Ⅱ-2
「よし行け、光倉さん係」
久しぶりに学校に来て言われる言葉がこれ。しかも、朝一で。
「いや、僕もう榛名くん係やってるから……」
「ひとりもふたりも変わんないでしょ」
すごい。血も涙もない。
午前九時半。まったく起きる気配のなかった榛名を置いて家を出て、遅刻してませんけど?という雰囲気を醸しながら堂々と教室の扉をくぐったら、記憶にあるよりだいぶアットホームな空気が漂っていて、ものすごい疎外感を食らった。食らっていたら、ぬっと東野さんが目の前に現れて、いきなりこれだった。
アットホームな空気が出ているのもそれはそのはずで、もうほとんどのクラスメイトの家はここだ。気の抜けたジャージ姿や髪型で、男女の別なく地べたに座ったりしつつくつろいでる。たった一月くらいの時間だったはずなのに、もう友人知人どころか兄弟姉妹みたいに見えなくもない。疎外感が見せる幻覚かもしれない。
頼みごとをされたのでとりあえずいつもの習性に従って断ってしまったけれど、まったく話が読めなかった。読めないといえば、あの教室の端の方、というか僕が座る席の目の前に置かれている巨大な木製カレンダーみたいなやつもまったく意味がわからない。何あれは。先週来たときはあんなものはなかった。でもどこかで見たことがある気がする。遥か昔すぎて覚えていないかもしれない。いやまあそっちはいい。今重要なのは光倉さん係とかいう不穏にもほどがある響きの役職のことだった。
「え、何。僕のいない間に加速してるの? 教室内ギスギス」
「ううん、たぶん逆」
逆?と首を傾げてから、ああ、と頷く。僕と同じ状態になったわけだ、と。光倉さんも学校宿泊組じゃない、ということは僕とある程度似たような感覚をこの教室に対して覚えるだろうということで、
「みんなでワイワイしてる空気が無理で脱走してるわけ?」
「うん……、たぶんそんな感じ」
「普通に仲良くすればいいのに」
「そりゃあ、わたしだって向こうから来るなら拒否らないけどさ」
「自分から行くのは嫌ですか」
む、と一瞬東野さんは口をつぐんで、それからパッと、勢いよく開く。
「やだ」
「じゃあ放っておこうよ」
「それもやだ。なんか、性格悪いじゃん」
「いやもう取り返しつかないくらい、」
悪いよ、と言ってる途中で「いいから探してきて」と、勢いよく胸のあたりを平手で押される。妙に硬い感触がしたな、というか痛い、と思ったら、その手のひらと僕の胸の間には小さなチョコレートが挟まれていた。特に何も考えずに指でつまむと、「前払いね」と東野さんは言い放ち、ぐいぐい僕を廊下へと追いやった。
その横をするりと数学の先生がすり抜けて、チャイムが鳴って、授業が始まってしまった。
何もかもが不純だった。
たまには真面目に学校に行こう、と思い立って、雨の降る冬の朝を渡ってきたというのに、この仕打ちはないと思った。思ったけれど、普通に授業が始まってしまった教室に今から乱入する気はさらさら起きなかった。
来る必要のない学校にわざわざ来て、わざわざ授業をサボらされる。僕は今、天下一可哀想なんじゃないかと思った。僕にも係をつけてほしい。ひょっとするとすでに東野さんが僕の係なのかもしれない。あんな人に係をやられるのは嫌だ。なんて、ひとしきり嘆いてしまえばやることもなくなって、仕方ないから光倉さんを探しに行くことにした。
まあ、どこにいるのかは大体見当がついていたのだけれど。
冷え切った廊下をひとりで歩く。窓の曇りからはするすると滴が下りていて、スチールの窓枠は、触れているわけでもないのに、僕に向かって氷のような冷気を放っている。
屋上前。特別棟四階の階段を上って、折り返して、段ボールの前。姿は見えないけれど、その奥に人の気配をもう感じている。前と違って、今日は人に言われてのお使いだから、あんまり遠慮みたいなものは感じない。
「光倉さーん」
「ぶぇええっ」
太った猫が左右から押しつぶされたみたいな声が聞こえてきた。そして携帯が床に落ちる音。
「えっ、誰……」
と言いながら、一番上に積まれた段ボール箱の、真ん中が向こう側から取り除かれる。そして、予想していた顔が見える。
「あ、待鳥くん……」
「ひさしぶりー。元気だった?」
「うん、ピンピンしてた」
その答えもその答えでおかしいだろ、と笑ってしまって、それと少し安心する。別に何か、教室内で居場所がないあまりにひどい精神状態になってるとか、そういうわけではなさそうだ。
そう思った直後、でもそういえばこの人この間、楽な自殺の方法ランキングみたいな動画見てたんだっけ、と記憶が蘇ってしまう。
まあいっか、とその記憶を脇に置きつつ、
「久しぶりに学校に来たらさ、」
「うん」
「やっぱこの話はいいや」
「え」
「ねえ、あの教室にあるカレンダーみたいなの何?」
光倉さんは、さっと顔を曇らせて、
「ああ、あの万年カレンダー……。私もよく知らないんだけど……」
万年カレンダー。それだ。すっかりきっぱり記憶から消していた。小学校にそんなのがあった。木のパネルをパズルみたいに組み替えてカレンダーを作るやつ。すさまじく懐かしい。僕の小学校にあったやつはなぜかやたら薄暗い場所にあって、今日みたいな雨の日はまったくもって日付が読み取れなかった。
光倉さんは続けて、クラスの人たちが話してるのを聞いてた感じだと、という前置きをしてから、言う。
「なんかこう……、思い出づくり?みたいな感じで、みんなで作ってるって」
「万年カレンダーを?」
「うん」
ああ、そういえば、と。
また記憶が蘇る。小学校にあったそれにも、確か下のあたりに何年度卒業生製作、だとかそんな文字が入っていた。案外メジャーなメモラブルクリエイションなんだろうか。それにしても、高校生が作るっていうのはちょっと聞いたことがなかったけれど。
「光倉さんは? やんないの?」
話の流れでそう言うと、光倉さんは露骨に「すごく聞かれたくないことを訊かれてしまいました」というような顔をして、ちょっとだけ罪悪感が湧いた。ちょっとだけだったので、すぐに忘れた。
「や、なんか……。ちょっと、入りにくくて……」
「嘘だあ」
「え?」
「あ、」
言っちゃった、と口元を押さえる。けれど、一度口にしてしまった音は、もう戻すことはできない。光倉さんは戸惑った表情で僕を見ている。
「なんて?」
ちょっと迷う。だけど、ちょっとしか迷わない。
たぶんそれは、強い人が弱い人のふりをして生きるってことにそもそも無理があるって、普段からなんとなく思っていたから。
「光倉さん、中学で生徒会長やってたんでしょ」
ああ、ショックを受けたんだな、って。
一目でわかる表情を、光倉さんはした。
「だ、誰から聞いたの」
「僕は榛名から聞いたけど。前、塾同じだったって」
光倉さんが通っていた中学校からこの高校に進学してきた人は、どうもほとんどいないらしい。榛名が言うには「いねえんじゃねえの」とのことだけど、それでも高校生の人間関係というのは、意外に高校の中だけで完結しているものじゃない。
割とみんなが知っていることだった。
「あとめちゃくちゃ明るくて人気者~みたいな感じだったってのも聞いた」
「え、や、そんなこと」
「ありまくる?」
んむ、と息を呑む音がする。この質問に対して無言の肯定が出てしまう人は、本当に素直な人だと思う。
「行けばいいじゃん。こんな死ぬほど寒いとこにいないでさ。みんな待ってるよ」
と言ってから、クラス中のみんなが腕を広げて待ち構えている教室のイメージが脳裏を過ってしまう。僕なら絶対にそんなところには行きたくない。
「そ、そうかな?」
しかし光倉さんはまんざらでもないらしい。ほのかにはにかみつつ、目をきらきら期待に輝かせた。この場合僕と光倉さんのどちらが少数派に属しているのだろうか。東野さんはたぶん喜ぶ。榛名は死ぬほど嫌がると思う。人数はイーブンだけど、感情の強さで僕たちの勝ちかもしれない。
「ほんとほんと。光倉さん隠れ人気あるらしいからね。ていうか僕がここに来たのもみんなから呼んできて!って言われたからだし」
「う、嘘だあ」
「ほんとほんと」
そんなに嘘はついてない。僕は堂々と頷いた。光倉さんは勉強と運動と容姿に優れているので、クラスの男子からは遠巻きな人気を得ているし、大体東野さんの言うことは一個人の意見というよりクラスの代表としての一面が大きい場合の方が多いので、おおよそ七割くらいは本当のこととカウントして差し支えないと思う。四捨五入して一〇割、本物の本当だ。
光倉さんはまだ悩むそぶりを見せていた。けれど口元がにやついていたので、正確に言うならそぶりすらできていなかった。あと一押しくれたら出てきますよ、というのが明白の顔つきだった。言葉がなかった時代でもそれなりに人間は意思疎通できたんだろうな、と遥か過去と未来に思いを馳せた。
「んじゃ教室行こうよ。ここ寒いしさ。カレンダー作りは、ほら。東野さんあたりに声かけとけば仲間に入れるからさ」
と言った瞬間、思ったより自分が光倉さんの感受性をナメ腐っていたことを知った。東野さん、のあたりで光倉さんの顔色は面白いくらいに曇った。それから伏し目がちに、情感たっぷりに湿っぽく言った。
「私……、東野さんに嫌われてない?」
うん、と素直に頷いちゃダメだ、と咄嗟に気付けたので頷かずに済ませることができた。僕はえらい。しかしそのあとどんな言葉で代替すればいいのかも思いつかなかった。東野さんより榛名の方がヤバいよ。ダメだ。正直者すぎて嘘がつけない。
「なんで?」
とりあえずとぼけてみた。すると光倉さんは、
「私…………、」
とだけ呟いて、しばらく躊躇うような表情を見せた。ここまで表情ですべてを語れるのは一種の才能だと感じた。
しばらくの間沈黙が続いて、僕は大人しく待ち続けた。背を向けた先にある屋上に続く扉からは、雨音が漏れ聞こえている。乾いた地面を濡らしていくような音ではなくて、水たまりにまた水が注がれるような音。今日の雨は随分長引きそうだ、なんて思いつつ、足首のあたりから寒気が上ってくる。暖かいところに行きたい、と思った。電車を降りてからもう一時間近くが経って、ふと気がついたことには、かじかんでいた指先が、今は本当に指の形をした氷にでもなってしまったみたいに、何も感じなくなっていた。
名前損だな、と思うことがある。苗字に含められた『待』の字に引っ張られて、僕はときどきものすごく辛抱強くなってしまう。でも本当のことを言うと、そういう時間をすっぱり諦めて別のことに費やした方が、楽しい出来事をたくさん拾えると知っていたりするのだ。知っていたりするけど、どうせそこまで切羽詰まって人生を最大限楽しみたいというわけでもないからどうでもよかったりするのだ。
それで、結局。
「……うん。やっぱり言うよ」
僕のこれからの残り半年に満たないだろう少ない人生のうちたっぷり一〇分を空費させたのち、光倉さんは言うのだった。
「待鳥くん。私の昔の話――、聞いてくれる?」