臨むというのなら、それは戦場よりも帝都のほう。

確証のある話ではない。だから、ユーリたちには話さなかった。それでも自分の帝都残留がすんなりと許されたのは、ユーリたちもフェルゼンと同じことを危惧しているからだろう。


「お母様には、ナーシャたちがついてるから大丈夫だよね……?」


不安そうに尋ねてくるルティに、フェルゼンもはっきりと頷くことはできなかった。


「最初の世界とは違う。リンデンベルクにバックハウス、グライスナーも健在だ。クレイグ・ローヴァインがいないのならば、前以上に教団側が苦戦を強いられる。それだけに、帝都奪取のほうを重要視するかもしれない」

「……つまり?」

「ユリウスを戦場におびき出すのを陽動にし、帝都を狙う可能性があるということだ。となれば、戦場のほうの戦力は大したことはないだろう」


それは根拠のある推測ではなく、自身の希望もまざった説であることはフェルゼンも自覚していた。


フェルゼンとは別に、ユーリが危惧していること。ライムーン帝国の動向――こればかりは、フェルゼンにとってもまったく未知の領域。

結局、自分は過去の経験からしか推測できない。ユーリのように、自身の洞察力と推察力で物事を見通すことはできない。

ユーリだったら、この紋章をもっとうまく活用できただろうか……。


「……ねえ、フェルゼン」


おずおずと声をかけてくるルティに、自分の思考に沈み込みかけていたフェルゼンも顔を上げる。


「フェルゼンの紋章って、まだ使うことはできない?」

「巻き戻りか……。まだ使えないだろうな」


ルティの指摘に、運命が早まったことの弊害にフェルゼンも気付いた。


刻時の紋章。フェルゼンが宿す大紋章。

時を巻き戻る力があるが、消耗が激しく、一度使うと十年以上は再度使うことができない。今回は、ルティと共に巻き戻ってまだ八年ほど。紋章は使えないだろう。


「今回はお前と二人で巻き戻っている。使えるタイミングも、前よりも遅れるかもしれない」

「そっか……」


しゅんとしながらも、ルティは自分に言い聞かせるように言葉を続けた。


「巻き戻り前の世界でも、フェルゼンは言ってたもんね。一度きりの幸運だと思って、覚悟を決めろって。最初から次の奇跡に頼ってるようじゃだめだわ」


そうだな、と同意し、フェルゼンも心の内で自らに言い聞かせる。

――彼女の言う通りだ。


最初から、巻き戻りの力をあてにしてどうする。自分も……この力で得た経験からしか、ものを考えていない。それではだめだ。それだけでは、運命は変えられない。

自分も、覚悟を決めなくては。




季節は流れて、夏の暑さも和らいだ頃。ユーリが運命の戦に向かう日がやって来た。

その日、ルティはグランツローゼの城で、出立するユーリを見送った。


「子どもたちとグランツローゼを頼む」

「はい。ユーリ様も、どうかご無事で……ご武運をお祈りしております」


ユーリはミーナにそう声をかけ、子どもたちに向き合う。


「エディ、ヴォルフ、ミーナとルティの言うことを聞いて、城の皆を一緒に守るんだよ」


はい、と二人の息子たちは元気に返事をする。二人は、戦の恐ろしさをまだ何となくしか理解できていない。ユーリが抱きしめてキスすれば、嬉しそうに笑っている。

ユーリはミーナの腕からゲオルクを受け取った。


「キミはまだ、笑うだけだな。それが一番だ」


母がどこへ行くのか、何をしに行くのか、ゲオルクにはまったく分からない。自分を抱き上げる母に、無邪気に笑いかけるだけ。その笑顔を、ユーリは幸せそうに見ている。


「ルティ」


ゲオルクをミーナに返したユーリに呼ばれ、ルティは母に近付いた。


「お母様、左手を貸して」


不思議そうに首を傾げながらも、ユーリはルティに乞われるまま、左手を差し出す。母の左手の小指に、ルティは持ってきた指輪をつけた。


「おばあ様から頂いたの。紋章の力が込められた石だって……私も、お母様を守ってくれますようにって、願いを込めたから……」


指輪を付けたユーリの左手を、ルティは両手でぎゅっと握る。


「これは、私のものだから。お母様には貸すだけよ――ちゃんと私に返しに来てね。お母様自身の手で……絶対に」


ルティの言葉の意味を理解し、ユーリは微笑んで娘を抱きしめる。ルティも、母をぎゅっと抱き返した。


「……ノイエンドルフ、エルメンライヒ、それにフェルゼンも。留守を任せた」


ルティへの挨拶を終えると、ユーリは宰相たちにも声をかけ、彼らは主君に頭を下げた。

ユーリは馬に乗り、軍隊を率いて城を出ていく。長い列を成して遠ざかっていく彼らを、最後の一騎の姿が見えなくなるまでずっと、ルティは見つめていた。




ユーリたちが帝都を離れていても、町に大きな変化はない。帝都は今日も平和で、城はいつもと変わらず平穏だ。

これから帝都に何が起きるか、知っているのはルティとフェルゼンだけ。


その不安を何も知らない人たちに話すわけにもいかず、ルティは一人で抱え込むことしかできなかった。

遠い戦場で何が起きているのか、知るすべはない。ルティにできることと言えば、神に祈るぐらい……。


自室にこもって、こそっと隠し持っている絵を取り出す。女神ルチル――オルキス王国で信仰されていた慈愛と戦の神が描かれた絵。

エンデニル教は偶像崇拝を禁じているから、皇女の自分はこういうものを持っていてはいけないのだろうけれど。


でも、今回はエンデニル教の神に祈る気になれない。ユーリが戦う相手は、エンデニル教団の人間なのだから。

――神様が一人しかいないのなら……別の人間が同時に真逆のことを願った場合、神はどちらの祈りを聞き届けてくれるのだろうか。




気が付いた時、ルティは寝台に突っ伏して毛布を掛けられていた。ゆっくり頭を上げると、あ、と背後から声が聞こえてくる。

振り返れば、気まずそうにしているニコルと目が合った。


「ごめんね。起こしちゃった?」

「ううん……私、寝ちゃってたんだ……」


お祈りをしている間に、ついウトウトとしてしまったらしい。目をこすりながら周囲を確認してみれば、絵がない。


「飾ってた絵なら、大事そうなものだったから、そこの机にしまったよ」


まだ寝ぼけた頭できょろきょろとしているルティに向かって、ニコルが言った。


ニコルは、何も気付いていないようなそぶりだ。

……気遣ってくれているのかな、とルティは思った。あまり大っぴらにはしないほうがいい絵だ。誰かに目撃されてしまう前に、ニコルがこっそり片付けてくれたのかもしれない。


「最近、眠れていないんでしょう?寝ててもいいんだよ」

「うん……うーん、大丈夫」


ごしごしと目をこするルティを、尻尾をふりふりさせながらペルが見つめている。


ユーリが城を発って以降、ルティはあまり眠れていなかった。目をつむると、最近は見ることも少なくなっていた夢が――巻き戻り前のことが脳裏に浮かんでしまって。どうしても、最悪の結末のことばかり考えてしまう……。


「心配かけちゃってごめんね。ニコルにもマティアスにも気を遣ってもらってばかりで……」

「そんなこと気にしなくていいんだよ。ユーリ様たちのことが心配なのは僕たちも同じだし、義父上のほうも、いまはルティと一緒にいたいみたいだから」


周囲に悩み事を話すことはできないけれど、ルティが悩んでいることはとっくに知られていた。それを心配して、マティアスはニコルと一緒にずっと城に泊まり込んでくれている。

正直、とても有り難い。


「今日は、赤烏新聞社に行ってみない?クルトたちだったら、何かニュースを持ってるかも」


ニコルはきっと、気分転換にと誘ってくれているのだろう。城に閉じこもって、ルティも町へ出かけなくなってしまった。

クルトに会いたくないわけではないのだが……会って、色々と聞かれるかな、と思うと少し憂鬱だった。いまは話すのが怖い。余計なことまで喋ってしまいそうで。


でも、いつまでも引きこもってみんなに心配をかけてばかりではダメだ。うん、とルティは頷いた。


「会いに行ってみようかな。クルトにもきっと、心配かけてるだろうし」


そうと決まったらいつものようにペルでさっさと城を抜け出してしまえばいいのだが、なんとなく城の中をうろつく。もしかしたら無意識で無意味な時間稼ぎだったかもしれない。

ニコルは何も言わずルティの散歩に付き合ってくれて、ルティも中庭まで着いた時、そろそろ町へ行こうかな、と考えた頃だった。


フェルゼンが、ルティを見つけて駆け寄ってくる。


「リーゼロッテ。ついいましがた、城に伝令役が駆け込んでくるのが見えた」

「伝令役って、ユーリ様たちと一緒に戦場へ行ってる兵士の?」


ルティと並んで中庭のベンチに腰かけ、フェルゼンを見上げながらニコルが言った。そうだ、とフェルゼンと答える。


「あの様子ならば、ノイエンドルフのもとに直行したはず――私が見る限り、喜ばしい知らせを持ってきたようには思えなかった」


ドキドキと嫌な感じに心臓が早鐘を打ち、ルティも宰相ノイエンドルフのもとへ走った。ユーリ不在のいま、彼はマティアスと共に皇帝の政務室で仕事をしている。


フェルゼンやルティの予想に違わず、ユーリの政務室には、宰相と顧問官マティアス、戦場から帝都へ急行してきたらしい風貌の兵士がいた。伝令役は、すでに宰相たちに報告している。


「――つまり、敗北が確定したかどうかは、貴公にも分からぬということか」

「申し訳ありません――陛下より、とにかく急ぎ帝都に向かうよう言われ……」


ルティが部屋に入ってきたことで、宰相に報告していた伝令役はハッと顔を上げて口をつぐんだ。顔色は悪く、ルティを見てすぐに視線を逸らした。

……子どものルティに聞かれたくないことを話していたのは確実だ。


「こうなっては隠し立てても仕方があるまい。場合によっては、リーゼロッテ様にもお覚悟を決めて頂かなくてはならないのだから」


冷徹な宰相は厳しく言い、マティアスがかすかに非難がましい視線を彼に向けた。でも、反論はしない。宰相の言い分が正しいと、マティアスもそう思っている――マティアスですら、態度でそれを示していた。


「いま伝令役より報告を受けまして、ローゼンハイムは全軍撤退を決定したそうです。詳しいことはこの者も分からないらしく、撤退を決めたと同時に陛下に命令され、帝都に急ぎ戻って来たとか」


宰相が、簡潔に内容を伝える。

ローゼンハイムは撤退……敗北ではないと、彼らは話していたけれど……戦場で、侵攻してきた敵が退いたわけでもないのに全軍が撤退するのは、負けに等しいのでは……。


「帝都の門をすべて閉ざし、籠城に備えよとの陛下の命です」

「はい。陛下は、戦場は陽動で、敵は直接グランツローゼを襲うつもりだと、そうお考えで」


宰相の言葉に伝令役が続ける。

それで、撤退を決定した段階で伝令役を先に帝都に帰し、危険を知らせた。


「全軍で撤退してるなら、お母様たちもみんな帰ってくる?」


グランツローゼが戦場になるかもしれないという恐ろしい事実よりも、巻き戻り前の状況が回避できたかどうか、ルティは気になって仕方がなかった。しかし、顔色の悪い伝令役はルティの問いかけに対し、気まずそうに首を振るばかり。


「……申し訳ありません。私も、帝都に引き返した後のことは何も知らないのです。ひたすら馬を走らせ続けるだけで、精一杯で……」


言われて、彼がぼろぼろで、ろくな休息も取っていない姿であることにルティはようやく気付いた。

ユーリだったら、彼が知るはずのない事実をしつこく追及するよりも、彼を労って、休ませただろう……。


「その者が帝都へ向かった後のことは、私が説明します」


部屋の外から声が聞こえてきて、全員が窓を見た。少し窓の開いた隙間から、白い文鳥が飛び込んでくる。

グライスナー参謀の化神ムートは、宰相の机にふわっととまって、部屋の中の人間たちを見上げた。


「ムートのほうが早く到着するかと思ったが、おまえのほうが早かったか。ご苦労だった――あとは私が引き継ごう。もう休め」


人間の言葉を話すムートの声は、グライスナー参謀のものだ。伝令役はムートもといグライスナー参謀に深々と頭を下げ、少しよろつきながら政務室を出て行った。


「ノイエンドルフ公、あの者も話していましたが、まずはグランツローゼの門を閉め、籠城に備えてください。ここへ向かう途中で、聖騎士団の一部を見かけました。やつらが戦場を陽動にし、帝都を直接狙うという陛下の読みは正しかったと、私がこの目で確認した」


ムートを通して、グライスナー参謀が報告する。


「ユリウス陛下とラファエル・フォン・バックハウスの両名が敵に捕まった。いま、このような重大な決定を下せる人間は、宰相である貴殿と皇后陛下となっている。明日には撤退してきたローゼンハイム軍も帝都に到着するだろう。ユリウス陛下が迅速に対応してくださったおかげで、教団の連中よりは先に入れる――それで、フェルゼン、シャンフと共に防衛を」


恐ろしい報告に、一瞬誰もが言葉を失った。宰相ですら、わずかに青ざめ、すぐには返事をできずにいた。


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