Ⅱ-4
万年カレンダーとはなんですか?
という質問が投げかけられたとして、一体どんな答えがありうるだろう。
万年使えるカレンダーです。それはそう。
小学校とかにあったやつです。それもそう。でもないところもあるらしい。というか万年カレンダーってそれだけを指すものでもないらしい。
まずカレンダーの骨組みみたいなものがあって、そこに数字のパーツをつけたり外したりすることで好きなように好きな年の好きな月の暦が作成できる、そんないつまでも使えるカレンダーのことです。はい。
僕らの最後の思い出です。
「なんそれ」
と呟きながら『1』の数字を表す溝に赤い色の絵具を染みつける作業に従事していたら、うっかり手を滑らせた。『1』というか『♰』のような形状になってしまった。怒られるだろうか。怒られるだろうな。縁起悪いしな。縁起以前に状況が悪すぎるんだけどな。いちばん怒らなそうな責任者に報告しよう、と思って、まだ床に這いつくばって必死で作業してますみたいなポーズを取りつつ、あたりの様子を窺う。
午前一〇時の朝とも昼ともつかない光が射しこむ教室の中には、もう机も椅子もない。学級崩壊しているわけじゃない。単純に、授業時間が短縮されている。今日は午後だけ。一日中学校にいるっていうのに、机に座って参考書と向き合う時間は、昔に比べて格段に減った。
教室の中にいるのは、七組のクラスメイトだけじゃない。三組の生徒、つまりは僕らが夜を共にしているもうひとつのクラスの生徒たちも一緒だった。今日は榛名も登校していないから、本当にいたるところまでジャージだらけで、ついこの間まではたったひとり制服姿を保っていた光倉さんも、オセロみたいにジャージに変わった。
そしてみんな、狂ったように万年カレンダーを作っている。
責任者(として僕が勝手に認識している人)は四人。誰に言うべきか、こそこそ目線を走らせつつ考える。
一人目、僕に「お前は色でも塗ってろ」と山のような木製パネル(数字入り)を渡してきた東野さん。細々した装飾組のリーダー。論外。廃棄処分される。僕が。
二人目、登山部。三組の八木くん。この木製パネルを嵌めるためのカレンダーの基盤(黒板を半分埋めかねないくらい巨大)を作る力があって、手先も器用な組のリーダー。趣味はDIYとキャンプ。管轄違いのため論外。
三人目、サッカー部。三組のクラス委員の市ヶ谷くん。日付なんかのための小さなパネルを四角く切ったり溝を入れこんだりするような、体力だけあればなんとかなる加工作業組のリーダー。論外。理由は後述。
四人目。光倉さん。全体デザイン担当みたいなふわふわしてて楽しいところのリーダー。論外。理由は三人目の市ヶ谷くんと同じ。
三人目と四人目が論外な理由。市ヶ谷くんと光倉さんは、こう、きゃいきゃいやっていた。周りをきゃいきゃいしたメンバーで固めつつ盛大にきゃいきゃいやっていたので、割り込みにくかった。僕はきゃいきゃいした人間ではないのだ。
なんてことだ。ミスを報告できる人がいない。この教室の管理体制には著しい不備がある。僕は十字架になってしまった木製パネルをじっと見つめて、十字架の横にそのまま赤い文字で『はるな ここにねむる』と書き足した。お土産にしよう。きっと喜ぶ。榛名の喜ぶ顔を想像したらもういてもたってもいられなくなってしまった。みんなが一生懸命一丸となって作業をしている中ひとりだけ抜け出すのは非常に忍びないのだけれど尊い友情の前に犠牲はつきものだと思う。むしろ犠牲があった方が輝くと思う。犠牲はあった方がいいと思う。ていうかサボりたい。朝七時に叩き起こされてから延々こんな単純作業をやらされている。バイト代も出ないのに。悲しい。
十字架を親指でなぞる。親指を確認する。赤い色が移っていないことを確認する。つまりは乾いているってこと。パネルをジャージの上着のポケットにするりと入れる。証拠隠滅。あとは何食わぬ顔で、いやあ作業に没頭しちゃったなめちゃくちゃトイレに行きたいよ可及的速やかに行きたいよ行かなきゃ嘘だよといった雰囲気を醸し出しながら教室を後にする。
「んがっ」
「どこへいく」
できなかった。インナーごと襟首を後ろからつかまれて首が締まる。姿は見えないけれど明らかに東野さんの声が聞こえていた。
「お手洗いに」
「だめ」
「なんてことだ……。ここではトイレに行く権利すら認められないのか……」
「手を洗った後は?」
「榛名の家。榛名くん係だからね」
肩をつかまれて振り向かされた。思ったよりも東野さんが優しく笑っていたので怖かった。
「協調性、持とっか」
東野さんはにこにこしながら地獄みたいなことを言った。それでも人並にはあるよ、と言い返そうとしたのだけれど、すぐに思いとどまってしまった。ひょっとすると今この教室にいる中で最も協調性の薄い人物は僕なのかもしれない。
全体的に、最近のみんなは明るくなった。
光倉さんがクラスの輪に参加するようになって、なんだかスムーズにお姫様みたいなポジションに収まり直してから二週間くらいが経った。相変わらず季節は冬で、セッカ病で別の学年や別のクラスの人が四、五人死んで、それでかえって、日を追うごとにクラスの結束は固くなっているように見えた。身を寄せ合うみたいに。実際身を寄せ合って生きているように。
なんとなく昔の、冬になる以前にあった友人関係のグルーピングは残っているけれど、その境界線も今では淡く薄まっている。誰もが仲良くお互いに話しかけるようになったし、文化祭ではサボり倒していたような人たちすらも、この万年カレンダー作りには日々意欲的に取り組んでいる。
榛名という永世協調性皆無王が戦場に姿を見せなくなってしまったので、現在の協調性皆無選手権チャンピオンは僕なのかもしれない。望むところだ。
「榛名のとこに行くかはともかくとして」
「ともかくとするな」
「普通にトイレには行きたいんだけど」
「行かなくていいと思う」
「死んじゃうんですけど」
「うん、いいと思う」
堂々と言い切られてしまった。あまりにも堂々と言い切られてしまったのであっけに取られて口が開いてしまった。ついでに塞がらなくなってしまった。何がそこまで東野さんを突き動かしているというのだろう。僕はちょっとだけ距離を詰めて、うつむき気味に小さく声を出す。
「え、なんで?」
東野さんは一度小さく口を開いて、閉じて、携帯をポケットから取り出して、文字を打ち込んで、それからこっそり、僕にそれごと手渡した。こう書いてある。
『ここで輪から外れるの、あとですごい響くよ』
『みんなで仲良くやろうって空気、すごいもん』
え、関係なくない?とか、どうせ死ぬじゃん、とか、あとでなんて全員死ぬんだし存在しないでしょ、とか。
そういう言葉が、たぶん会話の途中だったら口をついて出てしまったんだろうけど、文字をクッションに置いたおかげで、言わずに済んだ。
携帯から目を上げて、東野さんの目を見たときの自分がどんな表情をしていたのか、さっぱりわからなかった。ただ、東野さんは一瞬怯んだような表情を見せて、僕の手から自分の携帯をさりげなく取り返して、
「セロファン」
「ん」
「足りなくなりそうだから、買ってきてくれない? お金あとで渡すから」
本当のメッセージは、言葉じゃなくて目線で伝わってくる。何かしら抜けるにしても理由がないとダメだよ、と。何も理由がないならとりあえずこの理由を使いな、と。親切にも。
「オッケー」
親切を無下にすることはない。指で丸を作って返すと、東野さんは「ちょっと待って、要るもの書き出すから」と机にいったん戻って、可愛いメモ帳に無愛想なボールペンで諸々を書きつけ始める。
手持ち無沙汰で、教室をもう一度眺める。それで、東野さんの心配は杞憂だよな、と改めて思う。
誰も僕のことを見ていない。
「はいこれ」
「せんきゅ」
リレーのバトンでも渡すみたいに、ぎゅっと東野さんは僕の手にメモを押し付けてきた。その中身を見ながら、僕は教室を後にする。セロファン、ビニールテープ、白と黒の絵具……。
振り向く。
ちょうどそのとき、東野さんも振り向いていた。心配そうな顔で。
ちょっと笑って、振り向くのはやめる。寒い寒い、廊下に向かって歩き出した。