Ⅱ-5
いざ外に買い物に出ようとして昇降口まで辿り着いて気付いたことには、雲行きが怪しくなり始めているということで、なんか嫌だなと思ってじっと見つめていたら、間もなくぽつぽつと雨が降り出してしまった。今朝は珍しく雨の降っていない日だったものだから、傘は鞄の中に常備している折り畳みしかない。そしてその鞄は今、教室に置きっぱなしになっている。
素直に戻ればいいものを。
ふと思い出す。そういえばセロファン、どこかで見た覚えがあるよなあって。特別棟、四階の階段を上って、屋上に続く扉の前。『2―3』と書かれた段ボール箱。もはやあまりに遠く感じるようになった、文化祭の残滓。
意外と目当てのものは残っていた。高校生が何かを製作するときに使うもののうち、よく使うからと念のため余分に備蓄しておいて備蓄しっぱなしになるようなものは、それほどパターンがないのだと思う。
たぶんこれだけでは足りないのだけれど、しばらくの場しのぎにはなるだろう。それにむしろ、定期的に備蓄切れを起こした方が、適度に抜け出す口実を作れて都合がいい。
でも本当のことを言うと、そんな口実なんて作らなくても、教室に行かなければいいだけの話なんだけど。なんてことを考えていると、段ボール箱からころりとビニールテープが転がり出す。上履きの表側にぶつかったのを上手く止めることができなくて、床に零れ落ちてしまう。箱を両手に抱えたままじゃ拾うことはできなくて、仕方なく腰のあたりの筋肉を酷使してゆっくりと箱を下ろしていく。
「何してんだかなあ」
「何してるの?」
びくっ、と大きく反応をしようと思ったのだけれど、重たい箱を持ったままそんな機敏な動作を見せられるほど筋肉が発達していなかったので、いきなり背中の方から声をかけられても一切の動揺を見せない無敵ぶりを見せつけてしまった。箱を床に置いたものの、疲れからすぐに身体をまっすぐ立て直すこともできず、僕はものすごい落ち着きを持って、ゆっくりと振り返ることになる。
光倉さんがいた。
「パシリ」
「なんの?」
「色々」
と言って東野さんからもらったメモ帳を見せる。光倉さんは、へー、と一瞬だけ興味深げに顔を近づけたけれど、本当にそれは一瞬だけのことで、すぐに僕の顔に目線を移した。
「いま時間ある?」
「用件による」
「え、なんで?」
そう言われてしまうと非常に弱かった。わかっててプレッシャーをかけてきている様子ではなさそうで、普通に首を傾げて、普通に不思議そうに聞かれると、「今はどうでもいいことは何もする気分じゃないから」と真顔では返せなくなる。まして、どうもこの人は僕と話すことを目的としてわざわざ教室を離れて追いかけてきたらしい、と思えばなおさら。一七年近く人間社会で暮らし続けてしまうと、否が応でもこういう振る舞いが身についてしまう。
仕方なく、屋上に続く扉の手前、段差のあたりに腰かける。あまりにも冷たくてここだけ雨が降ったのかと思った。ちらっと手で触って確認すると、縁のあたりがスチールになっていた。
「なんすか」
「時間大丈夫なら、相談に乗ってほしくて」
「なんのすか」
「言うタイミングのことなんだけど」
ああ、と頷いてから、え、とびっくりして、
「なんで僕?」
「伝えてる人、いま待鳥くんしかいないし」
「親は?」
ん、と光倉さんは口を噤んだ。やけにぺらぺら喋るようになった光倉さんが。ということでそれについてはこれ以上触らないことにする。
「別にいいけど」
「ほんと?」
「大して役に立たないと思うよ」
と付け加えている間に光倉さんは非常に狭い僕の隣のスペースに腰かけた。ほとんど肩が触れ合うような距離だった。一体どんなパーソナルスペースの持ち主なんだ、と驚愕する。驚愕しつつ、僕は立ち上がり、段ボール箱の方に移動する。光倉さんは僕を見ていた。
「え」
「いや、え、じゃないけど……」
「なんか今、すごい感じた。距離感」
「開けたからね」
距離、と僕が言うと、光倉さんは釈然としない顔をしながらも、それ以上は言及せず、切り替えて話を始める。
「いつみんなに言おうかなー、ってことなんだけど」
「ていうか言うの?」
「言うよー。ていうか言いたい。自分ひとりじゃ抱えらんないし」
僕は自分が光倉さんと同じ立場になった場合のことを想像してみた。周囲はみんな病気で死ぬ。自分だけ病気に罹っていない。ので世界が終わったあとも生き続けることになる。まあ確かに、まるで想像がつかないというか、その後の生活に対してどうしたらいいんだというような茫然とした気持ちは湧き起こるかもしれない。かつてにおける卒業後の進路と同程度には。
「じゃあ一緒に抱えてくれそうな人ができたら言えばいいんじゃない」
「来る? そんなタイミング」
来ないと思う。そんな短時間では。
「これからの光倉さんの頑張り次第でしょ」
「なんか待鳥くん他人事だと思って適当なこと言ってない?」
唐突に僕の態度が責められ始めた。うっ、と一瞬言葉に詰まって、しかしそれから落ち着いて反論の言葉を探して、
「他人事だもん」
「真面目に相談に乗って!」
うっかり肯定してしまった。光倉さんは握った両の拳を胸の前でぶんぶん振った。漫画でしか見たことがないような駄々っ子の動作だった。けれど僕はそれ以上に自分の今の気持ちを言い表す言葉が見つかるとは思えなかった。だって他人事だもん。病気に罹っていないのは光倉さんだし、僕は普通にセッカ病に罹っているし、まあまあ近いうちに死ぬし。宝くじの一等賞を当てた人にこれからの身の振り方を相談されているような気分だった。光倉さんが当てたのは、宝くじよりはだいぶ貧乏くじに寄ったくじな気はしたけれど。
「でもこれ割と真理じゃない? 大して深い仲でもない状態で『実はセッカ病罹ってなくて悩んでるんだけど……』とか言っても困惑されるだけでしょ」
僕はあえてやわらかめに言った。実際のところ僕の場合は困惑程度で止まっているけれど、うっかり生きることに執着している人を相手に踏み抜いてしまった場合は、激昂される可能性までまあまああると思う。
「うーん……。確かにそうなんだけど……」
光倉さんは難しい顔で、
「嫌なんだよね。隠してるのも。この間東野さんにこそこそしたのは嫌いって言われちゃったし」
ふうん、と何食わぬ顔で頷きつつ、僕は内心驚いたりしている。言ったんだ、東野さん。しかも直接面と向かって、本人に。なんというか、踏み込みが深くてきっぱりした人だな、と思う。僕は踏み込みが浅くてふにゃふにゃした人なので、たとえそんなことを思ったとしても絶対に口にしたりはしない。
と、そこまで考えて、
「あ、」
「ん?」
「いや、なんでもなかった」
ピンときたけれど、言葉にはしなかった。東野さんにとりあえず言ってみたら、とか。これで折角軟化した光倉さんと東野さんの仲がこじれたりしたら、ふたりとの間にあるおそらく唯一の線である僕にあらゆる負担がかかってくる未来が見えたり見えなかったりしたからだ。そのときはそのときで榛名の家に入り浸り続けて死ぬまで逃げ切るという選択肢がないでもなかったのだけれど、それはさすがに無責任すぎる。
沈黙すると沈黙した時間に相応しいだけの発言の質を求められるような気がして、僕はすぐに次の案を出す。
「市ヶ谷くんとかは?」
完全にさっきの教室の風景が脳裏に過っての発言だったけれど、言葉にしてみてからこれってもしかして結構いいアイディアなんじゃないか、と思い始めた。実際仲が良さそうだし。三組七組合同集団の中でもリーダーっぽい位置についているのだし。あそこが認識していれば色々穏便に済むような気がする。そして僕と市ヶ谷くんの間には一切の関係が存在していないので、こじれても僕にあらゆる負担がかかってくる未来は訪れない。
そしてどうも、光倉さんの方もまんざらでもない様子だった。うーん、と溜息に似た悩まし気な声を出しながら、自分の上履きの先に触れるように、ゆっくり腕を伸ばして前屈していく。無理のないあたりで止まって、
「市ヶ谷くん……。ね、待鳥くん的にさ、」
「待鳥くん的に」
「どう思う? 良さそう?」
「いや、僕は接点ないから知らないけど」
「イメージでいいから」
イメージしてみようとする。無理だった。ので、無理だった、と答えようとして、
「あ、こんなとこいた」
階下から声が聴こえてきて、口を噤んだ。
「何してんの」
「きゅーけー。何か急ぎ?」
「急ぎってわけじゃないけど」
僕は今、階段を折り返した、段ボール箱の前に立っている。一方で光倉さんは屋上に続く扉の縁に座っているわけで、階段の途中から話しかけてきているだろう声の主からは、光倉さんは見えても、僕の姿は見えていないはずだ。逆がそうなのだから。
光倉さんは、会話しながら、僕の方にちらっと目配せをした。僕は意味もなく、人差し指を口の前に立てる。それで光倉さんは、わからないくらい小さく顎を引いて頷いて見せると、立ち上がって、階段を下りていった。
しばらく僕はそこに立っていて、そのうち自分がここに来た理由を思い出して、東野さんからもらったメモをもとに必要なものを段ボール箱の中から取り出していく。そして、箱の側面に書かれた「二―三」の文字を見ているうちに、あの声は市ヶ谷くんのものだったような気がしてきた。
教室に戻ったら確かめてみよう、と思ったのだけれど、そのころには記憶も朧気で、実際に市ヶ谷くんの声を聴いてもさっぱりわからなくなっていた。
聴き慣れていけば、そのうちふとした拍子に思い出すかもしれないな、なんて思っていたけれど、聴き慣れる前に市ヶ谷くんは死んだ。
同じ教室から出た、最初の死者だった。