数学という言語、物理という文芸
「数学って意味わかんない」
「数式が出てくるとやる気失せるんだけど」
そんな呟きをしょっちゅう耳にします。数学ができないから文系に進む、なんて人もよく見かけます。
もちろん、人それぞれ得手不得手というものはあります。苦手なものを無理してやることはないとは思います。それを承知の上で、そうした方々に聞きたいな、と思うことがあります。
数式を「読もう」としていますか、と。
私は、数式というのは1つの文だと思っています。日本語や英語ではなく数学という言語を媒介とした、相手に何かを伝えるためのセンテンスです。そして、「数式が苦手」という人の多くは、センテンスそのものを読もうとしていないか、もしくはセンテンスは読めても間の繋がりに目がいっていない方が多いのではないか、と感じます。
では、繋がりとはなんのことでしょうか? それは、「論理」と呼ばれるものです。国語だろうと数学だろうと、文は必ず論理によって繋がっていなければなりません。
たとえば、
私は目玉焼きが好きだ。
眠い。
これはただ文を2つ連ねただけで、論理が通っていません。これを
私は目玉焼きが好きだ。
しかし今は、キッチンから漂い来る目玉焼きの匂いにも食指が動かないくらい眠い。
としてあげましょう。「論理」という糸で繋がりましたね。これは2つの文でできた、「文章」です。
数式の場合も同様で
2x+3=9
x=3
という二つの数式は論理によって繋がっています。こんな感じで、たくさんの数式を「論理」の糸で数珠繋ぎにしたものが、数学の答案です。
逆に言えば、日本語で文章を読めるくらい論理が身についていれば、数学の文章も分かるはずなんです。ですから、このサイトに集まる「文章」好きのみなさんが、数式が入っているからと言って理解できないなんてことはないはずなんです。
なんなら、大学の文学部に数学科が入っていてもおかしくないと半分本気で思っています。ちなみにもう半分は冗談です。
では、そんな数学という言語によって紡がれる「物語」とは、どんなものでしょうか。
その一つの答えが、物理学だと思います。
物理学というのは、その名の通り「物」の「理」を詳らかにせんとする学問です。放り投げたものはどこへ行くのか。磁石はどうしてくっついたり反発したりするのか。そんな、世界を支配する法則を探し求めるのが、物理学です。
結局のところ、世界の本質を探したい、真理を探求したいというモチベーションは物理も哲学も同じです。もっと言えば、哲学の中から、数式を用いたアプローチをする物理学が分派してきたと言っても良いでしょう。
ただその紡ぐ言語の違いによって、理系と文系が分かれてしまっているだけなのです。
さて、話を戻します。数式を読むというのはどういうことか。それを理解して頂くために1例をあげます。
F=-kx
これは、バネが伸び縮みする力に関してフックさんという人が発見した法則です。アルファベットで書くと抵抗がある方もいらっしゃるかもしれないので、日本語で書いてみると
力=-(バネのかたさ)×(バネの伸び)
っていう感じですね。この式を、あなたはどう読みますか?
バネのかたさは、バネを取り替えない限りは変わりません(厳密には変わらないこともないですが今はおいておきます)。
ということは、バネを変えずにバネの伸びを増やしたら、バネの力はどうなりますか?
それから、ばねをかたいバネに取り替えて同じだけバネを伸ばしたら、バネの力はどうなりますか?
そういうことを考えていくのが、「数式を読む」ということです。
じゃあ「-」ってなんやねんという話ですが、これは「力」と「バネの伸び」が逆方向だということを示してます。
バネが伸びてたら縮める方向に力が働く。バネが縮んでたらのばす方向に働く。そういうことを言っているに過ぎません。
さて、このフックの法則なんですが、実は物理基礎の教科書にも乗ってる公式です。では、高校でこの式の読み方を教えるでしょうか……? 普通はしませんね。
多くの学校では先生が黒板に板書し生徒がそれを写すとか、プリントに蛍光ペンを引くとかするくらいです。で、試験前にあわててそれを暗記します。
でも、公式っていうのは言ってみれば箴言みたいなもんです。公式を覚えてどや顔してる人を見ると、「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。」とか言ってどや顔してる中学生が思い浮かびます。君はその意味を分かってて言っているのかと。その言葉はどんなときに役に立つのか理解しているのかと。
大事なのは、公式を覚えることでもなければ、計算能力をあげることでもない。きちんと数式を読めることが大事なんだよと、学校できちんと教えてあげてもらえたらな、と思います。