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じゃあ逆に君以外がみんな死んでしまうとしたらどうするんだって話  作者: quiet
Ⅱ 冬の雨、麻酔が解けたら冷たくて
7/22

Ⅱ-3


「よ」

「お」


 校舎裏のゴミ捨て場に繋がる渡り廊下。自販機の光が作った柱の陰に、東野さんがいた。ちょうど腰くらいの高さの塀に腰かけていて、人差し指と中指の二本で、ぴっ、とかっこいい挨拶をされる。もう片方の手には、ペットボトル。雨が降り続けていて、いつもより暗いものだからあまり視界は鮮明ではなかったけれど、見慣れた色で、何を飲んでいるのかわかった。


「炭酸めずらしいね」

「今日は飲みたい気分なんだよ」

「なんそれ」


 こんな寒いのに、と。思いながらも釣られてしまったらしく、自販機を押す指は自然と、同じ飲み物を選んでいた。自販機の手前だけは、なぜか渡り廊下のひさしがかかり切っていない。僕はジャージの上着を少しだけ濡らして、ペットボトルを拾い上げる。


 ここの自販機は勢いがよくて、出てきた炭酸をすぐに開けると噴き出る。だから、少しの間は、開けずに待っておく。そして校舎内で零すと面倒なので、このまま外で開けたい。ゆえに、僕はしばらくこの空間に留まることになる。


 Tシャツにジャージの上着を羽織っただけの恰好にはやっぱり無理があったらしい。首筋から生命力を根こそぎ奪い取りそうな冷気が入り込んでくる。そして炭酸を握る手も冷たい。首を思い切りすくめて、ペットボトルを握っていない空の手はポケットの中でずっと振動させている。


「ありがとね」

「ん」

「昼。朝か」

「ああ」


 ええよ、と寒さのあまり口を開くのも億劫で、変な発音になりながら返す。

 ただし、東野さんは全然『ええよ』って感じの顔をしていなかった。自販機のやたら白っぽい光を受けているからだろうか。かなりアンニュイな表情に見える。


「複雑すか」

「んー……」


 東野さんはペットボトルに口をつけながら、唇をもにょもにょと動かす。それからいきなり、ペットボトルに息を吹き込んで笛のようにぶおお、と音を出した。吹部の人がよくやるやつだ。ちなみになぜか僕もできる。


「愚痴っていい?」

「だめ」

「待鳥あれ聞いた? 友達作らなかった理由」


 僕の拒絶はまるで最初から世界に存在できなかったみたいにスルーされて、仕方なく、ああ、うん、と頷く。特別棟の屋上前で、光倉さんから告げられたのはその話だった。


「東野さんもされたんだ」

「どこまでされた?」

「どこまでって、どこまでされたの?」


 探り合うような会話になる。打ち明け話をどこまで打ち明けられたか、なんて話題は、秘密を守りながらだとなかなか進みにくい。



――中学の頃にね。

――仲が良いと思ってた友達からさ、言われちゃったんだよね。

――何でもできて、嫌みっぽいって。

――近くにいられるだけで、みじめな気持ちになる、って。



 僕が聞いたのは、そんなところ。

 よくもまあその友達は一四、五歳くらいでそこまで屈折した感情を熟成できたものだな、といっそ感心してしまうくらいの僻みの言葉を真に受けて、怖くなって、これまでじめじめうじうじ過ごそうと努力してきたらしいってこと。


 僕はそれに対して無責任にもこう返した。



――友達って、傷つけられても許せる人のことじゃないの。



 たぶんどっかの映画か何かで見た台詞なんじゃないかと思う。あまりにもするりと頭の中に浮かんできてしまったので、そのまま口にしてしまった。


 結果として光倉さんは意気揚々と段ボールの壁を乗り越えて教室に戻っていき、東野さんに話しかけ、みんなと一緒の輪に入り込み、今日なんかは家に帰らず泊まり込みで例の万年カレンダー作りに参加する気になったらしいんだけど、それですべてが上手くいったのかどうかというのは、東野さんのこれからの愚痴の強弱にかかってくる。誰かが強く、嫌な思いを抱えたまま進む関係というのはどこかで絶対に破綻する。まあそうじゃなくても関係なんて時が経てばいつかはぜんぶ破綻するんだけど、それはそれで別の話として。


 たぶん、あの打ち明け話は全員にしたわけじゃないと思う。少なくとも僕がついさっき教室を後にするまでは、そういうことを大々的に光倉さんが口にする場面はなかった。夕食のあとで男女に教室が分かれて、そのあたりのタイミングで個別に呼び出したりでもしたんだろうか。なんにせよ、ふたり目の打ち明け相手に、わざわざ自分でも嫌われていると自覚している東野さんを選ぶっていうのは、なるほど、根は自信満々なんだろうし全盛期はそれこそものすごい人だったんだろうな、と容易に想像がついてしまう。


「みじめな、のあたりまで。された?」


 東野さんが断片的なワードで訊いてくる。ああ、と頷きながら、長くなるのかな、と予想して僕はペットボトルの蓋をゆっくりと開け始める。


 と思ったら、突然東野さんが奇行を始めた。


 東野さんはペットボトルを塀の上に置くと、ジャージのチャックをジジーッ、と一番上まで閉じた。それからぐいっとそのチャックを持ち上げて、ジャージの襟で鼻のあたりまでを覆い隠した。そしてさらにその上から右腕を被せる。



「ムカつくーーーーーっ!」



 叫んだ。


 あまり響かなかった、と思う。入念な準備のおかげで。たぶんジャージの上着の下に、カーディガンか何かを着込んでるんだろう。音はほとんど布に吸い取られてしまって、たぶん校舎の中にまでは届かなかった。


 だけど目の前に立っている僕には、当然届いた。そして思わぬ展開にあっけに取られていたら、手がものすごく冷たくなっていることに気付いた。見た。ペットボトルの口から泡が噴出している。手が濡れている。べたべただ。やってしまった。


「あららら」

「ああっ!」


 絶叫のあと、しばらく俯いていた東野さんは、そんな吠え声とともに勢いよく顔を上げた。髪の先が自販機に照らされて、勢いよく揺れたのが見える。


 そこまで怖い顔はしていなかった。けれど、まあ気合の入った顔はしていた。


「めーっちゃ見下されてんじゃん! 何? 私が本気出したらみんな心折れちゃうと思ったから手を抜いてましたって?」


 馬鹿にすんな、と東野さんはまた叫んだけれど、やっぱりその声は小さかった。小声で叫んでいた。器用な人というより、律儀な人だなと思った。


「より惨めだっつーの! しかも隠し方へったくそだし! 隠すならちゃんとテストで悪い点取れ! リレーの選手になるな! 足を短くしろ!」


 最後は不可能でしょ。


 僕が濡れた手を冬の空気に晒しながら体温をすり減らしている間、しばらく東野さんはわあわあとわめき続けた。髪を振り乱したり、ぺしんぺしんとコンクリの塀を叩いたり、勢い余ってペットボトルを叩いて地面に転がしたり、大人しく拾ったり、そんな風に暴れ狂っていた。そして最後には屈み込んで、膝と膝の間に顔を埋めて、


「わぁあああーーーっ!」


 と叫んだ。小声で。そして止まった。


 止まると、静かな夜だなあ、と気付いた。


 雨の粒は大きくないらしい。静かに地面が濡れていく音は、音として意識しなければそうとわからないくらいに優しい。それでも空気の中から震えを綺麗に吸い取っていくみたいで、渡り廊下は屋根の下で、シェルターみたいに静かだった。


 聞こえてくるのは、自動販売機が呼吸する音。


 それから僕の手から未だに未練がましくしゅわしゅわ漏れてくる炭酸の音。マジでどうしよう。うっかり右手に持っていたのを慌てて左手に持ち替えてしまってからというもの、僕には袖をまくる権利さえ与えられていない。


「あぁー」


 と。気だるそうな声が顔を上げないままの東野さんの膝の間から漏れてくる。それからさらに、たっぷり三秒くらい待ってから、ようやく顔だけが上がってくる。


「すっきりした」


 どう見てもすっきりした顔には見えなかった。のは別に、僕が自販機の光を浴びて作る影の中に東野さんが屈み込んでいるからっていうのだけが理由じゃなかったと思う。


 すん、と鼻をすする音が聞こえたのは、外が寒いからだけだったのかもしれない。


「待鳥さ、あれ気付いてた?」


 その姿勢のまま、東野さんが僕に訊く。


「え、うん」

「どう思った? てた?」

「どうって、どうとも」

「ムカついたりしなかった?」

「えー? 別に。そういう競争心みたいなのないし」

「私が闘争心バリバリみたいじゃん」

「違うの?」

「違うよ。別に自分よりすごい人ってだけだったらこんな腹立たなかったもん」


 へえ、と真面目に驚いてしまった。前に榛名にどうしてそこまで光倉さんに対する憎悪を燃やしているのか訊いたときには、「邪魔なんだよ、俺の前に立つ奴は」とかいう少年漫画の悪役みたいな台詞が返ってきてしまったので、東野さんも同じ感じなんだと思っていた。


「勝手にかわいそがられてたのが嫌なの。私、そういうのが一番苦しい」


 そう言うと、また東野さんは膝の間に顔を埋める。水の中に、顔を浸けるみたいな動きで。たぶん意図しているところはむしろ逆で、息継ぎするのと同じような目的で。


「そういうのない? お前はないよね。そういうやつだもん」

「勝手に納得しないでくれる? まあないんだけど」

「だろうね。…………ね、」

「はい」

「お礼言っていい?」

「さっき言われなかったっけ」

「中学の」

「え」

「あのときね、話しかけてくれてうれしかったよ」


 小さく、ありがと、と聞こえた。

 本当に小さくて、か細い声で。消え入るような声で。


 僕は、席が隣だったから話しかけただけだよ、と言おうとして。この言葉の頭に、あのときも、とついてしまうことに気がついて。


「うん」


 とだけ、短く返した。雨が吸い込んでしまうくらいの音量で。


「よし!」


 と言って、東野さんがすくっと立ち上がった。そして置きっぱなしにしていたペットボトルを豪快につかみ、勢いよく蓋を開け、思いのほか慎重にごくりと一口それを飲んだ。


「愚痴終了! 聞いてくれてありがと!」

「どういたしまして。僕は聞くって一言もいってないけど」

「言ったじゃん」

「記憶捏造しないで」


 あは、と笑った東野さんは、いつもどおり、とはいかないけれど、いつもより2割くらい無理してます程度で済むような、そんな雰囲気をしていた。


「これですっきり光倉さんと仲良くできるよ」

「えっ」


 驚いた、というより慄いた。


「どういう精神構造?」

「『こっそり手を抜かれてかわいそがられてた』ってことにひとしきり怒ったから、これでチャラ。やられたことには怒り切ったから、もうあの子には怒ることないでしょ。嫌いになるのもなし」


 なんて身体に悪そうな罪を憎んで人を憎まずなんだ。僕は素直に東野さんが心配になった。なったけれど、せっかく綺麗にまとまったところに波風を立てるような冒険心もなかったので、すごいね、と多層的な意味を込めた相槌を打った。うん、と頷いて返された。


 それから東野さんは、手に持ったペットボトルを頭の上に掲げるみたいな恰好で背伸びをした。片方の手で片方の手首を握りながら右へ、左へ大きく身体を曲げる。目は瞑っていて、一番上までチャックを上げたジャージの襟元が、もう一度顎のあたりをすっぽりと覆った。


 すとん、と肩が落ちる。


「戻ろっか、寒いし」

「そうすね」


 東野さんは二の腕をさすって、首をすくめ、さむさむ、と呟きながら渡り廊下を後にしようとする。けれどすぐに振り返った。


「待鳥は? 戻んないの?」

「乾いたら」


 東野さんの喉のあたりから、は?という声が微かに聞こえた。たぶん声に出そうとして意識した音じゃなかったから、距離の関係もあって、僕の耳には本当に小さく届いた。どのくらい小さいかというと、今まさに僕の手の中にあるペットボトルからしたたり落ちている滴が渡り廊下のコンクリートに染みをつくる音よりも。


 東野さんの目線が、僕の瞳からゆっくりと落ちていく。顎、首、ジャージの襟元、チャック、ペットボトル、滴が重力に従って上から下へ。


「うわ」


 と言った。それから続けて、


「ばか」


 と言った。ぐうの音も出なかったから代わりにふふん、と笑って見せたら、ふふんじゃないよ、と東野さんは怒り、怒りつつジャージのポケットからハンカチを取り出し、ほんの短い距離をすたすたと詰めてくる。


 東野さんを濡らさないようにと両手を上げて、ちょっと後ずさった。

 後ずさったら、さらに前にもう一歩出られて、上げた両手を、ペットボトルごとハンカチで包まれた。


 そのあとしばらくの時間が流れて。


 僕は、ありがとう、と言って。

 東野さんは、うん、と頷いた。




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