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復讐のアヴニール

作者: 瀧田新根

 その夜は、季節外れの寒波が襲う中、ちらつく雪が確実に降り積もる中ではあったものの、その寒さを覆す程の熱気が、パリ郊外の工場の跡地に用意された会場を支配していた。

 五万人は収容できる会場は、ここ花の都で今、最も熱狂を集めるスポーツの祭典の会場だ。

 かつては、パルク・デ・プランスと同じく、程よい大きさと、交通の便の良さから、次のツール・ド・フランスを見越したのか、とまで勘繰られていたものの、蓋を開けてみれば「新参のスポーツ」に取って変わられ、多くの関係者を驚愕せしめた経緯があった。それもこれもたった一人の男の巨大な――蠢きの――力によって成しえた所業であるというのは、多くの市民にとって知るところには無かった。

 その新参のスポーツを一目見ようと高齢から、まだ十歳に満たないであろう子供まで多くの人が娯楽を求めてやってきていた。

 会場内に漂う熱気は、先ほどまでの試合の熱を帯び、今や最高潮。

 家族連れは、ピクニックの様相を呈して、八分割されたキッシュやフリットを座席に並べ、片手には思い思いのドリンクを楽しんで会話していた。

 微かに広がるコーヒーの香りは、売店で淹れ立ての物なのか、繊細な湯気をベージュ色の会場の屋根へと向けていた。

 突如怒号の様な声が上がった。

 しかし、それを気にする者はいない。むしろその喧噪の中に積極的に加わる者の方が多いのが現実だった。

 スコアブックに何やら書き込む、背の高い男は、グレーのコートを着て冷静を装いながらも神経質そうに次の賭けを取り仕切っていた。彼の周りには人だかりができており、中にはまだ子供の姿もあった。手にはくしゃくしゃになった十ユーロ紙幣。男は胸のポケットから赤と白の賭け札を取り出して、垣根の様に伸びあがった手に収まる紙幣を回収しながら、掛札と交換していった。

 男の周りにある人だかりから少し距離を取ってみれば、賭け札が宙を舞っていた。先ほどの試合の大番狂わせの結果だろうか、紙屑となったその紙を地面に叩きつける者、びりびりに破いては頭を掻きむしる者、逆に意気揚々とビールを煽る者、千差万別の中において、誰も彼もが、次の決勝戦を予想へと頭を切り替えていった。

 かつてのフラウィウス円形闘技場を彷彿とさせるその熱狂は、「魔法」によって、より色づいていると言ってもいいだろう。

 円形を踏襲した建屋の中では、特異な形状のリングが煌々と照らしだされ、人々を出迎える。

 円形のテントづくりの会場の中には、25メートル四方の正方形のリングが設置されていた。

 リングの周囲にはぐるりと配置された出店の金魚がいる水槽のを彷彿とさせる、掘りが設置され、なみなみと水が蓄えられていた。

 そのリングの床は、砂を押し固めた土台の上に、木製の板が幾重にもおかれ、その上にキャンパス地の一風変わったマットが引かれていた。

 対角線上に白と赤に色塗りされたマットは、形状は似てもいなかったが、チェス盤を連想させた。

 両端にはそれぞれ床の色と合わせた色の旗が掲げられていた。

 まるで生と死を意味する様に不気味な感覚を持って、見る者を一度は戦慄させた。

 情報端末では一切、配信される事の無い、「本当の生死を賭した戦い」がそこにあったからだ。

 リングによく目を凝らせば、ところどころに赤黒い染みが残っていた。

 はたしてそれは一体誰のものであるのかは、「見た者しか」分からない。


 アヴニール。


 フランス発祥の『未来』と名付けられたスポーツ。

 それは「魔法」と武器を使って相手と死力を賭して戦う現代の拳闘。

 血、肉、技、そして魔法抜きには語れない。

 肉体の、技術の極限によって色塗られた極彩色めいた拳闘は、単純な勝利条件の元に成立していた。

 相手を倒すか、相手の旗を自陣に持ち帰るか。

 たったそれだけの競技であるにも関わらず、人々が熱狂するのには、「魔法」と言う魔力が注がれていたからに他ならない。

 その歴史は、たった半世紀。


 デズィーリと呼ばれる岩石が発見されたのは、今から半世紀前になる。南アフリカ共和国で初めに産出されたその岩石は、後にアフリカ大陸全土で確認された。

 従来の物質とは異なった作用をする事が確認されたその岩石の扱いは、当初、極度に神経をすり減らす物だった。

 岩石を採掘時に強い衝撃を加えてしまうと「爆発」を起したからだ。

 鉱山にとって危険極まりない岩石の登場は、この厄介者をどう処理するかという課題を緊急に突きつける事になった。もしかしたら、世界全土の鉱山で同様の物質が出てくるとも限らなかったからだ。一度その被害にあってしまえば、鉱山は機能停止に陥るのは必至であった。

 研究者は日夜、その特異性の解明に明け暮れた。

 まるでニトログリセリンを扱う様に、丁重に、丁重に彼らは扱っていた。


 デズィーリの研究を行っていた一人、ホセ・コルテスは、バルセロナ大学地質学研究所の所員だったが、彼女に振られ悲しいクリスマスを過ごす予定だった。彼女に使うはずだった金を、行きつけのバーに流し、一人で酒に浸り、物思いに老けた。マスターに止められる程、酒を浴びたホセは、当然の様にかなり酔っぱらった状態だった。不明瞭な思考の中であっても、いつも通りに「研究室で寝るため」にふらふらの足で戻ってきた。借りていたアパートよりもかなり上等なソファーが設置され、そこに身を沈めるのが彼のお気に入りだった。だから、この傷付いた心を鎮めるには必要だと、ホセは自分に言い聞かせて夜中に研究室に戻るという一般的ではない行動をとった要因になった。

 しかしその夜は、胃に流し込んだロン・サカパの量と同じだけ、彼の胸には、ぐつぐつと煮えたぎる、彼女への湧き上がる怒りを持っていたため、荒れに荒れていた。別れ話に至ったのはたった一言の食い違いだったものだから、最初はその苛立ちを、大声を上げたり、自身の太ももを強くたたきながら悪態をつくなどの、まだ落ち着いた――物理的被害が無いという意味で――ものだった。だが、次第にその怒りはエスカレートをしていき、最終的にはソファーに向かって物を投げつけるという行為で落ち着かせようとしていた。当然、研究室であるから、危険な物も多くあった。

 「デズィーリ」の石片であっても。

 爆発することが知られていたそれをおもむろにつかみ上げると、彼は思いっきりソファーへとぶつけた。当然、皮で作られた上等なソファーは、その衝撃を緩和した。だが石片の入ったガラスケースは無残に四散し、石片に衝撃を与えた。だというのに、一向に変化が訪れなかった。

 それは、デズィーリが必ず爆発する物ではないという事を証明する事件だった。


 後にそのデズィーリは、『金属』によってのみ作用することが判明した。

 その上、金属の種類によって効果が変わるという特異性を持っていた。例えば、金を使えば大きな風を巻き起こし、銅を使えば炎を噴き出す。

 デズィーリは、非金属によって衝撃が加えられても、全くの作用を起こさないその岩石は、後に「魔法の元」と呼ばれるようになった。

 研究者たちはこの未知の物質に『願望』の意味を込めてデズィーリと呼んだ。

 試行錯誤の末、安定的にその魔法を発動させるために、プラスチックと混合し成形、効果を求める金属によって衝撃を加える方法を確立した。

 「たった」それだけで人は魔法を使えるようになったのだ。

 それは、かつての火薬の様に、かつての石油の様に、人々は素直に受け入れた。

 夢の技術だと誰もが思った。

 新たな資源として、デズィーリは期待されていた。

 確かに、二つの問題が解決できればそれは可能だっただろう。


 一つは効果発揮によって「金属もろとも消失」するという事。

 これには、他の金属の再利用が出来ない点で大きな資源損失が起きるため、エネルギー資源としては「二重の消費を強いる」ために大きな壁となっていた。

 それでも固形の――不定形の――資源としての模索は長らく続けられ、ロシアでは一時期巨大なデズィーリ発電施設を本気で計画したほどだった。

 しかし、コストに対して得られるエネルギーが釣り合わず、金銭的に赤字を続ける事を了承しない限り、運用が難しいという矛盾を突き付けていた。

 考えられたのは火力発電と水力発電だったが、必要になる資源の量が、石油や水から変えられるほどの産出量が無いというのも頓挫する一つの要因だった。


 もう一つが、速度の問題だった。

 最小化を目指し、多くの試行錯誤が成されたが、小さくすればするだけ効果が得られないというジレンマを抱えていた。

 そのため、安定的に効果を生み出す一つの規格が作られた。埋蔵されるデズィーリの量も未知数であった事も、その要因と言えるだろう。

 最小限の効果を得るために必要な大きさは、世界で共通の規格となり、縦十センチ、横五センチ、幅半センチの大きさが定められた。統一規格では、デズィーリの含有量は重量比でたったの五%に決定された。

 表面に魔法を発現させる金属――効果を求める金属――をプラスチックに施すという、一般的に「回路」と呼ばれる彫金――癒着させるが――を組み込み、専用のケース――スリーブの端に撃鉄の形状をした機器が取り付けられ、回路の始点を強く打つ事で魔法を作動させるという機構が採用されるようになった。

 『カード』と呼ばれる様になる一つの成果品だった。

 しかし、そのカードの動作には「一秒」のタイムラグが存在していた。

 その短いごく短い時間ではあったが、存在するそのタイムラグを頭でっかちの魔法理論学者――通称、シーカー達に聞くと、カードが世界に読み込まれるロード時間だと、偉そうに語る事だろう。

 カードに衝撃が加えられ、デズィーリが消失して事象が発生するまでの時間を短くしようとすればカードの規格外の小ささにしなければならなかったため、この一秒は破られることの無い壁となって存在していた。

 そのため、安定した着火剤として、時に水道の代わりとして、使われるようにはなったが、「武器」としての浸透はしなかった。

 銃器の手軽さよりもかさばる上に扱いが難しすぎるという点が忌避される所以だろう。

 こうして、デズィーリもといカードは、生活の中には入っていったものの、武器としての認知は一切されていなかった。


 そう、アヴニールが行われるまでは。


 競技として脚光を浴びるようになったアヴニールは、従来の合法・非合法で行われていた拳闘に加えてカードと言う切り札を与える事になった事で、カード、イコール、アヴニールと言う認知へと瞬く間に変わっていた。

 派手さを増した競技は、すぐさま賭け事の対象になった。

 公式に賭博を抑制することが出来ないと各国は悟り、非公認ではある物の、規制の対象外となって、人々のささやかな、あるいは公然とした楽しみに変わっていた。

 血みどろの戦いは放送に載せる事は出来なかったことも、逆に隠匿された「魔法」と言うものの本質に近づいている様で、人々を熱狂させるに至る起爆剤だったのだろう。

 競技性を増すために、アヴニールにはルールが取り入れられる事になった。

 その最たるルールは、カードの枚数を制限するという物。

 二十枚までに制限されたカードの束を『デッキ』と呼び、競技者各々が個性を持ち始めることになる。

 相手の手札を読み、武技と魔法を駆使して戦う華やかさから、アヴニールは人気を博していた。


 ◆


 天井のライトが暗くなった。しかし、観客たちのざわめきは静まる所か、より一層の熱を持って会場の中を渦巻いていた。誰もが次に行われる試合を待ち興奮を抑えきれていなかった。それもそのはず、今シーズンの最後の試合、頂上決戦が行われるからだ。楽しげに指笛を吹く音が気高く響いた。誰かの選手の名前を叫ぶ声は、雑多な観客たちのざわめきによって明瞭に聞き取る事は出来ない。嵐の様な怒号の中であっても、未だに賭け札を求める人の波は収まることなく、背の高いコート姿の男の周りに――より一層――黒い波を作っては押し寄せていた。他にも似た様な賭け札を配る男はいるにも関わらず、この男を多くの人が選ぶのは、願掛けに近い何かがあるのだろう。決してあたるという保証はないにも関わらず、しかし、人々は真剣な顔をして掛札を求めた。

 会場に放送が掛かった。甲高いハウリングの音がキーンと耳障りな音をたてて響き渡ると同時に、かすかな雑音に交じって会場内に設置されたスピーカーから――少し雑な――不明瞭な声が上がった。今からこの会場に入ってきた者がいたのなら、事前のマイクテストなどしていないような運営の粗雑さだと思う事だろうが、この会場に居る者のほぼ全てが、前の試合による影響であるというのは認識していた。一人の選手がルール違反の場外に及ぶ巨大な火柱を上げた事により、敷設されていたケーブルが損傷したのを目の当たりにしたのだから、運営の不手際を呪う事は無かった。むしろ、応急処置代わりに――乱雑に――整備された予備のケーブルと、機械の相性が悪いのはこの音を聞けば一目瞭然で、誰もそれに同情こそすれ、不満を言う事は無い。試合を目にできている事の充足感の方が何万倍もうれしかったのだ。

 スピーカーから流れる声は、この決勝に勝ち上がった選手を讃える男の声。


『――今日、欧州リーグの決勝に勝ち上がってきた選手たちは、多くの奇跡の軌跡を私達に見せてくれました。

 類い稀なる武技と魔法の応酬は、私達を惹きつけ、この決勝に至るまでに多くの血潮を、汗を、そして命を賭して築き上げた一つの終着点に到達しました。

 今シーズン最後の試合にどの様な『世界』を見せてくれるのか、とても楽しみでなりません。

 ここに至るまでに華々しく戦った者達の想いを持って、両者は今、このステージに上がります。

 両名ともに、今までにないほどの死闘を潜り抜けてきた猛者!』


 呼吸を落ち着かせるために、男はマイクを少し離した。マイクを持つのはスキンヘッドの男だった。黒いスーツ姿に、襟元にはきらきらと輝く蝶ネクタイが憎らしく浮かぶ。スポットライトの様に当てられた放送席の前に、さも当然の様に落ち着いた表情で立っていた。綺麗な歯並びが嫌味の様にきらりと光った。それをまとめ込む白い肌は、暗闇の会場にあたるスポットライトの所為もあり、暗闇から浮出ている様にすら見えた。

 その声は落ち着き、ゆっくりと、聞き取りやすい様にアナウンスを行っていた。何度も大会の実行を行っているだけあり、手慣れた様子で、マイクをそっと脇に寄せると、会場の熱気に当てられて浮き出たかすかな汗を左手の袖口でさっとふき取った。


 しかし、放送席の後ろに座る、一人の男は渋い顔をしていた。

 派手な白色のスーツが当たり前である様に似合っていた中年の男性は、会場を舐める様に窺うと、軽くため息を一つ吐き出した。

 このフランスで開催されているアヴニールを取り仕切る男。

 彼は、アヴニールの選手を養成するフランスの養成校『エスポワール』の責任者。

 リュヌ・デサンダンは、頭痛を堪えるように、眉間に一度手を当てると、今度は、深い――不快――ため息をついて、リングの上に視線を向けた。

 今回の興行は全くも不作だった。そのことが気に入らず仕方がなく、リュヌは頭の中で何度も何度もこれからの経費と収入のつり合いを計算していた。

 特に、自身の育ててきた選手たちが全く無名の、『あの時の』男に敗れ去っていたとは、リュヌは思いもしなかったものだから、宣伝目的で上げた選手たちの育成費用を込みで、今後の入学希望者の数の減少とまったく、釣り合わないという結論に、苛立ちは隠せなかった。

 いつも通りに『エスポワール』の名前を上げるために、既定路線で自身の手の者達が、派手なショーを繰り広げている事だろうと安心して、仕事を片付けてやってきたのはたった二十分前。

 まったく予想と違う状況になっている事に対する怒りは、リュヌの冷徹すぎる自制の心によって表には出されなかったが、ペットボトルに入ったミネラルウォーターをコップに移す際に、怒りで震える手を隠せないほどには煮えたぎっていたらしく、机に水たまりをつくる事になった。

 試合の様子を――たった数分だったが――確認した時にリュヌの映った男は、全くのダークホースだった。

 その男を見た時には気づかなかったが、とリュヌは思った。ふとみたあの表情はどこかで――そう、遠い記憶の中にある、『娘の件』で無知にもリュヌに懇願をしてきた子供とどうしても重なって仕方なかった。

 試合終了のコールと共に、男の名前を聞いた時、その曖昧な記憶は一瞬にして迅雷に打たれた様に鮮明に、鮮烈に脳裏に確信を提示した。

 リュヌにとって苦虫を嚙み殺した様な、不味い感情が堰を切って押し寄せ、口に悪態を乗せて一言つぶやいた。

「忌々しい……」

 誰に向ける訳でもなかった呟きだった。しかし、リュヌの『右手』の者には伝わっただろうと確信する。自身の渋面と、吐き出された呪詛は、ゆっくりと、このリングに渦巻き一つの形を創り上げてくれる事だろうと期待した。それは炎を纏う、猛烈なうねりとなる、『彼の最高傑作』の姿に重なった。

 リングの袖に見える、その姿を視界に留めると少しだけ安堵した。

 口に残る砂利の様な苦々しさを振り払う様に再度呟く。

「――忌々しい」

 そう、誰にも聞きとられない様に呟く様は、司会者に向けられたスポットライトの一部によって、リュヌの口に蠢く陰影を作りだした。

 リュヌは誰も見ていないと思っていた。当たり前だ。この会場に一体誰が、自分に視線を向ける者などいようか、と思った。そういった思い込みは視線の先に映る、一人の男の口元によって変わった。

 ぴしり、と確実に額に筋が浮かぶ。

 あの忌々しい男が今まさに笑っているのを確かにリュヌは見た。


『……アヴニール。

 今や誰もが知っているこの競技は、フランス発祥の――未来アヴニールと名付けられた魔法競技。たった半世紀の間に確立され、たった三十年で瞬く間に世界に広まったこの武技と魔法の極限の芸術。その芸術性は確実に命に結びつく儚さを持って彩られています。

 生と死。

 このリングの中では等しく同じ。

 一度この場に上がれば、ゲームが終わるまでは決して――決して、逃れる事は出来ない呪いの檻……。

 それでも、彼らは上がってくるのです。

 富。

 名誉。

 または、己の力の証明の為に。

 今‼ ここに‼ 私達は彼らを迎えようではありませんか‼』


 東側の入口にスポットライトが当たった。映し出されるのは一人の女性。

 高い身長に、美しいプロポーションのシルエットが暗闇から浮き上がった。その姿は優雅さと麗しさを兼ね備え、今にも乗馬でも思想なブリティッシュスタイル。パリッとした白いシャツ、真っ赤に燃え盛るイメージを与える赤ジャケット。気高さを現す様に曇り一つない白いパンツ。力強さを感じる黒色ブーツは、音響が音を拾っていないにも関わらず、コツコツと言う硬い音を観客の耳に響き渡たらせた。

 軽快な足取りは、何一つ迷いも感じさせずリングへと進んだ。

 ベルトに括り付けられた色の濃い茶色のポーチが左右に一つずつ揺れており、白のパンツとの対比が美しい。カードが入っているのは明確で、時折、スポットライトによって鈍い金属の反射光が見て取れた。

 背中には、血潮の如き朱い短い槍が右手によって掲げられ、猟銃の代わりに一振りとでもいう様に楽し気にゆらゆらと左右に揺れた。それは異様な雰囲気を醸し出していた。

 彼女の姿を見た者は、今までの試合の中で見た、烈火の如きその技術の高さを思い出しては身震いした。

 彼女の歩く風に乗って美しい金色の髪が、その武技を、魔法の苛烈さを全て帳消しする様に自由に、清楚に流れていた。

 整った顔立ちに一際目立つ、これから行われる死闘に似つかわしくない赤いルージュは、不敵な笑みをより鮮明に観客に届けた。

 燃え盛る様な赤い瞳が、リングへと続く道をどこか嬉しそうに見つめていた。


『東から! 前回大会覇者。――フラム・デサンダン‼

 『火』のデッキであれば彼女の右に出る者はいやしない……。そう世界に告げてもおかしくはないでしょう。

 二回戦の記憶は新しい……。傲慢にも彼女を挑発した、アルベールは、鮮烈な一条の――たった一度の魔法によって、一閃された。

 見た者は全くなにが起きたのか分からなかった事でしょう。

 一度に――十枚ものカードを制御せしめるその技術‼

 圧倒的火力はその名のとおり、炎をもって相手をねじ伏せる!

 まさに、苛烈! まさに、熾烈!

 その火力は、今大会でも随一!

 相手には等しく死をもたらすその業火は、全試合すべてバーン・アウト!

 逃がすことは無い、その炎が今、挑戦者を飲み込もうと顎を広げ、待ち構える‼』


 光が増えた。リングに上がったフラムだけを映すのではなく、一瞬の間に次のステージにもう一筋。

 西の入口に当てられる光は、一つの濃い影を映し出した。

 影、否、それは一人の青年。

 精幹な面持ちは、歴戦の軍人だと思えるものだった。

 しかし、まだ若い。誰もがそう思うその相貌。どことなく、あどけなさだけ置き去りにされ、すっと研ぎあげられたガラスでできたナイフの様に、危うく、脆さを感じさせた。少年の時間を一瞬で飛ばし、青年に叩き上げられた危なさを内包して、彼の表情に影を作っていた。

 深海を思わせる様な濃い青色の髪は、彼の生み出す緩やかな風に乗ってサラリと動く。

 髪色に合わせた様な、澄んだ青い――蒼い――瞳が、真っすぐにフラムに向けられていた。

 上下黒で整えられたスーツ姿。黒いジャケット、黒いシャツ、黒いパンツ。紅いタイは、血潮の如き蠢きをゆらゆらと、不気味に彼の動きに合わせて左右に動いていた。

 一切の乱れなく、皺の一つまでも徹底的に整えられた服装は、老齢な紳士然とした印象を与え、その脆さを持った相貌と相まってアンバランスな印象を与えた。

 しかし、彼の踏み出す一歩、また一歩が、確実に魔法使い――ウィズのそれである事を物語っていた。

 腰に掲げられた細剣は、長さ九十センチはあろうかという長さで、彼の動きに合わせてヒルトガードが辺り眩い白銀の光を暗闇に飛ばした。

 左右の太ももには、一つずつ黒革製の拳銃のホルスターの様なものが取り付けられていた。

時折、鈍く輝く黄金色、銀色、鈍色に光輝く様が見て取れ、それがカードホルダーだというを物語っていた。


『今大会において、最も番狂わせが起きたのがBブロックだった……。

 並みいる強豪……次代の新星を育成するエスポワール出身の選手たちがひしめくBブロックに、新星が生まれるとはなんという偶然、否、それは必然!

 一回戦。防御においては絶対的な力量を持つシャミーム選手をたった……たった一分で撃破。

 二回戦。策士と言われるポルタ選手を、『真正面から』叩き伏せる。

 三回戦。フラム選手と並び、火力に優れるヒルン選手に、『何もさせずに』剣技で圧倒。

 四回戦。風使いの高速アタッカー、カルム選手と、互角の速度で渡り合い。

 五回戦。同じく大会の台風の目、ゲーミングでは随一の頭脳派、イゾラ選手を翻弄。

 それは、全ての選手を『相手の土俵で』ねじ伏せる!

 まさに新たな夜明けに輝くエトワールその物か!

 バーンにビートなんでもござれ。その力量は今大会随一!

 複雑怪奇な『六色』に彩られたカードは、正しく新星の輝き!

 今、自らに向けられた炎の牙を、打ち砕くべく颯爽と登場だ!

 グラス・ルー‼』


 グラスは進みながら天井を見上げる。

 夜空に輝く星々の様に、煌々と彼を照らす幾つもの明かりがあった。降り注ぐ光は彼を祝福する様に煌々と幾重にも重なっていた。

 ……あぁ。

 とうとうここまで来たのだ、とグラスは思った。

 口がゆっくりと、笑みを作った。

 ゆっくり唇を動かした。

 静かに漏れる言葉は、誰にも届かない。

 否。

 一人、遠くグラスを見守る、『女神』に告げる。


「貴女に復讐の未来を……‼」


 ◆


 パリは、例年にない寒波によって、極度に冷え切っていた。

 五十年に一度とも言われる寒波は、街の姿を白く染め上げ、信号機、看板、窓……至る所に長い氷柱を創り上げていた。南部のマルセイユでも積雪の報告があるほどで、多くの人は一体どうしたことかと思う反面、交通網がめちゃくちゃになっている事に、表向きは苛立ち、裏では驚嘆――または、それによって仕事が休みになる事に歓喜していた。子供たちと言えば、学校が休校になる事を喜び、家の床を抜くのではないかと言うほどに飛び跳ねた。尤も一部の人からすれば、この異常気象は唾棄すべき程の事態であった。病院や、配送業を含め、止める事の出来ない者達は、気が気ではなく、自身の作業に集中し一分、一秒でも時を稼ごうと、神経をすり減らし――悲壮感を体中から溢れさせ、疲れた表情を隠す様に力なく笑った。

 街の様子は大多数の者の気持ちを反映し、明るい表情を見せていた。近年まれにみる異常な気象であっても、花の都は、降り注ぐ純白の白綿を、冷たい風を避けるダッフルコートの様にあちこちに着飾ってはしゃいでいた。

 街行く人々は皆笑みを浮かべて、子供たちは雪に片足を突っ込んでは笑いはしゃぎまわり、老人は夕飯の食材をたんまりと詰め込んだ紙袋を携えて子供達の姿を見送り、それを孫の様に微笑みで見送った。

 街は、人の営みによって暖かさを産み出しては、極度に冷え切った世界を温めていた。


 冷え切った外気は摂氏マイナス十五度。吐く息はそのまま凍り付くのではないかと思う程だったが、人の気も知らぬ様にふわりと上空へと消えていった。

 白い息の元をたどれば、一人の少年ルーがこの深い――歩くには不快な――雪の中を必死に、かき分けながら先を急いでいた。

 薄汚れた青色の髪に、澄んだ青い瞳の少年は、この時期にはあまりにも薄着だった。何度も汚れを落としたのか黒い染みが残ったままの薄手の灰色の長ズボンは、よく見ればベルトの部分もだいぶくたびれ、布があちこち擦り切れているのが分かる。バックルの下にあるボタンは、今にも零れ落ちそうな程に糸を弛ませていたが、それを修繕することもなく、履き続けざるおえないほどの過酷な状況なのだ、という事が垣間見えた。

 道行く人たちがファーのついた厚手の上着を羽織っているにもかかわらず、少年の上半身を覆うのは、元は白色だったと思われる茶色く変色した毛糸で編まれた、よれよれのセーター。伸びきったセーターは今にもずり落ちそうで、寒さをしのぐどころか左の肩口を露わにさせて、見ている方が寒さを感じた。

 彼の小さい腕には、体に密着させるようにしっかりと抱える茶色の毛布の塊が一つ。

 自身の身長もポストの大きさよりも低いというのに、がっちりと力強く抱える様子は、時期が時期だけに、まるでサンタクロースから贈られた新しいおもちゃでも包んだのかと思わせた。その上、彼のみすぼらしい姿と相まって、ある種の微笑ましい印象を周囲に与えた。当然、彼の脇を通り過ぎる大人たちは、皆同じように『あぁ、微笑ましいものだな』と自身の中で、そう完結づけては口元に笑みを浮かべて見送った。

 しかし、毛布の塊をよく見れば、明らかに異常である事が分かるだろう。大きさだけでも一メートルを優に超えていた。何が入っているのかは見えないものの、相応の重さがある事は想像するに難くない。だというのに、彼はしっかりと、ぶれる事もなくそれを抱えたまま、この歩きにくい雪道を進んでいた。

 彼の異常な――あるいは特異な――体力には理由があった。彼がデサンダン家で小間使いとして、日々――過酷な生活を送っていたために成しえた事だった。

 デサンダン家はパリ近郊に居を構え、その系譜は軽く十代は遡る事ができる程、歴史に富んだ家だった。このため、未だに多くの古い慣習が残っていた。例えば、力仕事は子供であっても『男』が行うという固定観念がそれだ。特色のある偏見はある種の仕事を選別するために口実に使われ、否応がなくその任を真っ当するのがルーの日常であった。ルーは年代から見ても身長が低かったが、身の丈以上にもなる鉢植えや、何に使うか分からない白磁の壺、一体どこから手に入れたのか分からない歴史を感じさせた美しい装飾のされたチェストに、大の大人でも手を焼く木製のベッドなど、数え上げたらきりがない『荷物』を掃除の度に動かさなければならなかった。必死に重荷と格闘する姿を、使用人に影で笑われながら、鬱屈した生活を送っていた。

 助けに来る者と言えば、足の悪いフットマンのジョンくらいなものだった。いつもハウスキーパーの言う言いつけを守れず、仕置きだと言われて食事が粗雑な物に置き換わった。カチカチの黒パンを薄くスライスされた物が二切れと、鶏肉が少量入ったひどく――言葉を選んだとしても――生臭い魚の死んだような臭いがする残飯とも言えなくもないスープを、朝と晩だけ食べる事が許された。

 まるでぼろ雑巾の様にこき使われるルーを見かねたデサンダン家の娘の一人は、密に食事を昼の間に恵んでくれた。そのひとときが、ルーにとっては唯一の救いだった。

 今、ルーが目指しているのは、一つの扉。

 塗装が剥がれ落ち、赤いペンキがぶちまけられた様な歪な印象を受ける、たった一度見た事のある扉だった。

 郊外の安いアパートの二階、その扉はあると記憶していた。

 優美な、歴史を感じさせるレンガ造りの建物が並ぶ中をしばらく進むと、風景が現代的に変わる場所に突き当たった。かつてあった地震によって地盤のゆるみから、建物が一区画丸ごと崩壊し、取り壊された跡地。今では仮設の住宅地となった場所――尤も長い間使われ仮設の意味が薄れているが――が見えてきた。薄い壁に、薄い窓。しかしそれでもそこが、ルーの希望の扉だった。

 懸命に進む彼の歩みは、そのプレハブの建物が近づくにつれ、今まで以上に強く、速くと急いていた。小さい足跡を後ろに引きながら、必死にホップする様に進んでいた。彼の表情が真剣であればあるほど、真面目な動きとの不一致から、ピエロの動きめいて滑稽だった。

 黒く霞む夜の空は寒々しく、無常に降り注ぐ白い雪が、通り過ぎる甲高い風の鳴き声が、ルーの様子を嘲笑う様に。彼に冷たく刺す様な外気を突き付けた。紅潮した頬に、凍り付いた汗がテントウムシのように七つ。鼻には氷柱が一筋。

 それでも彼は必死に進んだ。その歩みの振動は、手に持つ毛布の塊にも伝わった。毛布が一部ずれたのだろうか、はだける様にめくれ上がっていた。その隙間に深々と降り続く雪が、すっと音もなく何度も、何度も吸い込まれていった。その外気の――あるいは雪の――冷たさに呼応して、毛布が凍える様に微かに震えた。

 ルーは前を捉えていた視線をすっと悴んだ手元に動かした。

 毛布は随分とはだけて、彼の視線からでも中が見て取れた。家を出る時はしっかりと寒さを感じさせないように包んだはずなのに、と心中で呟いて顔を顰めた。

 中にいるのは一人の少女。隙間は小さくすべてを捉える事は出来ないが、金色の美しい髪が覗いていた。

 進む振動が、否応がなく毛布を徐々に、徐々に動かしていった。抱きとめるのは両手であるから、それを直すための手は足りない。ルーは舌打ちをした。自分に第三の手でもあれば彼女の寒さを少しでも取り除けることを本気で考える程に、彼は苛立ちを感じていた。

 風が吹く。

 降り積もった雪が舞い、ルーと毛布の中の少女に襲い掛かった。

 その拍子に、毛布がはだけた。

 零れ落ちる金色の髪。寒さで赤くなった頬に、整った顔立ち。花の様に美しく感じるのは、ただの美だけではなく、表情が苦悶に満ちて、儚さを持っているからか。

 少女の重い瞼が開かれ、うるんだ青い瞳がルーを見上げた。

 何か、唇が言葉を紡いだ。

 それは、今にも命の炎が零れ落ちそうな程に弱弱しい音にもならない唇の動きだった。

「――‼」

 ルーの足が路面にとられた。凍った路面を見れば、車が作り出した氷の轍だ。

 その衝撃で、毛布から赤く爛れた手が零れ落ちた。

 それは異様。一体何があったのか疑いたくなるほどに痛ましい姿で、ただ焼かれただけでなく、健を断ち切る様に、腕に刻まれた幾筋もの傷跡は、まるで百足が這いずっている様に毒々しい印象を与えた。

 ルーは勢いをつけて毛布を抱え直した。

 必死に、零れ落ちる彼女を受け止め様と、藻掻いた。

 風が収まった。

 先ほどまで、好き勝手に吹いていた風は、今は完全に凪いで、静かな静寂を作り出した。

 ルーは一度腰を下ろして、少女を包む毛布を直した。

 少女の頬に一筋の氷が付いている事にルーは気が付いた。

「……」

 掛ける言葉など見当たらなかった。

 彼女に痛みがない様に細心の注意を払いながら、ルーは頬を撫でる様に、氷を払い取った。

 毛布に嫌味に様に降り続ける雪を払うと、再びしっかりと少女を抱いて立ち上がる。

 目的の扉まであと少し。


 ◆


 二年の月日は簡単に過ぎていく。

 思い返せばあの扉を開いた時には、こうなる事が運命づけられていたのだろう、とルーは自身の前髪を弄りながら、ため息を付いた。

 せっかく親の無い身寄りの自分を囲ってくれた、デサンダン家を追い出される羽目になったのは、彼女を助けたからだった。その事を後悔はしていなかったが、いくらでも他の方法があったのではないか、と思案する日は続いていた。

 特に、彼女の――エクレール・デサンダンの命を守るだけであれば、「あの瞬間」に自身が身代わりになる事もできたのではないかと思い起こされ、その妄想に何度、胃がキリキリと締め付けられていたことか。だからといって、廊下の隅で、息を殺しながらバルコニーに佇むエクレールが「彼女の姉」によって傷つけられたのをその目で確と見て、その主犯が立ち去るのを、じっと待つ以外の度胸がルーには無かったのも事実だった。その時に聞いたエクレールの高い悲鳴は、ルーの脳裏に刻まれて消える事の無い悪夢の中に鳴る旋律の如く、朗々と幾度も彼の夢に現れては彼の心をざわつかせた。

 ルーがエクレールの姉に対して抱いていた感情は、高慢であったものの、「人」としての尊厳は重んじ、決してエクレールを傷つける様な卑劣な行為を行うとは思えなかったという事も、彼がその場に留まった理由の一つだった。事実、姉妹の語らいの邪魔は良くないと、その場に――あわよくばエクレールの姿が拝めるかという下心はあったものの、まさかその様な事態になるとは考えもしなかった。だからこそ、足はその場に縫い留められ、悲鳴と、必死に逃れようとする姿を目にした時には、思考が真っ白になり、ただ、ただ『出来事』を見届けた。

 激しい荒波の様に何度も押し寄せる感情は『後悔』ではあったが、エクレールの姉への恐怖心もあり、決してルー自身の行為に集中したものとは言えなかった。その身を焦がす様なその思いは、彼の中に燻り続ける煙を残し、いつまでも彼自身を苛むという意味では、間違いなく『呪い』だった。

 その呪いが仕向けた、細かい、消す事の出来ない火種となった呪詛は何度も、何度もルー自身を強く追い込んだ。実際、ルーが危険を冒してまでも、一度デサンダン家に戻った事からも、どれほどまでに、彼を蝕んでいたのかが窺える。

 デサンダン家の掟では、力なき者は討たれることを容認していた。時代錯誤の実力主義は、その家長たるリュヌの何代も前から続いた掟であり、今更それを否定することは、デサンダン家に仕える誰もが口に出来ない物だった。尤も、それは血族の定めであり、使用人如きには影響がない物だから、影で時代に取り残された家の風習を笑い物にしていた。

 この固い掟を守り続けているリュヌは、エクレールが実の姉に手足を焼かれたとしても、決して驚いたりはしなかった。むしろ、その力の前に負けたエクレールは、捨てるべき存在であり、デサンダン家のゴミとなり果てていたものだから、どこかの誰かがゴミを勝手に処分したとしても、何も感じる所はなかった。

 ルーはそれを承知の上で、デサンダン家に戻り、家長のリュヌに直々に懇願したのだ。エクレールの治療をするために。リュヌにとってみれば、小間使いの懇願など、取るに足らない物だった。しかも、ゴミを処分したのではなく、勝手に治療の場に持っていく事など容認できる話しではなかった。

 しかし、ルーのエクレールを想う――それは好意に等しい――気持ちに対して、『人』として理解を示したリュヌは、一つの交換条件を出した。エクレールの痛みに準じた痛みをルーが耐えられるのであれば、という条件だった。当然それは、ルーがエクレールと同等の怪我を負う事になるのを示唆していたが、ルーはそれを承諾した。

 その時、リュヌは確かに小さいながらも確かに――驚いて息を飲んで小間使いの少年を凝視したのを、ルーは五感で感じていた。

 そのルーの決意を目にしても、リュヌにも譲れぬものがあった。だから、リュヌは教育の名のもとにルーの両手、両足に――尤もリュヌなりの慈悲があったと思われるが――手持ちの黄 金の鷲が頭についた自慢のステッキでかなりの回数を殴打した。ルーは、肌が裂傷し、血だらけになっていたとしても、それが「エクレールの痛みの肩代わり」であるという強い、自身への罰則と、彼女を救える最後の望みである希望を抱いて最後まで受け切った。その時間、たっぷりと三十分。

 並みの精神力では耐えられない、その『教育』を『修了』したリュヌは言う。「これは一時の慈悲である。『教育』を終えた者を手元に置いておくことは、このエトワール養成校では出来ない。だから即刻、『立ち去れ』」そう、たしかに、ルーに告げたのだ。――決して正しく無かったとしても、リュヌは、リュヌなりに『人』を示したのだ。


 ため息がでた。その様な思いでなど何になるのだと言う様に、今でも残る腕の――足もあるが――傷跡を力んだ指でなぞり、ルーは思考を停止させた。

 身長が伸びたルーは、今では屈強といって差し支えない程に、がっちりとした体つきに変わっていた。肩幅に、太ももの肉付きも、小間使いの少年の頃とは格段に違って数段に太く、たくましい。精幹な表情は、引き締まった全身の印象と相まって、戦争帰りの戦士と言っても、違和感が無かった。しかも、彼の身に着ける飾り気のないにオリーブ色のTシャツが分厚い胸板を強調し、細見のジーンズがくっきりと太ももを表現し、よく手入れのされた黒いブーツを履いた姿は、まちがいなく大多数の人を勘違いさせるに十分過ぎるコーディネートだった。

 軍人が来た、という奇異な周囲の視線などまったく気にする事なく、ルーはいつものとおり決まった病室へと向かって歩みを進めていた。

 採光を重視して作られた十六区の病院には、街中とは思えない程の開放的な空間が広がっていた。入口入ってすぐに広がる待合室には、高い天井に、何本もの太い柱がアーチ状に連なり、身長の何倍もあろうという巨大な継ぎ目のないガラス窓をしっかりと支えていた。差し込む陽射しがまぶしくなりすぎない様に、建物に沿って植えられた植樹の数々が、柔らかな緑の光を待合室全体に落とし込んでいた。青とピンクの色に分けられ、幾何学的に並べられた椅子には、ちらほらと人の姿が見えた。多くの人が視線を向ける先には巨大なモニター。朝の早い時間にやっている、地元の出来事を紹介するニュース番組が流れており、楽しそうなレポーターの姿が画面いっぱいに広がっていた。

 待合室から奥の壁へと向かうと、建物の柱に沿って作られた四基のエレベーターが並ぶエレベーターホールになる。待合室同様広い窓が太陽の光を燦々と取り込んでいた。

 人で混み合うエレベーターホールの前までくると、白いカーデガンを肩に掛けた少女の姿が確認できた。予想外の出迎えに、内心嬉しさがあったルーは人混みを縫う様に彼女に近づいていった。

 微かに耳が拾ってくる、通り過ぎる者達の言葉には「アヴニール――特にエスポワールの苛烈さ」についての嫌味がずっしりと練り込まれていた。すっと視線を音のする方へ――気づかれないように――向ければ、手に、足に包帯を『しっかりと』巻いた男女の姿があった。十六区から近い事もあり、緊急搬送先になったのだろうか、ルーの記憶の中でもなんとなく画面で見た記憶のある顔たちだった。負け犬たちの恨み言に少し顔を顰めながらも、ルーは目的の人へと近づいていった。

 そのルーの姿を見つけて、少女、エクレールは表情を明るくした。

 エクレールは、微かに動く右手の小指だけで操作ができる、特注の電動車椅子に座し、器用に人混みを避けながらルーに近づいていった。しかし、普通の電動車いすと比べても、明らかに速度は遅かった。

「ルー‼ よく来てくれました‼ ――もう、だいぶ会えないでいたから……」

 嬉しそうに口元を緩ませ、エクレールは花の様な笑みをルーに向けた。ルーはいつも、彼女のその表情を見て、少し恥ずかしい様な気持ちになっていた。

 甘酸っぱい感情を隠す様に、ルー自身が笑顔を返すわけでもなく、必死に――ばれないように――クールさを演じて、無表情を返していた。それから決まって頭を下げてこう言った。

「エクレールお嬢様。ご機嫌麗しく存じます。」

 ルーは芝居がかったお辞儀を一つ。周囲から見れば、まるで老獪な戦士がどこかの首領の娘に挨拶でもする様に映るだろう。二人の年齢は大して変わらないのだが。

「またそうやって……。少し距離がある様に思えてしまいます。その様な、畏まった関係ではないと、言っているじゃないですか。家は――とうに出ているのでしょう? わたしももう家というしがらみは無いのですから、『上下』と言うのはさっさと取ってしまいましょうよ。……そうでなければ、わたし少し悲しいわ」

 エクレールは頬を膨らませ、ルーを恨みがましく見つめた。

 その刺す様な鋭いエクレールの視線を、ルーの蒼い瞳を捉えては、じっと真っすぐ受けていたが、彼女の視線の中にある熱を敏感に感じ取って、こそばゆい感情を芽生えさせていた。ルーは、身じろぎし、そのくすぐったい感覚から逃れようとしたが、うまくいかずに、取り繕う様に居住まいを正すと、

「これは、申し訳ありませんでした。――ですが、今でも、私は『エクレールお嬢様』に仕えていると心の中では思っておりますので」

「ふふっ。またそうやって紳士ぶるのね。――でもいいわ、ちょっと可笑しかったから」

 エクレールは口元を隠そうと腕を動かすが上手くいかず、諦めた上で笑みをこぼした。

 少々痛ましい姿を見せつけられる形となったルーだったが、わずかな動きで足の上からずれた彼女の左手を、そっと――丁寧に両手ですくい上げると、元の位置へと戻した。

 ルーは、心外だと口を尖らせた。

「そんなに、可笑しいですかね? 私は――その様な事をしているつもりは無いのですが……。それとも似合っていない……のでしょうか」

 ルーの手の暖かさを――ほとんど何も感じない左手から必死に受け取ろうとしながら、いいえ、とエクレールは頭を振った。だが、堪えきれずに再び笑い声を小さく上げてから、可笑しそうに言葉を詰まらせた。

「そうじゃないわ――。とても素敵よ。昔は『私』なんて畏まって言わなかったわ。ほら、まるで――猫の様に、『ねぇねぇ』とわたしの袖を引いて行ってくれたじゃない。それはそれでうれしかったのだけれど……。」

「あれからもう二年は経っていますよ……。昔の事……ではないですか」

「あら、たった二年前の思い出をそう無下にすることもないでしょう? それもこれも、頻繁に会いに来てくれないルーが悪いのではなくて? 昔を思い出さない程に来てくれても……いいと思うのだけれど」

 エクレールは口を尖らせた。頬を膨らませて、ルーの返答を待つように少し首を傾げた。

 その表情の変化をみても、ルーは未だに表情を微動だにしなかった。その代わりに小さく肩をすくめ、呆れたような声色で、

「それほど安定したのであれば、エクレールお嬢様が会いに来てくれてもいいのですが?」

「……たしかに、それは考えたことなかったわ。わたしから会いに行くなんて、すこしはしたない気がしたのだけれど――、ルーが良いと言うのであれば、問題無さそうね。そうね、今度、看護師のカトリーヌにでも相談してみようかしら?」

「――失言でした。まだ、術後間もないのですから、おとなしくしていてください。あの頃と同じ様に……お転婆のままでは……」

 声のトーンを落とし、ルーは頭を小さく下げた。

 そうね、とエクレールは真剣な表情で素直に頷いた。

「今は確かに、確かに状況が違うわ。今、わたしの様子を見に来てくれるのなんてルーしかいないのだから、素直に喜ぶとしましょう。芝居がかった言い方をすれば、『大儀である、汝の忠誠に感謝を』とでもいえばいいのかしら?」

 途中、声色を変えて楽しそうにしゃべるエクレールの口調が、ルーにとっては少し茶化された気がした。ルーはばつが悪そうに表情を歪めると、頭を右手で一度ぽりぽりと掻いた。

「……そこまで合いませんか?」

「ふふっ。そんなことはないわ。ただ、わたしは普通にお話しているつもりなのに、どうして――壁を作っている様に見えて……。でもそれだけじゃないわ。頻繁に――といっても、もう一年はあっていなかったけれど――会いに来てくれるのが、貴方だけなんだもの、嬉しい、と言うのもあるのだけれど、……そうね、正直に言うわ。……ただちょっと。――わたしにはまぶしすぎて、その、恥ずかしくなってしまったの。悪気があった言葉じゃないのよ」

 本当よ? と念を押してくるエクレールは、恥ずかしそうに視線を一旦外して、口を小さく尖らせた。しかし、すぐさまルーに視線を戻すと、ふぅと小さく息をついた。

 彼女の言葉を、ルーは嬉しそうに――微かにだが――目を細めながら左の手で前髪を少し弄った。こそばゆい感情がルーの胸に沸いて、気恥ずかしさを紛らわせるために、口を真一文字に結ぶと、再び表情をすっと消した。

 だが、何かを言おうとして、口を小さく金魚の様にぱくぱくとさせ、しかし口に言葉を乗せきる事が出来ずに、唾をごくりと飲みこんだ。

 ゆっくりとした空気が二人の間に流れた。二人の会話がそこで途切れ、視線が交差した。

 エクレールの揺れ動く瞳が――まるで濡れたように潤んだ瞳の様で――彼女の感情を如実に表している様に、ルーは感じた。

 ルーも今度はその視線をきっちりと受け止める。

 言葉はなくとも、そこにはかつての『主従』とは違う、二人の新たな関係が芽生えようとして、共に胸の内にしまい込んだ感情の扉をノックした。心音が扉の音にシンクロする様に高らかに響き始めた。

 チンッと高い電子音が二人の間に割って入った。

 ここがエレベーターホールである事を思い出したのか、二人とも頬を桜色に染めて視線を外した。

 誰も彼らの話しなど気にはしないだろうし、例え見たとしても、微笑ましさしさが浮かぶだろう。仮に、苦い感情を二人に対して思ったところで、二人を咎めることは無いとは分かっていた。

 しかし、二人は自身の心の内を誰かに覗き見られた様な、そんな恥ずかしい気持ちを抱きながら、無言だった。

 おもむろに口を開いたのはエクレール。エレベーターホールにある大きな窓に視線を向けたまま、風で揺られる木々の動きを恥ずかしさを紛らわす様に追っていた。

「――今日はいい天気。ここでお話するよりもきっと外の方が楽しいわ。……あまり、外に出る事も、付き添いが居ないとできないのだから、丁度退屈だったの。よかったら、――よかったら、いつもの場所に行きましょう」

「それが、お嬢様のお望みならば」

「ほら、そうやってまた格好つけるのね。――ふふっ。まぁいいわ」

 ルーはエクレールの左手をそっと握ると、車いすの速度に合わせてゆっくりと歩みを始めた。


 ◆


 二人は一般病棟を抜けて特別病棟との間にあるコの字に病院の建物に囲まれた、少し薄暗い中庭までやってきた。

 陽の当たりがそれほど強くないとはいえ、よく手入れが行き届いた中庭には、瑞々しい緑の色に囲まれていた。

 建物の壁に沿って作られた花壇には、真っ赤に燃える様なサルビアが出迎えた。奥には未だ手付かずの茶色が見え隠れしていたが、今植えている最中なのであろう、マーガレットの白がちらほらと目に付いた。

 コンクリートブロックを台代わりとして、ハンドスコップが置かれ、肥料の袋が立てかけられていた。何人かの職員らしき人影が、二人に挨拶をした。優しそうな笑みを浮かべ、中庭の来訪を歓迎した。

 軽く会釈をした二人は、あえて色のある外周を避け、中央にある白いガゼボまでやってきた。よく手入れされているその東屋は、最近塗り直されたのか綺麗な月白色をもって二人を迎えた。中に小さいベンチを設け、木製の柔らかな色合いが居心地のよい空間を創り出していた。

 中庭は、面会者と入院患者が面会する際に利用されるほか、入院中の患者が息抜きに、またはレクリエーションとして訪れる憩いの場であるから、今も、二人以外に人は居るものの、時折、軍人の様なルーの姿が覗くガゼボには一種の近寄りがたい雰囲気が作られ、『使用中』と張り紙でもされているかの如く、誰も寄り付く事はなかった。

 二人は向き合った。エクレールは車いすに、ルーはガゼボの中のベンチに腰掛けて、視線を同じ高さに据えていた。

「もう、だいぶ良くなったようですね。前よりも――その、表情が豊かになった様に……感じます。――前のままだとさすがに、心配で……」

 あら、とエクレールは頬を膨らませた。

「そんな風に見ていたの? まぁ、心配してくれるのは嬉しいけれど……」

 エクレールは一息、小さくため息をつく。

「――そうね、確かに、前は……その、参っていた、というのが正しいのでしょうけど。この……手と足は、もう戻らないのだと、そう……なんて言ったらいいのかしら?」

「無理に言う必要はありません。『今』のお嬢様を見られれば、僕は、嬉しいのですから」

 沈痛な面持ちのルーは、頬を左手の人差し指でぽりぽりと掻いた。

「――まぁ! それは本心の様ね! ふふっ。『僕』なんていつぶりかしら? あぁ、そんな表情をしないで。別に咎める事じゃないのよ。だって、もう……あの頃の様に、何もかもがある訳では無いのよ……。それでも、ルーの記憶だけはしっかり持っていたいわ。ねぇ、お願い。二人の時だけでいいから、そのままでいて欲しいわ」

 エクレールはぐっと身を乗り出して、下から見上げる様にルーの表情を見た。

 その視線から逃げるルーの表情は、珍しく口を尖らして、もごもごと、

「……そう、いう、訳にも……でも、そう……言うので、あれば……」

「――そうやってまた難しい表情をしないの。淑女の申し出を素直に受け取るのも紳士務めではないかしら? それとも、わたし達はそういう関係戻れないのかしら? それはそれで……とっても悲しいわ」

 エクレールは身を引くと、悲しそうに視線を下げた。仮に涙が流れたとしても、それを拭くハンカチすら彼女は持てない。だから実際に心で感じたとしてもそれを『完全に』表情には反映することは無かった。今、この時であっても。身をキリキリと削り取られるような悲しみの中にあっても、それを「そういう風に見せる」だけに留めた。

 彼女の表情を見て、そこまでは感じ取れなくとも、ルーはおろおろとした様子で早口で急き立てた。

「そ、そんなことは。ただ、あの時は私が無知だったために、多くの御迷惑をおかけしたと、確かに思っている所ではあるのですが。その状況が、――私の勘違いでなければ、お嬢様が嬉しいという風に感じていたのであれば、それは当時の状況がそうであっただけで、今、それが正しいかというと、なんとも、今のままでは理解できず。――あの、だって、僕、ただの元小間使いですよ? 今は……ただの何といえばいいか……。そんな獄潰しですよ?」

「そんなに、自分を自分で見下すことは無いわ。だって、私の命を救ってくれた恩人よ?」

「で、ですが……」

 エクレールは、視線を上げて、ルーの言葉を待った。

 しかし、否定をしようとしたルーから、言葉が紡がれる事は無かった。もごもごと口を動かしては、現れない言葉に彼は諦め様子で、口を再び真一文字に結び直した。

「ほら、事実は否定できないものなのよ。もっと胸を張って、それこそ、わたしに何かをねだるくらいの事はあってもいいのではないのかしら? ――尤も、お金なんて持ってはいないけれど……」

 エクレールは力なく笑い、ルーを見た。

 困った様に固まったルーは言葉を選ぶように口を二、三度小さく動かして飲み込んだ。

 二人の空間に微妙な空気が漂い始めた。

 エクレールは悲しそうに微笑んでルーを見ていたが、何かを口にする事は無かった。

 沈黙。

 ルーは自身の中にある衝動が膨れ上がるのを感じた。何年も、何年も溜めたその鬱屈した感情が、久しぶりのエクレールとの邂逅で鍵を開けられた様に感じた。

 ルーはゆっくりとした動作でエクレールに近づく。距離は元々一歩分も離れてはいなかったが、それでも彼の動きによって、その距離はほぼゼロに近づいた。

 まるで彼女の匂いでも嗅ぐ様に一度小さく深呼吸。

 エクレールの耳元に彼の吐息が掛かる。それは甘い物とは違い、少し悲しみに近い物。

 ゆっくりと吐き出されるのは、ルーの震える様な声だった。

「私の願いは、――」

 ルーは一度、深呼吸をした。エクレールの爽やかな髪の香りを感じた。

 言うべきか、と自問自答したが、沸き起こった感情は抑えきれず、か細く、震えた声のまま、外へと吐き出された。

「……あの頃は、おこがましいでしょうが、『友達』になってほしいと思っていました。当時はただの小間使いですから、ジョンくらいしか話し相手は居なかったのです。その時、エクレールお嬢様に声を掛けていただいて同年代の友達ができそうだった事に胸が躍りました。たった一度だけの会話から、次の日には、お嬢様に連れられて『工房』に初めて入れてもらいました。その時は――僕には何をなさっているのか、全く理解できなかったのですが、それでも見せていただいたカードの美しさといったら……。言葉にするのが難しいですが、一つの美術品を見せていただいた気分になっておりました。お嬢様とのそういった時間――お嬢様の学習の時間を抜け出すその時が……、二人で秘密を共有できる、とてもハラハラする様な、それでいて興奮する時間だったのは覚えています」

 一度、ルーは言葉を区切った。ルーは、ゆっくりとした動きで、エクレールの左肩にそっと彼の左手を乗せた。

 今までに溜め込んでいた――ルーを縛る呪いは、堰を切った。

「その時間がずっと続くなら。そう思いました。食事の事も――お嬢様が融通してくれたことで不満はなく、むしろ一緒に居られる時間が増えた事に、『友達』という言葉の意味も理解できていなかった僕が、初めてその感覚を得る事が出来たのも、お嬢様のおかげです。

 何度も行った庭園の水場で、僕が泳いだのを恨めしそうに見ていた事も。外周の木に一緒に上って、お嬢様が上手く降りられなくなった事も。ハウスキーパーのマーサさんにこっそりクッキーを一緒になって作らせてもらった事も。僕の仕事を知りたいと、大広間の掃除を一緒になって行って、うっかり一番高い壺を割った事も。それをパーシーが笑いながら片付けてくれた事も。僕が学校にも行ってないことを気にかけて、一緒に文字の練習をしてくれた事も。……どれもこれも。

 僕にとっては『友達』が出来たと実感できる時間でした。それが『あの時に』簡単に崩れ去るとはどうしても、どうしても想像が出来なかった。

 ただ、フラム様がエクレールお嬢様に話しをされるだけだろうと。そう思って……。

 ですから……私は、今でも、友を『裏切った』とすら思えて仕方ありません。

 確かに命を救おうと、僕なりの最善は尽くした……と思います。ですが――。ですが、それが間違っていたのではないか。もしかしたら、その腕がきちんと動く様に処置ができたのではないか。もっと言えば、……二人の間に割って入る事ができていれば、この様な事になって居なかったのではないか……そう思えて仕方ないのです」

 肩に載せられた手に力が籠るのをエクレールは感じた。微かな揺れが力みから伝わり、今、ルーが怒りに近い感情を持っているのを覗かせた。

 それは、彼の口元からも漏れていた。奥歯をがっちりと噛み、呼吸は荒くなっていた。しかしその姿は彼女からは見る事は出来ない。ただ、彼の乱れた呼吸が髪を撫でた。

 ルーの絞り出す声は次第にその震えをぴんと張り、その内に秘めた怒りを表に覗かせた。

「僕は、――この二年間、自身に向かう怒りを制御するために、必死でした。一瞬でも気を抜けば自身を害する事も脳裏に――何度も、何度も浮かびました。それで何も解決しない事は分かっていましたが、苦悩から解放される一つの方法として、捨てきれませんでした。

 だからこそ、剣の師の元で、ただ、ただ、剣をと向き合っていました。それが自身を律する事ができる唯一の方法に思えたからです。それでも……それでもその思いは、その感情は、時折溢れてきては僕を飲み込むのです。不安と、絶望を混ぜてドロドロとしたその感情は、藻掻いても振り払う事は叶わなかった……!

 ――私は、今許しを請うているのです。当時の私の無力さを。

 だからそう。私の願いは、エクレールお嬢様の本心を聞きたい……。

 いつも言う言葉は、私に対する当てつけなんじゃないかって……思えてしまうんです。私が『最善』を尽くせなかったからではないかって……。

 教えて欲しい。私は……。私は――無理だ。

 ただ、傍に居ようなどとする事が、おこがましく、とても卑しく思えて仕方がないのです!

 ――なぜでしょうか。……こんな事は言いたくは無かったのに」

 ルーは居住まいを正すと、左手を目の上に当てて視線を外した。それは一見泣いている様にも見える彼の心境。実際に涙を流す事が「できない」男の仕草。

 熱い空気が流れた。風が二人の間を遮る様に、重い、湿気を含んで通り過ぎた。

 途端、虫たちの音色が声だかに聞こえ、二人の沈黙を飲み込んだ。

 彼の独白の最中、エクレールはルーの言葉を真っすぐに受け止め、言葉を挟むことはしなかった。彼の気持ちを知ろうと必死に頭を動かしていた。何を彼が思い、何を望むのかを確認し終えると、エクレールは悲しそうな表情を一瞬見せた。

 エクレールは、頬を少し膨らましてはしぼめて、何かを思案している様に視線をぐるりと、ガゼボの中を見渡した。ひらひらと、蝶が一匹、ガゼボ入り込んで泳いでいた。

 自由に泳ぐ蝶を視線で追いながら、エクレールは小首をかしげた。

 どういう言葉をかけるべきか、すぐには出てこなかったため、行動で示す事にした。

「ルー。少し、……右手を握ってくれるかしら? 今はとても、そうしてもらいたいの」

 ルーは肩を落とすと、力の抜けた彼の右手で、エクレールのか細い手をすくい上げた。エクレールの微かに残る感覚が、彼のごつごつとした手の感触を彼女の小指に伝わらせた。

 ルーの手のひらを何度もなぞり、彼の緊張が無くなるのを待った。

 ルーの手のひらから力が微かに抜けたのを感じると、エクレールはしっかりとした口調でルーにゆっくりと、語りかけた。

「ルー。貴方はとてもよく、よくがんばったのよ? ずっとわたしが言いたかったのは、そうね……なんて言葉が適切かしら……うん、『感謝』なの。

 子供の頃、わたしはずっと一人で、其れこそ孤独に、父の言いつけを守るだけの日々をすごしていたの。毎日、同じ事の繰り返し。それは子供のわたしには苦痛だった。今でこそ、それは必要だった……ことなんだろうというのは、理解はできるのだけれど、当時は嫌でしかたなかった。

 ジュニアスクールにみんなと行って、楽しくお話して……、きっと帰りには誰かの家に行って楽しくおしゃべりして。きっとそういう日常が歩めたのかもしれない。そう思っていたの。

 でもわたしは、毎日車で下男が送り迎えをし、何人もの識者たちが教師という名前の監視を続け、自身の特異な――自慢じゃないけれど――頭脳の所為で、そういった日常は何も送れないって分かった時には、酷く落胆したのを覚えているわ。

 だからこそ、貴方が、わたしに……もう忘れてしまっているのでしょうけど、わたしの部屋にある重いチェストを動かしながら、わたしに笑いかけてくれたのは、とても、とても嬉しかったわ。

 わたしだって……『友達』なんてもの分からなかったのだもの。

 でも、その日をきっかけで過ごした日々を――『友達』と過ごした日々だって、わたしは思っていたのよ?」

 エクレールは慈母の様な微笑みを浮かべて息を吐いた。しかし、少し重い、彼女のため息。

 続く言葉を口に載せる時、エクレールは毅然とした態度で、きっぱりとした口調に変わった。

「その上で――、わたしは、貴方に伝えたいわ。

 今、わたしが生きているのは貴方のおかげ。それを絶対否定させる事は出来ないわ。

 貴方にだって否定させない。

 それはわたしの――わたしの生きている証だもの。

 わたしが、姉の凶刃によって手を、足を焼かれた時に、水をかけて冷やしてくれたのは一体誰? 誰かが助けてくれるかもしれないと、侍女達や下男達に、声をかけてくれたのは一体誰? 誰もいい顔をしないなか、必死にわたしに寄り添ってくれたのは一体誰? あの寒い冬に、町医者のグルナ先生の所まで、必死になってわたしを運んでくれたのは、一体誰? 大病院に担ぎ込まれて、膨らんだ治療費を――実家が払ったのは一体誰のおかげ……?

 ねぇ、ルー。自分のしたことを、できたことをきっちり見てはどうかしら?

 わたしは、貴方に感謝をしています」

 一息。

 対して、ルーは唾を飲み込んだ。

「最初に言った様に、その事実は変わらないわ。――これ今日でも二度目よ?

 さっきは、ルーにわたしの心が届かなかった、かなと思います。それはわたしの反省。

 でも感謝の気持ちは変わらないわ。

 少しでも楽になるというのなら、わたしは何度でも貴方に、ルーに感謝を述べます。だって、だって……! 生きているんですもの……!

 ありがとう。貴方のおかげでわたしはこうして、ちゃんとお話しが出来ているの。

 時間はだいぶ、空いてしまったけれど、今から――お友達に、なれるかしら?」

 次第にエクレールの言には熱がこもり、湿った――流れることの無い涙が――言葉が紡がれた。

「……」

 ルーは定まらない思考の中で、沈黙を返すのが精いっぱいだった。エクレールの小指が動く小さな動きがこそばゆく、定まらない視線をそちらへと動かした。

 かつては身分によって溝のあった関係は――本当は彼が気にするほどではなかったにもかかわらず――今ではもう何もないにも関わらず、ルー自身が妄想に近い思い込みによってセメントと化し、彼自身を縛り上げる重石となっていたことをゆっくりと、自覚した。

 ため息をついた。

 それは二人とも、同じタイミングだった。

「――ふふっ」

「……」

 エクレールは微笑みを浮かべたが、ルーは視線を上げて口を真一文字に結び直しまた無表情に戻っていった。

 握った手に汗が浮かんでいた。それはルーの汗。緊張している事を物語っていた。

 じっとりする彼の手を、大事そうにエクレールは眺めた。

 遠くから、笑い声が上がった。花壇の手入れをしている職員たちが話しているらしく、数人の笑い声は突き抜ける様に明るい。

 燦々と降り注ぐ太陽の陽射しは、ガゼボの廂によって二人に、色の濃い影を落とした。

 時間はもうすぐ昼を迎えようかという時間だ。

「ねぇ。ルー」

 エクレールは、ルーが言葉を選びきれないと悟り、言葉を投げかけた。

「わたしが、――フラムお姉さまに襲われたのは、なんでだか……わかりますか?」

「……それは、考えた事はありません」

「それもそうよね……。フラムお姉さまとは、ルーはあまり仲良くなかったようだし聞いてないわよね……。

 でも、わたし、お姉さまとは仲良かったよの? 毎日お茶を一緒にしていたし、学校だって、二年間は一緒に通っていたもの。好きな物の話し。好みの男子の話し。家族の話し……。二人の秘密の話し。いっぱいしたのよ?

 あの夜だって、二時間も前には、二人で話しながら夕食を取ったのだから……。変わった様子は無かったのだけれどね。

 だからこそ、わたしは『何故』って思っていたの」

 エクレールは、遠くに視線を送った。格子状の柵の隙間から、微かに動く人の頭が見え隠れした。とてもゆっくりとした時間が流れているのを感じ、彼女の目は次第に、悲しさに包まれていった。

 それは病院内での生活によりただ単調な、代り映えの無い自身の時間と、周囲の時間が違う事を明示された事による、悲嘆だったのか。



 ウィズ――アヴニール競技者――育成学校のエスポワールには、多くの『生徒』達がいた。それは、幼少の子供から、青年期の者達まで、幅広く集められていた。だからと言ってそこに統一性を失わせる事なく、きっちりと、几帳面に各年代を集め、一つのクラス単位で育成を図っていた。当然中には落ちこぼれる者や、内紛、いじめ、あるいは団結……。そういったすべての行為を『人為的に』誘発させるように、カリキュラムが組まれていた。

 正しく蟲毒の如く、脈々とその力を個体に収束させる学習こそが、エスポワールの特徴であり、各国の育成体制とは一線引かれる所以であった。

 その上、他国では年齢制限を設ける所を撤廃しており、幼少期の教育課程においても、その苛烈な教育を行っていた、

 表向き、新技術の『国営の』養成機関であるから、生徒間の衝突を容認する様な教育方法は『ない』ものであり、それを一切外部に漏らさぬ様に、生徒たちにすら生半可ではない強い――比喩ではなく――刷り込みを繰り返し、繰り返し行い、ある種の洗脳状態を作りだしていた。

 子供達は親によって、または自身の希望によって、明るい未来を夢見て入学する。中には孤児院に行っていた者も含まれるが、それはあくまでも少数。資産的に裕福な家庭が、『新しい物』を求めて入学をさせるのだ。それは、『アヴニール』の光の部分を強調され、過酷さという一点の曇りも見せる事なく磨き上げられた、リュヌ・デサンダンの手腕による物だった。


 黄金色の長い髪が宙を泳いだ。それは、大自然を切り取る雷光の一閃の如く。

 燦々と降り注ぐ夏の陽射しは、強烈な熱線で大地を、木々を、人を燃やす様に暑い。青空の中に聳える大きな入道雲が、もうすぐ雨を降らせることを告げ、ゆっくりと、其の身をクジラの如く雄大に風に乗って泳いでいた。

 大地には、青々とした多種多様の草がくるくるぶし程の高さまで伸びていた。

 その世界を切り裂く金色の髪は、フラム・デサンダンの物。一切の飾り気なく、後に黒いバンドで粗雑に止められているだけだったが、フラムの一足ごとの動きによって、縦横無尽に風に乗っていた。赤い視線が何もない空間に向けられていた。否。フラムにとっては眼前に仮想の敵がすでに配置されていた。見物人には見えずとも、それは構わないとでもいう様に、ただ、ただ、フラムは短槍を振るっていた。洗練された動きは、学校――エスポワール――の指定する黒色のタイトな体操着によって、体の動きを鮮明に描きだしていた。

 見る者を魅了する、彼女の動作。

 たかが十四の子供には見えない研ぎ澄まされた動きは、熟練の闘士を彷彿とさせる程の鋭さを持っていた。

 体が動く。

 右腕に引き絞られた短槍を突き上げる。短槍が大気を切り裂き唸り声を上げた。

 キィンと彼女の短槍の嘶き、彼女の動きが止まった。

 穂先に合成樹脂で防殻が施されていた。それは、血の様にぬらりとした毒々しい印象を与えた。短槍が赤い色をしているせいだろうというのは、見る者が目を凝らせばはっきりと分かる物ではあったが、一見すると今、この場でその凶行が行われた様に感じさせる程に生々しさを持っていたからだ。

 この穂先についた『防殻』は、決して人を傷つけないために用意されている物ではない。あくまでもここがアヴニールの選手養成校であるという事を忘れてはならない。『デズィーリは、金属の打撃によって爆発する』という原則は、例えカードという形状に変わったとしても変わらず、カードの回路以外を打撃せしめた場合、『暴発』することを意味していた。であるから、養成校など『半人前』のウィズ達は、防殻を付けた武器を使う事が義務付けられていた。

 動きの止まったフラムは、再び動きを起した。

 今度は右腕をしならせるようにぐんっと振るうと、短槍は彼女の左眼前から孤を描いた。

 穂先は鋭い動きを持って、風を切り裂く。リンッと半周の円を描いた後に穂先は大地すれすれまでの低さに降りていた。

 動きが急激に変化した。穂先が上る。

 すくい上げる様に上段に向かった短槍は大地を微かに削り取り、土を跳ね上げる。幾筋かの雑草の緑が宙を舞った。

 その直後、切り上げた短槍が今まで一番の速度を持って体へと吸い込まれてていった。

「――‼」

 左手の動きが加わった。精密に腰に付けられたホルダーからカードをドローした。革製のホルダーだろうか、滑らかな滑りを持って、フラムの左手にカードを吐き出した。

 直後、人差し指と中指に一枚のカードに刻まれたあかの光が煌めいた。

 投じられた。

 最小の動きで手首を捻り、前に。風の抵抗を最小限にするために、カードの面を立てて。

 体が入れ替わる様に、右半身がずれ短槍を持つ右手が後ろへ、ぎりりと音を立てる様に力強く引き絞られた。

 カードがフラムの眼前で高速で回転していた。フラムに片面を見せたまま、縦に激しく。中央に、銅の円形が見えた。

 カードの起点――それは、打点。

 それは、魔法の発動を行う打撃点。フラムはその赤き中心を狙いすました。

 その時フラムは思い出していた。かつて、あの「嫌い」だった授業の事を。


 脳裏に浮かぶのは、フラムが慣れ親しんだ『教室』だ。質素な調度品に大きな机は、彼女の背にしては、少々余り気味な様子ではあった。

 たった一人の生徒に対して、教師は一人。フラムに教えるのは、彼女の父親、リュヌ・デサンダン。彼女は、この教え方を嫌っていた。周りの子供達のように、同じ教室に行き、楽しく会話する。そういった自由すら、全く持てず、『さぼる』事も出来ない。居眠りなんてもっての他だし、誰かに答えを――あるいは、教科書の読む位置を――聞くことも出来ない。自身の力で全てを行い、解決をする制限が支配した空間。地力を求められると同時に、優秀でなければならないという重圧は、フラムにとって耐え難い苦痛を持っていた。しかし、子供だからなどと甘えた考えで、否定や不満を口にする事は出来なかった。リュヌの苛烈な性格は、フラムのよく知る所であったからだ。母親に父親がどれだけの仕打ちを――教育であると――していたかは、子供の目には辛く映った。食事のとり方、娘たちへの教育方法、家の雑事に関わる事、事細かに決められた規則は百を超える。それを一つでも破ろうものなら、家族だからとすぐに手を上げた。決して顔には手を向けなかったが、腕や、背、足の至る所に、母はあざを作っていた。

 リュヌ・デサンダン。フラムにとって、恐怖の代名詞になってしかるべきだった。リュヌは決して、『今まで』娘には手を上げていなかったが、母親の状況を見るうちに、『逆らう事』は決して出来ないと子供ながら理解した。

 この場に、たった二人の教室が作られた。

 リュヌはいつも穏やかな口調で、告げる。それは、『激』を内に秘めた静かな、恐怖。

「炎を前方へ。

 それはウィズを志すのであれば、最初に覚える魔法であり、最も魔法が魔法らしくある物の一つである。だが、誰でもできる訳では無い。『的』の対角線上にカードを『設置』し、『打点』に対して正確に衝撃を――射貫く必要性がある。カードの回路によって、縦回転、横回転……投じる軸を決めることも重要だ。それを素早く、正確に。魔法を使う上では――ウィズ(達人)になるためには必要になる。

 フラム。お前の武技は確かにお前の年齢では優秀だろうが、それだけではウィズに成ることは叶わない。なぜなら、武技に頼った者をひっくり返すために多くの魔法が作られたのだ。

 彼我の距離を一瞬で詰める魔法。自らのリーチを操る魔法。相手の足場を崩す魔法。相手の攻撃を防ぐための魔法。……多くは、その武技の合間に発動され、決して武技だけでは到達しえない効力を得るのだ。

 銃とは違いそこに、一片の機械的な装置としての面は無い。

 その上で、最も単純ではあるが――幾多の戦いの中で必要になるのは、自身のターンを取り続ける事。そのために、手数を増やす事。それを可能にするのが、火の単一射撃。

 あの忌まわしい『魔法使いの端くれ』どものアメリカが呼称した。それは、次第に一般的になって、しまった。――本当に忌まわしい事だ。魔法に名前を付けるなど。だが、いい。今はそれを覚えている事も重要だろう。『分類』という意味では、いずれ作られるはずだったのだから。

 そう、それはこう呼称されている。

 『トマホーク』」


 風が轟く。

 最速に打ち出された右腕に収まる短槍が風を創る。切り裂く空気フラムの腕に重い粘土質に似た感触を最初に運んだ。四方に飛び散る空気は、さらにフラムに重い重圧を、胸に、脚にとのしかかった。

 穂先は打点に吸い込まれた。

 手首を捻り、捻じ込む様に打ち抜く。カードにあたった固い感触が、短槍を通じてフラムの腕に振動を与えた。

 押し出す。その感触のまま、腕が伸びきった。その時間は、刹那。

「――ッ‼」

 轟の音。

 その音が一秒のタイムラグかき消す様に発生した。前に。前に。

 彼女の力のベクトルを受けて撃ち抜かれるカードは、神速の速度を持って魔法を展開した。

 続くのは炎の塊。フラムの短槍を『延長』した様に前に打ち出された。

 摂氏千五百度。

 感じる熱は右手を中心に、全身を駆け巡った。

 熱い。

 魔法は、尋常ではない熱量を一瞬で発生させた。浴びる熱量にその身を焦がされるような感覚をフラムは持ちながらも、一瞬の時を体感した。

 直進する炎は、重力の影響を『受けず』真っすぐに、真っすぐに前へ突き進んだ。

 それは打ち出された角度に従い、二十メートルの距離を持って地面へと向かった。

 到達する先には地面。飛び散る火の粉。

 その力は、炎たまりを作り出し、周囲を一瞬にして焼き尽くした。


「すごーい‼ すごいよ‼ お姉さま‼」

 黄色い声が上がった。

 フラムは視線を燻る地面から声の上がった右手に向けた。

 校庭に向けて校舎から作られたコンクリートでできた不揃い高さの階段に、一人の少女がいた。

 フラムと同じ金色の髪。青い瞳は興味深そうにフラムの短槍を見つめていた。

 白を基調とした学校してのワンピースに紺色の上着。胸元にはエスポワールの生徒の証である赤い炎を象ったバッチを付けていた。

「今日は穴倉から出てきたのね、エクレール」

 ふぅ、と息を整えフラムは二つ下の妹、エクレールに向き直った。短槍の穂先を地面に向け、次に向けて用意をしていた左手のカードを、ホルダーに――上面から――戻した。

「穴倉……いつも、そんな事を言って! 意地悪!」

 年齢相応に活発な彼女の言は、どこか幼さをまだ残していた。

 フラムと違い、武術を修めている訳ではなかったエクレールは、少したどたどしい――尤もフラムにとってはだが――足運びで、フラムに近づいてきて頬を膨らませた。

 しかし、エクレールは傍まで来ると、すぐさま表情を変え、嬉しそうに笑いかけた。

「お姉さまは、いつも、いっつも、……晴れの日も、雨の日も、雪の日も、ずっと外で修練なさっているでしょう? だから、そんなお姉さまこそ、外蔵にいるのです!」

「――、そんな言葉は無いわ。もう少し……趣味以外の事を勉強なさい。でなければ、デサンダンの家に傷がつくもの」

「いいんです! だって、お姉さまが一等立派になっていただければ、わたしの事は放っておくでしょう? 今から、お姉さまの代わりになろうなんて、そんなの……、わたしは無理!」

 エクレールは両手で大きなバツを作って笑った。

 フラムは、ため息をついた。左手を腰にあてて、エクレールを窘める様に目を細めると、

「そんな事だから、いつまでもたっても、エクレールは目を掛けられないのよ……。――それで好きな事ばかりやっている訳にも、じきに行かなくなる。もう貴方も今のカリキュラムを卒業でしょう? どうするのよ? そのままラボにでも向かうつもり? あの陰湿なシーカー達のいる……」

 まぁまぁ、とエクレールは意外そうに――嬉しそうにフラムを見た。それは、フラムが普段からエクレールの事について一言も話さないからだったからだ。その上、修練の邪魔をした中で、相手を気遣う様なやさしさを目にした事が、エクレールにとっては新鮮で、驚きを表現するに至った。

 それから少し表情を――下品に――にんまりとさせて、フラムに、

「お姉さまがわたしの事を気にかけてくれるなんて、――明日は雪かしら? あら。でもまだ夏だから、それはクリスマスまでお預けね! ま。ま。……そんな顔をしないで。わたしと違って『美しい』んですから、そんな渋った表情は似合わないわ。いつもの様に、凛とされているのが一番お似合いですわ。

 ――いいんです。いいんです。わたしは『探求者シーカー』の端くれですから、今日は、久々に工房に入れたんです! 一日、一日を捧げてにカードを、道具を、創る事に精を出している。その日常がとても充実しているんですから! 他のシーカーも考えた事のない事だって、すぐにできる様になりますから!

 そうしたら、きっとお父様だって認めてくださるもの!」

 力強くエクレールは頷いた。

 その様子を黙って見ていたフラムは、何かを諦めた様に小さくため息をついて、短槍を自身の脇の地面に突き立てた。さくりと、地面を貫いた短槍から手を離し、傍にいるエクレールにもう少し近寄る様に手をこまねいた。

 最初はどうしたことかと、きょとんとした表情だったエクレールは、何かに合点が言った様に一度大きく口を――右手で隠しながら――開けて驚いた様子をした後、嬉しそうにフラムに向かって、両手を広げて近づいた。

 ぎゅっと、力強く抱き着いた。

 フラムは、自分より背の低いエクレールの頭を優しく抱きながら、ゆっくりと語った。

「――エクレール。よくお聞きなさいな。

 シーカーになる事を、わたしは決して咎めはしないし、それを否定はしないわ。きっとそれはお父様も同じでしょう。……もしお父様が、ウィズにと……考えているのであれば、だけれど、そうね。わたしが貴方の年齢の頃には、毎日槍を振るっていたものね。朝から晩までずっと、ずーっと。決められた練習メニューを途中で止める事は出来ず、手の感覚が無くなって、足が重たくなっていたとしても。それは最後までやり通す様に『命令』されたわ。もしそれを破れば、『教育』される事になっていたかもしれないから。怖かったものね。

 ……ねぇ、エクレール。お母様は今どんな様子か――。そうね、言わなくていいわ。毎日『恐れている』のは分かるでしょう?

 それは、誰を?

 それは、何を?

 決まっているわ。お父様の事を。侍女たちも、下男たちも。大人たちはみんなお父様を恐れている。――それは、わたしも同じよ。本当に、怖い。

 いつ、自分がお母様の様になるか、全く想像がつかないもの。

 お父様は向かし――といってもそれほど前ではないのだけれど、一流の――今でもそうだと思うけれど、ウィズとしてアヴニールをここまで発展させた者なのよ。それは目にもとまらぬ速さで相手を切り伏せ、その腕力は有無を言わせず、チェスのグランドマスターの様に何手も先を読んで相手を支配する。

 きっと、――そうきっと、わたしももう支配されているのよ。あの男に。生まれた時から。

 でも、……でも、エクレール。貴女は違う。シーカーの道だって貴方が勝手に工房に入って物を弄ったからなのでしょう? ふふふっ。お父様がはじめて、わたしに驚いた顔で言ったのよ。『俺の道具を弄ったかとおもって叱ろうと思ったら、そいつの調整を終えて、にんまり笑うんだ。あいつは、あいつは持っているんだな。俺とは違う、天賦の才をさ』って。可笑しいわよね。

 一番非力な――貴方が、一番、お父様を驚かせたのだから。

 だから、わたしは貴方を応援するわ。

 でも、でもね。もっと、もっともっと……。上を目指さないと。上を目指していないと、『必ず』あの男は牙を剥くわ。例え、それが家族であってもね。

 だから、……だから、そう、ならない様に努力なさい。ずっと、ずっと。私は、貴方と離れたくはないわ。可愛い妹を、あんな上から押さえつける力だけで潰させたくはないわ。

 ねぇ、だからお願い。――お願い、エクレール。貴女は賢くなりなさい。誰よりも。

 父よりも」


 ◆


 フラムは目を覚ます。

 視線に入るのは白い天井だった。まるで、フラム自身には届かないと暗示する様な無垢な白。

 額に手を当てた。うっすらと浮き上がった汗が、腕にじっとりとした湿り気を返した。

 今から六年も前の出来事を夢に見るなんて。フラムは、そう言いそうになって、小さく口を開けると、ため息をついて、口に出さずに、心に留め置いた。

 今更懺悔のつもりかと、思いながらも、美しい顔を忌々し気に歪めた。

 赤いルビーの様な瞳がゆっくりと細められ、視界を狭くした。まるで彼女の心の余裕の無さを現す様に、細く、鋭く。

「――はぁ……」

 二度目のため息をついた。先ほどよりも重く、深い。その呼吸に合わせて、胸が小さく上下した。

 頭だけをチェストに向けると、銀色の時計が目に入る。雪の結晶をそのまま装飾した様な、細かい細工は、窓から微かに差し込む陽の光を浴びて、きらきらとフラムの視界にまぶしさを送り込んできた。

 細められていた視界のまま、時計の文字盤を読み取れば、時間は朝の五時を少し回ったところを無機質に指していた。

 いつもよりニ十分は早く目が醒めた事を確認すると、諦めた様に、一度目をぎゅっとつむった後に、上体を起こした。

 ふと額にずきりとした痛みを感じた。

 一瞬の痛覚であり、さして気にする物では無かったが、フラムは悪態をつく代わりに、小さく舌打ちをした。それが何を意味するのか、彼女は長い痛みとの付き合いから分かっていた。

 この痛みとは、四年前にフラムが、彼女の妹を害した時からの付き合いになる。初めの頃は、一体なにが原因で頭痛が起きるのか、それを気にしていが、妹の事を考えると起こると分かったのは、父との会話の時だったか。フラムの行為に対して、小間使いの少年が、エクレールを延命させ、剰え、病院の費用をリュヌ・デサンダンに懇願し、『教育』を与えたという事を、渋い顔をしながら話した父の話しを聞いていると、頭痛は次第に右の頭部を、右腕を、右半身をという様に侵食する様に痺れを催した。痛み、痺れ、引き攣り、それでもフラムは父の前で平静を装い、妹に対する行為を『正当化』して語った。

 自身は父の言いつけ通りにできたのだと。自負の念を込めて。

 しかし、其れとは反比例しれ頭痛は、痺れは、引き攣りは持続し、強さを増していった。その痛みが一日中、続く様になると、日常生活も徐々に違和感を覚える様になり、このままではなにかまずい事になるのではないかと、母にそれとなく話をした。その時、父の躾を一身に受けていた母は、力のない、疲れた様な笑みを浮かべ、『上がらない』腕を必死にフラムに差し伸べて、フラムの頬を撫でた。

「それは、貴女がまだ、まだあの子の事を好いているから。貴女のしたことが自分では『正しくない』と分かっているから。自身の心に傷を負っている証拠なの。――そうね、私が貴女た達に母親らしい事を何もしてあげられなかった事が、エクレールをそうしなければならなくなったフラムを救えなかった、原因、かしらね。……ねぇフラム。貴女は『そうしなければ』と思っていたのでしょう? でもそれは本当に、貴女の感情だったのかしら? 貴女の考えだったのかしら? 貴女の、思いつきだったのかしら? ねぇ、フラム。貴女は、あの人に、リュヌに、何を言われたのかしら? 私は……あの人の良いところも知っているつもりだけれど、多くは――本当に、外から見れば、酷い、事、一杯あるわよね。ごめんね。本当は、私が、私が、ちゃんと話をしてあげられなかったからいけないと――、分かっているの。でも、ね。私も、あの人の怖さに、負けて、――負けて……しまっているの。フラムに、エクレールに、何も話も出来なかった程に。あの人の言葉に、恐怖を感じてしまっているの。

 二人に母親は要らない。居るのは教育者だけだ。

 彼は徹底して、創り上げる気だったのよ。自身の見たい光景を。それを、それを分かって……いたの。

 ねぇ、――フラム。あの人は貴女に、何度も、何度も、……何度も、エクレールの事を、貴女を『脅かす』と、言われたのではないの?」

 その時の母の様子を思い返しながら、フラムは再び痛んだ額に左手を当てて、力強く擦った。力づくでその痛みを消そうと、藻掻く様に、何度も、何度も。鏡に映る、赤くなった額に、今日、三度目になるため息をついた。

 思考は止まらない。あの子の事を思い出す。

 その思考を止めようと、何度も、何度も、右腕を、左腕を、首を、顔を、頭を、指を、引っ掻いた。

 皮膚はミミズの様に腫れ、赤くなっていった。

 しかし、赤い皮膚を見る度に、鮮明にエクレールの事が思い出された。

 痛みを感じる度に、克明に脳裏に当時の記憶が浮かび上がった。

 嫌だと、逃げ出したい気持ちに苛まれながらも、きつく食いしばった口から呼気が荒々しく漏れだした。

 鏡に映るのは、本当に自分なのか、フラムはそれをどこか他人事の様に俯瞰してみていた。

 まるで鬼の形相の様にゆがめられた顔に、幾筋もの赤い線が走っていた。

 歪められた口からは、ぎりりと嫌な音を立てている奥歯が微かに窺えた。

 なぜ、何故。

 フラムは自問自答した。毎日、答えの出ない、その自問自答。

 何故、自分は愛した者を傷つけたのか。

 フラムは思った。エクレールの能力の高さは、自分の目指していた方向性とは全くの別物のはずだったのにと。それであっても、何が『恐怖』になり、『不安』に思い、彼女を排除しようという思考に至ったのか。

 フラムは呻いた。

 引き攣った鳥の鳴き声の様に甲高い音が部屋中に満ちていった。

 誰もフラムを止める事はない。今、廊下にいるであろう、侍女たちも『笑い』ながらフラムの事を扉越しに見ている事は知っていた。心優しかったマーサも、誰にでも優しくしていた下男のジョンも、フラムの世話を焼いてくれた侍女のエレンも。誰もがあの時、四年前から変わってしまった。

 呻く。咽ぶ。

 喉に痛みを感じながらも、思い出される、エクレールの記憶を振り払うために。

 エクレールの魔法理論は、フラムがリュヌから学んだものからみても、独特でかつ、職人技といっていほど緻密な物だった。それは、たった一枚に六つの面を作り出す回路を三次元的に作り出したことからも伺えた。

 一枚のカードに刻印できる回路の総量は決まっていた。それは長い間覆る事は無かった。面積が決まっているものであるし、何より表面にのみ回路を記載できるのだから。

 表と裏と二枚のカードを合算させようにも『規格』を超える物が出来上がってしまい、商品としては売れなくなっていた。当然、利用価値はあった物だから、そういった積み上げ式の物を『重複系統』とシーカー達は呼んで、好んでは研究しようとはしなかった。

 シーカー達が求める物はあくまでもカードの中での話。ウィズに求められるカードを、誰も見たことの無い道具を作り出す事に精を出していた。

 三次元的手法は、レーザの中中加工や、三次元プリント技術で一定の形まではできていたものの、回路――すなわち金属を『刻む』――溝に金属を添わせて設置し、熱によりプラスチックを融解させながら『叩いて』固定する――ことが課題になっていた。作った空間にどうやって金属の線――尤も細かい物で0.025ミリ程度ではあるが――を刻むか、当然、中空加工では埋め込む事はできず、三次元プリントでは可能ではあったが、手間が――なんども作業を中断するという――多く、商業的に生産性が乏しかった。

 よって、ほとんどの三次元的回路生成は、研究者が趣味の範囲内で行うものにとどまっていたものだから、表に、出てくる様な物は一切なかった。

 エクレールは、それを一つの方法で解決した。

 強い衝撃による暴発の力加減を見極めて、物理的に『手』でそれを書き込むという、力技を行った。誰もが、力加減を間違えれば即時に暴発する危険のある行為を、絶対に出来ないと笑い飛ばしていた。当然、普通にカードに回路を刻む場合には、それ相応の設備を用意し、機械にそれを代行させる。力加減など数値一つで制御できる事だし、たいていの回路は高解像度のカメラとセンサー類によって、きちんと刻み込むことができていたからだ。

 しかしその笑いも何もかも一蹴し、多くの彼女なりの研究によって、徐々にそれは成果を伴う様になり、最後には、『職人』と呼ばれるにふさわしい力量を付けるまでにいたった。

 エクレールが何度失敗したのかは分からないが、彼女に手に刻まれた細かいやけどの跡から、それが、壮絶な――あるいは、エクレールのとってはちょっとしたスリリングな――日常が窺えた。ある時は、カードと共に机を吹き飛ばし、盛大に穴の開いた机を、小間使いの少年と共に――笑いながら――解体している様を見かけたり、夜中に突然壁に穴が開いて、そこから苦笑いしたエクレールの姿が覗いたりした。そういう時は決まってフラムに「絶対にできるから」と胸を張って血で汚れた小さい手を隠しながら歯を見せた。

 結果、知識と力量は、一人の人として、確かにデサンダン家にエクレールという人を形づくっていた。

 だから、リュヌはフラムに言ったのだ。


 それは二人でいるいつもの教室。

 しかしいつもの雰囲気と違うのは、リュヌが呆れた様にフラムを見ている事だった。

 その様な表情を自分に向けられたのはフラムの短い人生の中でも、一度も無かった事だったから、一体何を言われるのかと気が気でない状況だった。

「お前は、エクレールの足物にも及ばない。武技を努力しようにも、未だ――未だ、何一つ大成できていないではないか。――なに、その力量の無さを咎めることは無い。お前に何一つ力が無い事に失望してもいない。初めからお前はそれだけの力しかないのだという事に他ならないからだ。

 それに比べエクレールは違うな。確かに、ウィズとしての能力は無い。全くだ。壊滅的だが、それに比肩する成果を収めている。デサンダンの家には『そういう者』もいるのだと、世界に言えるだけの実力を伴っている。お前も見ただろう。一枚に六面を持たせる事の意味を。三次元的手法は研究室段階から実用段階に、一人の個によって引き上げられたのだ。

 それも、たった十四子供が――頭でっかちのシーカーどもを出し抜いたのだ。

 それだけで十分な成果だ。それだけで、十二分の実力を持っている。ウィズに比肩するだけの、それだけの成果がある……というのに、お前は、未だ何も成しえないのだな。

 お前には教育するだけの意味があるのか? お前には、その高みに至るだけの力量がまだ、あるというのか? お前は一体なにができるというのだ? お前は何を努力しているのだ?

 すべてが無駄で、全てはただ凡人に成り果てるためだけに用意された道具なのだというのであれば、俺はお前に何一つ、今後与える必要はない。

 俺の家に、『エクレール』が居ればいいだけじゃないか。あぁ、なに、気にする事はない。お前がその高みにとって代わる事など、『エクレールが居なくなることが無ければ』あり得ないのだからな」

 フラムは笑った。リュヌの言に。自身の無力さに。

 何も出来ないと、罵られるだけならまだしも、とフラムは思った。出てくる言葉は、妹の称賛と妹がフラムの代わりになったという事実。

 その席を明け渡したつもりは無かったにも拘わらず、何一つの通告なく。

 その時、フラムの胸の内に渦巻いていたのは嫉妬と怒りだった。

 何一つ、血の滲む様な――苦痛な――日々を過ごしていないエクレールが、どうしてフラムの代わりに成れるのか。

 フラムは乾いた笑いを上げた。右手は左腕をしっかりとつかみ、色が変わる程に押さえつけ、赤いルビ―の様な瞳は、天井に向けられ、溢れ出る涙をこぼさぬように必死に努めた。

 泣くことなどは許されない。そう教え込まれた本能が、涙がたまっているだけだとフラムの脳に言い訳を行った。わなわなと震える彼女の肩の振動は、徐々に収まりきらなくなった彼女の涙を、次第に頬へと押しやった。

 涙が流れる。

 それでもフラムは泣いていないと言い聞かせた。

 そんなちぐはぐな感情と体の状態は、心を不安定にさせた。

 その時を見計らって、リュヌは――不敵な笑みを浮かべて――フラム、たった十六の娘に言った。

「そうだな――。俺なら、俺が、お前の立場だったなら、エクレールの腕があるから、問題なんだと考えるだろう。

 ははっ! 腕を取ってやればいいってな。

 まぁ、『お前にはできないだろうけどな』」


 フラムは呻いた。

 口の端からよだれが零れ落ちるが気にはしない。

 想起されたリュヌの言葉が、より一層、心に刻み込まれる嫌な感触を、感じながら、フラムは肩を抱いて呻いた。

 ふと、視線を鏡に向ける。

 赤くなった皮膚は徐々に元に戻りつつあった。それでも、ぼさぼさになった髪に、皺の寄った寝間着、ところどころ赤い筋に見える体を持った姿をみると、本当に自分かと、フラムは思った。

 俯瞰した視点によって、少し冷静になった。

 乾いた口を無理やり開けて、空気を取り込む。

 ぬるい。夏の高い気温の中の空気は、どろりと肺に流れ込んできた。

 その程度の事で、頭はゆっくりとした動きに戻り、空回りしていた思考を、正常に戻していった。

「あぁ」

 フラムは理解した。

「あの時から、もう、わたしは、狂っていたんだ……。」

 愛は反転し憎悪に変わる。変わった憎悪の行き先は、愛すべき相手であった事を自覚し、フラムは何度目になるのか分からない、重い、重い溜息をついた。



 ガゼボの中で二人は沈黙を守っていた。

 湿気を多分に含んだぬるい風がさっと肌を撫でた。いつの間にか浮き出ていた薄い汗によって、思った以上の涼しさを与え、ルーは心地よい感触を受けた。

 ルーはエクレールの次の言葉を待ち、いつもの無表情とは打って変わり、心配そうな表情を張り付けていた。

 エクレールは、どう言うべきか思案している様だったが、重いゆっくりとした呼吸をした後に、静かに言葉を選んだ。

「わたしは、――直接それを言われたわけではないの。でも……言葉の端々で、どこか、どこか壊れた様に感じる言葉を、あの人から貰った事はあるの。――もし、わたしの推測が、正しいのであれば、あの出来事は、あの人の言葉だけで起こった……と考えられるわ。

 あの人は、きっと、わたし達姉妹の事を、『家族』とは見ていないのでしょうね。……それは、お姉さまへの当たり方、お姉さまへの言動、わたしへの視線、わたしへの言葉……全てが、少しづつずれている所からも見受けられたわ。教える立場であっても、本人を前にして決して褒めはせず、助言する立場であっても、成功への道筋は説かず、観察する立場であっても、それを本人に――または周囲に――感想を述べる事はせず、『違う』という封鎖と、必要以上の『知識』を眼前に置いて、『さぁ好きにしろ』というわりには、手を縛り、足を絡み取り、首は固定され、口を封じ……そういった様に感じるほど、『自由』を奪い続けていたわ。

 何も、あの人の事を嫌っている――という訳では無いの。あれでいて、わたしにとっては、家族なのですから。それは、それで……大事な事なのだと思います。

 でも、でもね、あの人は、わたし達を自身の夢……あるいは願望――もっと言えば、妄想かしら……、それを求める道具にしたかっただけで、そのためには人間性は全く不要だったのだと思うわ。

 あの人自身……とても冷徹な、あるいは、途轍もなく頑固な者でしょうから、その夢に囚われている間には、きっと、家族なんてものには、成れなかったのだと思うの。

 おそらく……その夢というのは、あの人を超える、傑作を作り出したい――それは間違いなくウィズという函の檻に閉じ込められた『魔物』を……、それを、ただ芸術家気取りで作りたいという物だと、わたしは理解しています。

 あれは、一つの夢の結実において、間引きをするための『儀式』であって、決して、『憎み』や『苛立ち』や『失望』という類の『感情的問題』ではないのだと思っているの。

 だからね――、お姉さまがわたしの事を『害した』のでは無く、あの人がお姉さまを『そう嗾けた』と思っているの。

 だから、お姉さまを恨めない。恨む事が……できない。

 ただ、あの人は、父は。そういう人だとわたしは――今になって、理解して、でも……恨んでいると思うの。父を」

 どこか寂し気に、エクレールは口を閉じた。

 ルーは、握ったままの彼女の小さい手を、気づかないうちに力を込めて握っていた。あわてて、力を少し弱め、エクレールから視線をパッと外した。

「ねぇ、ルー。――貴方は、何を思うかしら。仮に――という話ではあるのだけれど、この、わたしの推論を聞いて」

 ルーは視線をエクレールから外したまま、伏せた。地面には蟻の行進が見て取れたが、その単調な動きに合わせる様に、彼の中にある戸惑いの感情は、規則正しい反復を、彼の脳に送っていた。

 口が乾く。それをごまかす様に、ルーは前歯を舌でなぞると、もごもごと口を動かして、唾を嚥下した。

 深く息を吸い込むと、ゆっくりと自身を落ち着かせるように吐いた。

 エクレールの手を握っていた手を解くと、姿勢を直し、エクレールに左腕を見せる様に差し出した。

「それは、――私にとってみれば、『事実』の様に感じます。私が――エクレールお嬢様の医療費について懇願をした時、あの方は、私に『教育』を行いました。この、大小様々な傷は、私の――剣の修行で付いたものではありません。――あの方の教育によって刻まれた、……エクレールお嬢様への忠誠の証だと思っています。

 だからこそ、そういった『血の通っていない』関係を意図的に、あの方が家族という枠を使って行っていたとしても、何も、疑問に思う所はなく、それはむしろ、あぁそうであるかとおいう様に素直に受け入れられ、筋の通ったものだと感じます。

 ただ、ただ……。私は、エクレールお嬢様ほど、フラム様も、リュヌ様の事も分かっていません。その推論を聞いたとしても、私は結論を出す……という事は出来ないと、感じます」

「――そう、よね。わたしは、ただ、貴方に同意が欲しい……だけなのだと思うわ。ちょっと、一人で考えすぎる時間があまりにも多かったから、だから……いけなわね」

「それは……別段構わないのではないでしょうか?」

 ルーの言葉に、エクレールは、伏せがちになっていた視線を上げて、ルーの蒼い瞳を驚いた様に見つめた。

 ルーは腕を下げ、再び、エクレールに向き直った。

「私は、エクレールお嬢様が、その様に感じ、そう考えた。それは、エクレールお嬢様にとっては『事実』になるのだと思っています。

 恥ずかしい話ですが、――私も先ほどお嬢様にお言葉を貰うまで、……自身で思い込んだ物が、事実としてこの二年間過ごしてきたのですから。

 真実は別にあるのだとは思います。ですが、自身の中にある事実は、別に個々で違っていても……構わないのではないのではないでしょうか?

 今、お嬢様が話してくださった事は、すり合わせが必要なもの……なのでしょうか?

 この様な言い方は適切か分かりませんが……。これから先、もう二度と、あのデサンダンの家に戻る事は――無いのですから」

 エクレールは、驚き、口をぽかんと開けた。

 その表情があまりにも、間の抜けたものだったから、いつもみたいな気丈な表情に慣れていたルーは、可笑しくなって、自然と口を緩めた。

 小さく、鼻を鳴らした。

 そのルーの表情の変化に気づき、エクレールは頬を膨らませた。

「――まぁ。そんなに可笑しかったですか? 今まで、一番……馬鹿にされた様に感じます」

「いえいえ、そんな事はありません。ただ、そんな顔を――見たのは久しぶりですから、ちょっと、懐かしくなった……だけですよ」

 もういいわ、とエクレール首を右に捻ると、膨れた頬のまま、格子状の柵から覗く景色に視線を這わせた。そのまま、憮然とした口調で、

「たしかに……ルーの言う通り、わたしがどう考えるか……だけでいいのかもしれないわね」

 そうですね、とルーは相槌をし、機嫌を損ねない様に慎重に、エクレールの右手を握るため、右手を伸ばした。

 それを嫌とでも言う様にエクレールは、小指を小さく薬指側に向けて動かした。

 ルーはわざとらしく肩を落として、姿勢を戻すと、

「エクレールお嬢様。――今日が何の日か覚えてはいらっしゃいますよね?」

「……」

 エクレールは視線を合わせぬまま、小さく首を縦に振る。

「貴方が来るのは、いつも――決まって、いるじゃない」

「そうでしたっけ?」

 エクレールは唇を尖らせたまま、とぼけるルーに視線を流して非難した。

「ま、まぁ。今日は、エクレールお嬢様の誕生日という事で……。簡単ではありますが、プレゼントを――お持ちしました……が」

 ルーは言葉を区切って、両手を広げ何もないことを示す。

「見ての通り、私が今持ってこられる様な物ではないのです。それで……。実は今、病室に運んでもらっていまして……あまりにも退屈でしょうから、と――小指だけでも扱えるようにキーなども調整したパソコンをご用意してあります」

 エクレールは表情を変え、目をぱちくりと二度、三度瞬きさせると、

「そ、それは、嬉しいわ。で、でも、高い……のじゃなくて? 普通の物ならいざ知らず……この車いすだって――特注で……値段が張ったのよ?」

「大丈夫ですよ、エコール・ポリテクニークの……ニコラとちょっとした伝手で出会いまして……。彼、結構面白い事をやっていたものですから、つい相談をしてみたんですよ。そしたら、『そんなの俺が作ってやるよ』って笑いながら、気づいたら二週間後には形にして送ってきたんで……好意を嬉しくいただく事にしまして」

「……ルーったら、なんで、そんなエリートと仲良くなっているのかしら。貴方、未だに計算も怪しんじゃない?」

 ルーは笑いながら否定をした。

「ははっ。さすがに、生きるためには色々と勉強はしましたよ。剣の師匠にも教えてもらいながらではありましたが……中等教育程度は、まぁできていると思いますよ。経歴はないですが……」

「あら、そう。……残念。もう、わたしが教える……事はできないのね」

 残念そうに、エクレールは視線を伏せた。

 ルーは、エクレールの最終学歴が、アヴニール養成校の幼少カリキュラムだったことを思いだして、気まずそうに、わざとらしい咳ばらいをした。

「――もう、時間はずっと進んでいる物ね。ねぇ。ルー、わたしは、もう貴方に教える事も出来ない。何一つ、返せない。感謝を述べるだけでは足りないのも分かっていはいるの。その上……プレゼントまでもらって。

 わたしは、貴方になにができるのかしら? 生きて、生きて、藻掻いてでも生きて。でも何ができるのかしら。ねぇ、ルー。ギブアンドテイクというのは必要だとおもうのだけれど、常に与えられるだけだと……ちょっと心苦しいところがあるわ。

 貴方は何か望みがあるの?」

「あー……そんなに、考えなくてもいいと思うのですが……」

 素っ頓狂な声を上げて、ルーはぽりぽりと頭を掻いた。珍しく表情を困惑の色に変えころころと表情を変えていた。

 そんな表情など一体どれほど前に見たのだろうか、エクレールは思案した。かつて見たルーの多くの表情は、かつての――といっても二年前以上昔の――記憶の中にしかなかったものだから、はたして、この様な困惑に近い表情を見た事があったか、どうしても思い出せなかった。当時の事は鮮明に、色濃く覚えているのは、二人して笑いあった日々であり、驚きこそあれ、困るという行動がすっぽ抜ける程に、充実していたのだ、と実感するにとどまった。

 ルーは、鼻を軽く右手で押さえ、考えていた。

「――望み……というものとは違いますが、先ほどのとおり、私の中では贖罪のつもりだったのですよ。だから、これと言って……というのが正直のところで」

「あら、余り遠慮する物ではないと思うのだけれど……。そうね、望みと漠然に伝えても実感がないのかもしれないものね。

 ――そう、ね。わたしに、なにかして欲しいことはあるかしら? できる事はそんなに……ないのだけれど。例えば――手料理が食べたいとか」

 その言葉にルーは唖然とした様に口を開いた。

 しかし、エクレールの自信満々の顔を見て、次の瞬間には、腹を抱えて笑い出した。

「ははは! くひっ! す、すいません、ふふっ」

「そんなに笑わなくてもいいのに。――でもそうね、そういう事を言ってみたらどうかしら? 少しだけ、わたしも、前向きになれるから」

「――ふー。いや、はや。お嬢様に笑わされるのは、何年ぶりになるのか……。

 そこまで、仰られるのであれば、そうですね、一つ、一つだけ、欲しい物があります。

 それは中々簡単に、もらえる物ではないのですが……。なんせ、この世界では溢れているもので、一般の人にとって見ればただの記号で。でも私にとってはかけがえのない物になります。

 そういった物を貰いたいと思うのは、ひとえに憧れだと思いますが……」

「それは……、わたしにできることなのかしら? なにか、少し難しように感じるのだけれど」

 その問いに、ルーはゆっくりと頷き、

「それは、問題ないと思いますよ。ただ……私は、お嬢様がその様な才があるのか、正直なところ未知数でして」

 エクレールは怪訝な表情を浮かべた。

「少しもったいぶっているけれど、具体的には……」

「そう、ですね」

 ルーは言葉を区切って一度深呼吸

「名前が欲しいんです。

 私は生まれて此の方、リュヌ……様が付けてくれた、『狼』の意味のルーという単語だけ。それ以外に私を表現する物がありません。

 家族の名前など、あったのでしょうが、私の中に、記憶という中には一切ありません。一応、記録も調べてはみたんですが、……教会にも、当然役所にも記録らしい物は見当たらず、生まれた病院を調べる事すらもできませんでした。

 といっても、初めからデサンダン家に居たかと言われると……なんとなく違う様に思えます。おそらく二~三才くらい……までは、兄弟――あるいは、同世代の仲間の居る場所にいたのだと……思えます。いくつかの情景が今でも目に浮かぶ事があります。薄汚れたランプの明かりはとても光源としては小さく、部屋全体を満たす程では無かった様に思えます。その中に浮かびあがるのは、木製薄汚れた壁に、狼の頭――剥製がかけられて、ボロボロの絨毯にはいくつもの染みがあり。でも仲間――あるいは兄弟達が、私の世話をしてくれている様な……そんな情景です。

 そんな景色をみても、私に『家族』という実感を持てるものはありません。

 ですから、――私一人でもいい。そう、本当の『個』として認識してもらえる『名前』が欲しいんです」

 ルーは微笑んだ。普段は強面の彼だったから、その微笑みはどことなく、ちぐはぐとした印象をエクレールに与えた。

 しかし、ルーの望む物が聞けた上に、彼の心境をきちんと聞く事ができて、エクレールは満足した表情を浮かべ、首を縦に小さく動かした。

「――ねぇ、ルー?」

「なんでしょう?」

 エクレールはいたずらっぽく笑った。

「さっきの、『今から友達になれるか』という問いの答えを聞かせてくれる?」

「……。友達。という関係なんでしょうかね。正直、私には……」

「答えて?」

 言葉を遮り、エクレールは催促した。にやりと、した意地悪な表情のまま。

「――私で、よければ」

 その答えにエクレールは、うん、と頷いた。いたずらっぽく唇をチロリと小さく舐めた。

「友達、以上には成れないのかしら? そう――例えば、家族とか」

「……」

 ルーは難しい顔をした。眉を寄せ、唇をきつく結び、空気を多く取り込む様に、小鼻が膨れた。

 エクレールの問いにどういった返しをするべきか、うまく浮かばす、二度、三度と瞬きの回数が増えた。

 エクレールは、少し急ぎすぎたか、と表情をころりと変え、神妙な表情に塗り替えた。

「難しく、考える必要はないの。だってそうでしょう? わたし、もう帰る家もないのだもの。一人で、これから、ずっと一人でいる……というのが耐えられるのかしら?

 そう、時々思うの。でも、それを誰にいう事ができるかしら。病院の人に言ったところで、せいぜい話し相手にはなってくれても、家族に――という人は居るわけないわ。

 あ、別に介護しろって……言ってるわけではないわ。こうみえても――」

「――エクレールお嬢様」

 エクレールが必死に、弁明しようとするその言葉を、ルーは止めた。

 手で優しく口を塞ぐ。

 エクレールの口の動きが止まるのを確認すると、すっと手を離した。

「それは、とても嬉しい申し出ではあります。ですが、私にとっては――それは、いままでの行いに対してリターンが大きすぎる、気がします。――それほど、お嬢様の事、憧れだったんですから。

 で、あれば、足りない分を、何かで働くのは道理です。お嬢様のお世話ができるのであれば、それはそれでとても嬉しい事だと、私は思います」

「……そう、よかったわ。嫌だと――言われるとも、思っていたのだから。

 でも、そうね。――そうね。

 少し、貴方にあるその、――好意に付けこむ様な言葉になるのだけれど……。そうね。

 わたしの世話ばかり焼いていてもきっとつまらないと思うの。

 でね、でね。一つ、働いて……働いてくれるかしら?

 そうしたら、名前を、名前をあげるわ」

 ぐっと身を車いすから乗り出すエクレールを、ルーは窘める様に肩を押して座り直させた。

 ルーは穏やかな笑みをうかべて、

「さっきから、貸し借りを続ける、ばかりになってしまいますね。――ふふっ。きっと家族ってそういう物ではないのでしょう。

 相手の為を考える。相手に寄り添い、しかし依存する物ではない。そんな話を師匠から聞いた覚えがあります。

 名前の、対価としてならば、家族になるという申し出だけで十分です。

 その上で、お嬢様が、――エクレールが望むのであれば、可能な範囲内で、行いましょう。今は動かない、貴女の手、足の代わりになる様に」

 そう、とエクレールは肩で呼吸をして、早鐘の様になる心臓の鼓動を落ち着かせた。

 二度。三度。深い呼吸を行えば、自身の前のめりになっていた感情が、次第に落ち着いていくと同時に、今までの事を思い出して、顔が熱くなった。

 しかし、心配そうに見つめるルーの視線を浴び続け、次の言葉を模索した。

 逡巡。

 その時を飲み込んで、エクレールは言葉に出すことを決心した。

「……父は、お姉さまを、今や、最高傑作に近い状態にまで高めているの。テレビでも、ラジオでも、お姉さまの名前を聞くことができるものね。

 アヴニールという檻の中では、きっと輝かしい物になっているのだと――思います。

 だから、……だから、わたしは、お姉さまを、打ち破ってほしい。

 そう、して、欲しいの。父への復讐のために」

「……それは」

 ルーは一度、顔を顰めた。しかし、エクレールの悲痛な表情を見た時、彼の中にあった流動的な感情は、すっと音を立てて定まった。

「難しいと思います。とても。私の剣は、たった三年程度の物です。一方、フラム様の武技は単純に私の五倍近い研鑽を積み重ねて作られたものです。簡単に、できる、とは言えないのが事実です。私には、それを打ち破る力が足りない……」

「そう、――よね。……ねぇルー。車いすの下に入れているものを、取ってくれるかしら?」

 ルーは、言われるがまま、エクレールの後ろに回り、車いすの下に取り付けられたバスケットの中を見た。

 一つの黒い、トランクケース。それは、大事そうに金色の金属――おそらく真鍮か、あるいは金メッキか――で作れられた鍵が掛かっていたが、ケースの上面に、茨を模した様な鍵が張り付けられていた。

 見た目以上に軽いケースを抱きかかえると、エクレールに見える様に、再び、ベンチに腰掛けつつ、膝の上に載せた。

「開けて」

 エクレールは、目を伏せ、告げた。

 その言葉に従い、鍵を開けた。

 パチンという音と共に、ケースは開かれた。中にあるのは、黒いウレタンの仕切りに、競合しないように並べられた幾枚ものプラスチック。

 それをルーは知っていた。

「これは……」

「お母さまが、――届けてくれました。父には内緒で。わたしの部屋、もう無くなってしまったらしいの。でもね、多くの物を、取っておいてくれたようでした。きっと、お母さまなりの気遣いなのでしょう。

 その中の一つです。――そう、わたしの作ったカード。

 おそらく……おそらく、わたし以外には作る事のできなかった『傑作』です。一枚に片面三面の属性を合わせ、競合させないよう回路を設けています。打点が変われば効果も変わる。

 カードには、発生した属性に応じて、読込が始まります。カード総量と同じだけのデズィーリが消失――デズィーリ自体にロードがされると、効果が発生しますから、片面で発生したロードは、裏面の回路に影響なく、デズィーリを取り込みます。

 だから即時、状況に合わせて展開が可能――クラスターカードと違い、一枚で完結される様になっているから、ロード時間は一秒で変わらないのだけれど……。

 わたしは、研究室段階でそれを入れているスリーブの、遠隔発動しかしていないから分からないけれど、これを扱うのは相当手間、だとはおもうの。でもね、これを使えれば、お姉さまの持っている火力を上回ることができると確信しているわ。

 相乗の効果により概ね……二十五%は上昇するのではないかしら」

「……」

「でも、それを託せる者がいないの。貴方しか。――わたしの中にある、『希望』は」

 ルーは難しい顔をして、そのカードを見つめる。

 一枚手に取り、その表面をなぞる様に視線を向けた。エクレールの言う様に、片面に三面を作成する様に斜めに作られた回路が、プラスチックの『内側』に形成されていた。打点にあたる部分は極小。カードに刻まれた回路をなぞる必要性がなく、低コストの様に見えた。

 しかし、カードの使用に際しては、スローイング後に回転するカードの打点を、正しく叩けなければならず、このカードの場合『暴発』する危険が多分にあることを窺わせた。

 ルーはエクレールに問う。それは、自身への期待を受けたうえでの催促。

「では、お嬢様、私のお願いの答えを聞かせてください」

「――そう、そうね、そうよね」

 エクレールはぱっと華やかに表情を変えると、力強く告げた。

「あなたはグラス。その気取った、態度には『優雅』さが必要でしょう? グラス・ルー。なんていったらいいんじゃないかしら。ふふっ。狼に優雅さは合わせないことが多いとは思うのだけれど、わたしは、そういった名前、好きなのよ」

「――グラス。ですか。その名前――に恥じない様にしなければいけませんね」

「そうだわ! わたし、貴方の家族になるのだから、エクレールという名前ももう、この際すっぱりと捨ててしまいましょう。そうね……。わたしはラヴィ。わたしが初めて『生きている』と感じるのだもの。その気持ちを名前にしましょう。ラヴィ・ルー。ふふっ。なんだか、楽しくなってきちゃった」

 面白そうにエクレールは歯を見せた。

 ルーはカードをケースに戻すと、エクレールの手を握った。

「では、私たちは共犯という事です。お嬢様の――ラヴィの姉だった方を打ち破る」

「そうね、ええ、いいわ。いい響き。共犯なんてとてもワクワクしてくる。きっと、わたしはこうなることを夢にまで見ていたのね」

 エクレールは、小指でルーの手の平をなぞり、嬉しさを表現した。

 その彼女の小さい仕草に、ルーは告げる。

「わかりました、ラヴィ。――必ず、『フラム』を討ち取ります」


 ◆


 四年の時を経て、二人は出会った。

 燃える瞳が見つめるのは、深淵の縁の如き澄んだ蒼き瞳。

 身長の差はそれほど見受けられないのは、男が小さいためか。はたまた、女が大きいためか。

 フラムにとってみれば、その差の無い状況であったとしても、今までに積んできた研鑽の証と、積み上げてきた勝利の数からすれば、新星の誕生は単なる雑多な出来事の一つに括られる程度の、意識する価値のない事だった。

 しかし、その男の姿をみて、髪の色、目の色。何よりその『カード』を見て、フラムは確信をした。それが『彼』なのだと。

 グラスという名前であったのか、と最初は訝しんだが、あぁなるほど、と自身が呼んでいた名前はただの使用人の『番号』みたいなものだったなと苦笑しながら、自身の家の風習の古さを口には出さないまでも、馬鹿にした。

 思い出す。フラムの槍を『掻い潜り』、妹を助けた少年の姿を。

 あの時、一切の手加減はしていなかったにもかかわらず、『当てることが』できなかった。その記憶は、驚嘆と、どこか安堵が混じり込んだ物だった。苦い、と表面上――特にリュヌには見せていたが、妹の最期まで手にかけていたことにならずに済んだ、少年の出現は、フラムにとっても、救済の類だった。

 ……ただ、妹を助けてくれた訳ではないのね。

 今、フラムの前に立つその姿を見て胸に思い描くのは驚き。おそらく――自身の首を取りに来ているであろう、その少年――男の姿は、あの時に見た姿に重なって、どこか『救い』を携えている様にも感じていた。

「……ルー。久しぶりね」

 声を掛けた。試合前に、相手に声を掛ける事は禁止されていなかったが、往々にして挑発行為、ひいては侮辱行為が一般的であったから、一瞬、ジャッジの顔が強張った。

 ルーは気にした様子なく、静かな漣の様に落ち着いた声で返した。

「えぇ、お久ぶりです。フラム『様』。――あれからもう、四年。まだ、四年」

「確かにそうね。『たった』四年よ」

 フラムは苦笑した。ルーを馬鹿にしたわけではない。あの時からまだ四年しかたっていない事に対する自嘲だった。

「貴方、今はグラスと名乗っているのね。あの時と同じ様に『記号』に縛られている様に見えるのだけど……どこかの家にいるのかしら?」

 その言葉に、ルーも笑う。まさか、と。

「私の家名はルーですよ。それこそそんな物がないのは承知の上でのお話でしょう? お戯れを。きっと……、フラム『様』がお聞きになりたい事とは違うのでしょう?」

「そうね。――そう、ね。ただ、どうして名前を変えたのか……いえ、もうデサンダンの家とは関係の無い貴方にとってみれば、過去の記号など無意味だというのは分かるのだけれど」

 ルーは鼻を小さくならし、くくっと笑った。

 遠まわしに聞いてくるフラムの心境が、痛いほど分かったからだ。

「フラム『様』。遠まわしに聞くのはお止しなさい。……今、貴女が聞きたいのは、『彼女』がどうしているのか、であって、私の事ではないでしょう?」

「……」

 フラムは顔を顰めた。まぶしいほどにあたる明かりが、リングを照らすために位置を調整し、それが視界の端に入る。彼の言による物とは誰も思いはしない。たとえ、リングの外から見ている、リュヌであっても。

「たった一つ。約束の為に、貴女の前に戻ってまいりました。

 それは、貴女にとってはあまり快くない約束だと思いますが……。なに、とても単純な事ですよ。

 そう、フラム『様』が必死に、懸命に、守ってきたその家名を地に落とすために」

 フラムは息を飲んだ。予想通りの言葉は、予想通りに彼女の心臓にずきりと刺さり込んだ。

 しかし、ルーは淡々と告げた。いつも通り、表情は消え、能面の如き感情の起伏は見せずに。

「きっと、別の道を歩むべきだと、貴女は思われるかもしれません。このリングの上で会う必要性は無かったのだと。それこそ――闇討ちでもすればよかったのだと。

 えぇ、でもこれは、『僕』の意志で、正面から、正面から貴女の翼をへし折ります。彼女の為に。『エクレール』の為に」

「……そう、あの子は貴方と共にあるのね。そう――なら、なら、よかった……ありがとう」

 フラムの予想外の感謝の言葉。ルーは何を思ったのか。その鉄面皮の下にどの様な感情を隠しこんでいるのかフラムには全く読み取る事ができなかった。

 しかし、ルーが一瞬かすかに、眉を顰めた。

「そんな、事を言わないでください。これから、戦うのですから」

「……そう、ね。でも、――簡単に、そう簡単に『フラム』の壁は越えられないわよ?」

「存じております、『お嬢様』」

 すっと、ルーの眼前に赤い、短槍が付きつけられる。銃口を向けられたようなうすら寒さを与えるほどに、鋭利尖れた穂先が、彼の視線を叩き切った。

「私も感謝しております。フラム『様』のおかげで、私と彼女は一緒になれた。それは、――きっと悪い意味なのでしょうね。でも、それでも。もう、誰にも渡さない。私の腕の中からは」

「そう。なら、まずは勝って見せなさいな」

 フラムは口の端を吊り上げて不敵に笑った。

 ルーは、それを見ると、無表情に、腰からレイピアを抜き、短槍の穂先をチンッと軽くたたいた。

 共に『防殻』は無い、むき身の刃。

 それは、双方がウィズであるという事の証明。

 それを分かると、フラムはルーに背を向けた。


 双方が相手に背を向け歩き出した。

 彼我の距離はたったの十メートル。

 長身の筋肉質なジャッジが二人の間に入った。白いポロシャツからは太い腕が覗いていた。それを合図に、二人は向き直った。

 一足の間合いからは少し程遠い物ではあるが、だからといって油断できる距離ではない。

 ピリリとした緊張感が場を支配した。

 マイクを通してない、力強いジャッジの声が響き渡った。

「双方、準備は良いか? ――よし。

 承知の事と思うが、形式に則りルールを説明する。……途中で不正が発覚した場合、その場で失格となるので十分留意する様に。

 デッキは、二十枚。中身の確認及びシャッフルは事前に行っているのでこの場での確認は省略する。

 リングは、鎖で区切られている区画のみ。その外に対する、故意の攻撃は失格。当然だと思うが、観客を傷つける行為は永久失格となるので、リング内であっても十分に『周囲への影響』を鑑み対応してもらいたい。

 勝利条件は、相手が打ち倒され、ダウン後、十カウントが成されるか、相手の旗を取り自陣に持ち帰る事。また、負けを認めた場合にはそこで試合終了となる。

 制限時間は十五分。最大二セット行う者とする。インターバルは十分の時間を取るが、その間にカードの補充が五枚なされる。武器の交換は可能なものとする。

 最後に、審判の指示には従う事。

 以上だが、異論はないな? ――では構え‼」


 二人とも、見つめるのは相手の動き。もはやジャッジの事などは視界からは消え去っていた。

 赤い領地に立つのは炎の魔女、フラム・デサンダン。

 白い領地に立つのは新星、グラス・ルー。


 審判の手が下がった。

「はじめ‼」


 一足。ルーはまっすぐに距離を詰めた。

 十メートルの距離などたった数歩で走破できるだけの脚力をもって、前にその身を躍らせた。

 しかし、ルーの動きに合わせる様に、まるでリングの上をすべる様に、フラムが間合いを詰めていた。

 一瞬。ルーの突進を阻む赤い短槍は神速の速度をもって、ルーの鼻先をかすめた。

 ルーは浮かび上がる冷や汗を感じながらも、その距離を詰めようと身を捩った。

 フラムはそれを許さない。距離にして三メートル。

 彼女の間合いに入った以上、襲いかかるのは、矢継ぎ早に放たれる雷光の突きだ。

 風を切り、髪を、服を、自在に穿つ。しかし、それであっても、ルー自身を捉えるには至らない。

 ルーは、レイピアのガードで上手く捌きながら機を窺っていた。

 グンッと重圧が見して、捌いていた腕に軋みを感じる様になった。

 それは、突きの合間に繰り出された上段からの短槍の振り下ろし。激しい金属音を鳴らして、迫りくるそれは、レイピアで角度を逸らしていても、金属自体の重みで、指に、腕に疲労を蓄積させていく。

 たかが十数合の打ち合いだというのに、針のむしろに居る様な感覚をルーは味わっていた。

 背筋に寒さを感じた。それがフラムの全身から感じる、絶対的な強者の風格と、穂先から感じるルー自身の生命の危機を感じた感覚の二つが合わさっていると感じていた。


「よく、捌けるじゃない。伊達に、わたしの前に出てきたわけではないのね」

「――っ! あたり、まえです!」

「余裕はないようだけれど」

 余裕の笑みを浮かべて、フラムは短槍を振るう。右半身が前面に出た様な半身の体制。

 最短に、最速に打ち出す槍の攻撃を、かろうじて受け切るルーの姿に感心した。

 たった四年。

 ……それにしては、きっちりと仕上げている

 そうフラムは苦笑する。当然、勝たせる気はない。それは一体何のためか。

 ……自分のため?

 違うと、フラムは思った。それは、彼女にかかる『呪縛』の類。勝つことを強要され、創られた『感覚』。リュヌ・デサンダンの、呪。

 フラムは、頭によぎるそういった不吉な黒い感情を押し込めた。今、考える事ではない。

 眼前の敵に神経を集中する。ルーは距離を詰めようと藻掻くが、それをさせる事はしない。

 フラムは左の足で蹴りを放つ。溜められた力が、風を幾方向にも切り裂いて、綺麗な孤を描いていた。

 ルーの一瞬焦った様な顔が見えた。フラムにとってみれば体術を含めた槍術は彼女の十八番ではあったが、今までの試合の中で『使う』に等し力量を持った者がいなかったのも事実だった。

 放たれた蹴りは、空を切る。流れた体は、次の突きを放つための予備動作に変わった。

 ……面白い。

 思うフラムの次の動作は、相手の足を黙らせる事に決定した。


 迫るのは、短い連撃。足元を重点的に狙う様に、腿を狙った突き。風を裂き、四方に散った空気がフラムの動きによって旋風の如く渦を巻いていた。その風の動きが、彼女の服を、髪を自由に泳がせていた。

 ルーはガード出来ないと悟ると、距離を一旦取ろうとした。後方へ身を投げ飛ばそうと右足に力を込めた。

 しかし、今はフラムのターン。

 溜まった力を反動にして、地面を蹴った。距離が離れた。優に二足分は遠くなった。

 一度仕切り直そうと、ルーは空気を深く吸った。血の上った頭が途端にクリアに変わる。

 狭まっていた視界が開けた。ルーの視線の中で、フラムの体が大きく動くのを見てとれた。

 カード。

 スローされたカードは縦回転をして空中を闊歩した。

 ……まずい。

 ルーはそう脳裏からの指令を受けていたが、流れた体では、次の行動は制限されていた。

 ……左右どちらがいいか。

 思考は一瞬。しかし、それを潰す様に、赤色の牙が彼に向けられた。


「トマホーク。それ自体、バーンを狙うための威力としては十分。だけれど、本当の使い方は――こう!」

 炎の壁が一瞬の間に形成された。それは、ルーの左手をかすめ、彼の行動を、動きを止めるための一撃。打点を一切外す事なく、打ち出された炎の壁の見事さよ。

 リング端の金属製の鎖が一瞬赤色に変わった。チリチリと甲高い細かい音が聞こえた。

 今度は、とフラムが前に出た。

 二足分。その距離を物ともせず、スッと体が流れた。

 再び短槍を硬直したルーへと向けた。

 逃がさない。その意思を明確な牙にして、ルーに襲いかかった。

 速く、疾風の如く、風は切り裂かれた。右腕をコンパクトに振るって、縦、横、一点にかけて相手の逃げ目の無い攻撃を食らわせる。

 決してルーにターンを与えない。

 飛び散るルーの鮮血は、顔を、腕を、脚を切り裂いたフラムの短槍の成果だ。


 ルーの全身にはひりひりとした、焼けたような痛みがあった。

 視界の中では、何度掠ったか分からないフラムの槍の穂先に、ルーの鮮血が乗っているのが見て取れた。

 じり貧の中で、ルーは左手でカードをドローした。

 二枚引き、親指でカードの面をなぞった。返ってくる感触が『目当て』でない事を確認すると、場外に捨てた。

 引き直し。

「マークド? 随分と低俗な事をしているのね?」

 挑発に応える余裕はなかった。

 手に滑り込む、カードのマークを親指でなぞり、それを地面にスローイングした。

 すぐさま、彼は地面に細剣を突き立てた。カードの打点は右下、左上。

 その隙は恰好の餌食。

 フラムの短槍はそれを見逃さないことだろう。

 赤い稲妻がルーの喉元に迫った。


「ソーン。――ククッ。こんなに面倒とは思いませんでした」

 ルーが笑っていた。

 右足に乗った体重。フラムは、それが地面に吸い込まれるような感触を得た。

 ガクンと、体が落ちる。

「――っ!」

 引き戻そうとするが、速度の乗った動きは『不安定』な足場によって崩された。

 リングは砂を固めてできている。

 それは、『地』を使う者がいるからだ。

 デズィーリを錫で殴打した場合、発生する現象。土や砂といった鉱物を自在に操る事のできる能力。時に槍の様に、時に沼の様に効力を変化させる魔法だ。

 それを総じて『ソーン』という。

 理解した時には、完全に右足が砂に埋まった。

「ちっ……」

 フラムは珍しく舌打ちをした。彼の使う手を、卑怯だとは思わなかった。ただ、自身の速度が足りなかった事に対する苛立ちだった。


 ルーは体を屈めると、『浮き上がる』板材にうまくのり、バランスを整えた。

 単純にソーンを発動させただけではない。これはあくまでも、『複合属性』による効果だった。

 湧き上がるのは空気の泡。二属性。

「砂にはエアブローを送り込むと、泥の様に変化する特性があります。ですから、『足場』を崩すにはもってこいというわけで」

「チッ!」

 激しく舌打ちをしたフラムが、泥の様に不確かな足場に飲み込まれるのを、ルーは鎖に捕まりながら眺めていた。

 フラムがカードを二度発動させるのが見えた。ルーは少々意外そうに思いその言葉を口に載せた。

「ドロップ……ですか。まぁ、私もこの中では動きたくないので、ありがたい物ですが……。過去に、貴女にそれを使わせた者はいませんから、――一応、強者に入れたのでしょうか?」

 水属性の魔法は、一瞬で砂地を濡らしていく。

 リングの周囲に形成された堀から取り込まれた大量の水が、リング状で球形に集積された。水の球形は、すぐさま雨の様にリングに降り注ぎ、砂地を固めていった。それは、空気の入り込む隙間を埋め、泥化した足場を再び安定させるほどに。


 無様。そう思いながらフラムは、濡れた地面から足を引き抜いた。

 ぐぽっと重い音を立てて、ブーツを引き抜いた。あまりに安定しない足場に苛立ちを隠しきれなかった。

 両足を抜き去ると、一息。ルーの姿を確認しようと顔を上げた。

 その時、眼前には、あの青い髪が迫っていた。

「――ッ」

 息を飲む。身が強張るが、体は、反応した。

 甲高い金属音を響かせて、短槍でレイピアの刺突を逸らした。

 一瞬の安堵、しかし、それは次の焦りの始まりにしか過ぎない。

 たった一足の間合いまでは、ルーは入り込んでいた。

 細剣の間合いは槍では『短すぎ』た。

 繰り出される刺突を、持ち手で何度も防ぐ。距離を離そうと、柄で殴打しようともしたが、さすがにルーの距離なだけはあり、それを簡単に、ガードでいなされた。

 泥の着いた足は今までと感触が変わり、まるで地面に引きずられるように重いと感じた。

 体が一瞬のタイムラグを持っていた。フラムも分かっていた。その時間はルーにとっては一瞬ではなく、十分な時間であることを。

 ターンが変わった。

 切り裂かれる風の音は、すぐに耳の傍で、体の脇で唸っていた。

 それをフラムは今までに感じたことないほどに焦りに満ちた表情で捌いた。

 余裕はなく、浮出る額の汗は、幾つもの攻防により後へ流れていった。

 だというのに、一度もルーの刺突も、斬撃もあたらない。これは、長年に培った彼女の素養によるアドバンテージ。

 年齢に匹敵する程に研鑽を積み重ねたフラムの強みだった。

 突如、腹部に重い衝撃がきた。

「ぐっ!」

 呻く。体に捻じ込まれるようにルーの蹴りが差し込まれていた。先ほどのお返しだとでもいう様に、つま先が横隔膜を刺激した。

 呼吸が止まる。それは、体の動きも止まった。

 停止の時間は一瞬だったが、二度彼女の手首をルーの細剣が切りつけた。

 高熱を感じさせる切り裂きは、最小の攻撃だったが、フラムの手から槍を落とさせるための一打。突発的な苦痛が襲う中、反射的に『身を固く』した。決して槍は離さない。まだ、たった二撃しかもらっていない。意地は固く、意思は高く。

 ……まだ!

 無理やりに短槍を横に薙いで、距離を引き離そうとした。乱雑に振るわれた短槍は、風を切る音すらさせない、鈍い動きだった。


 ルーはレイピアを構えた。フラムの横薙ぎなど何も気にしていなかった。

 あるのはただの勝利への動きのみ。停止しているフラムの動きは的でしかなかった。

 だからこそ、確実に仕留めるために、カードを切った。

 カードが宙を舞った。その数、五。捌き切れるものではない、そうルーは確信していた。

 しかし、それはフラムの微かに覗く、表情を見た時に一変した。

 ……まだ。

 そういう言葉が脳裏をかすめた。死んでいないフラムの表情は、次の機を窺うべく、ルーを睨みつけていた。

 フラムの左手に視線を映した。保持されているカードの枚数は二枚。

 それが今、正しく投じられた。

 ……まずい!

 それは直感。その直感を信じ、五枚のカードを『破棄』することを決めた。

 空中のカードに目もくれず、さらに一枚のカードをドローした。

 指で感じるそのカード。どうやら引きは良いらしいと、吹き飛んだ余裕をかき集めて、ほくそ笑んだ。

 

 フラムの短槍の石突がカードを叩く、硬質な感触を腕に感じていた。

 フラムも、ただでこの首を取らせる気はない。できる事は何でもやるというのは当然で、今までの試合で一度も使わなかったドロップも、躊躇なく使う様は、今までの絶対的勝利を確信した戦い方とはかけ離れたものだった。

 だからこそ、今この場で放つ二枚のカードは、自身の切れる窮地の一打。

 彼女の思考に普段はない『通れば』という微かな望み。

 通れば、活路はあると。そう確信して発動させた。

 一枚はトマホーク。圧縮された炎が堰を切ってあふれ出した。

 一枚はスパイク。炎を後押しするその突風は、今、フラムの前にいるあの男への突撃。

 フラムは視界で捉えた。

 ルーがカードを、引き直していたのを。


 狙うはスパイク。風の後押しを旋風に変えて、相手に押し返す。

 細剣は最速をもって投げられたカードの左端を捉えた。

 キンッという硬質な音は、ルーに向かってくる突風によって直接耳に流れ込んできた様に感じた。

 一拍。

 身を焼かれる熱量が、ルーの前を横切った。実際に彼の左手は火傷を負っている事だろう。しかし、

『カウンター』

 魔法によって、魔法をいなす、高等テクニック。

 続く空白の時を無駄にしないために、ルーはヒルトを強く押した。

 細剣のガードが向けられた先は、フラム。

……なるほどラヴィのカードは、「こう」使うのか。

 地面に落ちていた五枚のカードを感じながら、ルーはガードの先にあるボタンを押した。

 『遠隔』での発動には、カードに特殊なスリーブが付けられている事が条件になる。当然、カードにそれを付けたままであれば、打点は隠れる事になるが、エクレールの作ったカードは正確な打点が『無い』ものだ。どこを打ってもいいし、どこを切ってもいい。ただ、片面に三つ配置された属性を、相克を起さないように発動させる事だけだった。

 であるから、カードスリーブが常につけられ、ウィズが嫌う『魔術師』の如き発動を可能にした。

 地面から生まれる槍は全部で五つ。フラムのドロップによって硬度を増した砂は、うねる触腕の如くフラムの足に、手に深々と突き刺さった。


 突如襲った痛みに、左手でホールドしていたカードがばらばらと地面に落ちた。

 フラムはしっかりと見た。

 宙を舞っている三枚のカード。

 引き直され、空中で『配置』された三枚のカードは、フラムに向かう力を溜めていると直感した。

 分かっていた。彼が逃さないことを。一瞬の隙を見せた自分の負けであることを。

 ……結局、わたしは、エクレールの様には成れなかったのね……

 フラムはしっかりと見た。

 投射されるトマホークが、自身の腕に、脚に向かう事を。

 フラム自身が、何人ものウィズに行った『処刑』だ。

「終わりです」

 ……ええ、その様ね。

 口には出さず、フラムは微笑んだ。

 細剣の最速の一突きは、流れていたフラムの右手を深々と刺していた。

 細剣は抜かれた。フラムは、自身の血が噴き出る感触をじっくりと味わった。

 遅れて、炎が来た。

 焼かれる痛みは、修練で慣れていたはずなのに、それ以上に、じゅっと皮膚を焼き、撫でていく感触が、現実感をもって通り過ぎて、フラムの背にぞわぞわした感覚を与えた。


 二度目のルーの剣戟は、最速で、彼女の健を一瞬で切り飛ばした。

 鮮血が舞った。薔薇の花びらが舞う様な妖しさを持って、砂地に落ちた。

 フラムの落とした短槍が、コンという硬い音をたてて板材に跳ね返って寝ころんだ。

 ルーは思いっきりフラムの顎を蹴り上げた。今この場において、負けの宣告をさせる事は、絶対にさせてはならなかった。

 エクレールの復讐のためには、『最高傑作』を完膚なきまでに『再起不能』にしなければならなかった。

 あの忌々しいという視線を、向けているリュヌに見せつけるために。

 フラムの左手を、折りたたまれた太ももを、目にも留まらぬ速さで切りつけた。

 試合終了のコールはまだかからない。ダウンすらしていない。

 ……逃がさない。

 ルーは最後のカードを切る事で、それを成そうとした。

 抵抗の力を感じなかった。

 彼から見えるフラムの表情は、許しを請う訳でもなく、ただ微笑んでいた。

 だからルーも微笑んだ。

 投げるカードは二枚。

 三色に光を反射し輝く様は、まるで虹の様。

 ルーは身を翻しながら、カードを切りつけた。

 ひりつく熱を横に感じながら、ルーは笑った。

「ラヴィ? 見ていますか?」


 リングの中央では、フラムが業火によって焼かれていた。

 燻る彼女の両手、両足は、かつての自身の体験を思い起こさせ、エクレールは身震いした。

 あの時の痛みを、苦悶を、追体験している様な気になって背筋が凍った。

 しかし、震える彼女の唇は、ゆっくりと動かされた。

「お姉さま。……これでお揃いになりました……。あの人の、呪縛は、解けますかね?」

大幅な加筆修正でほぼ別物になってしまいましたが、稚拙な文書で読みにくかったかもしれません。

最後まで、お付き合いいただきありがとうございました。

良ければ感想などいただけると助かります。

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