Ⅱ-1
「終わったって」
「何が」
「お葬式」
はあん、と気のない返事をした榛名は、アイス用の木のスプーンを口にくわえたままで、コントローラーを操作する手を止めなかった。
一一月が来ていて、ほとんど冬になっていた。榛名の辞書に我慢の文字はなく、部屋の中のエアコンは遠慮なくフル稼働していて、こたつに足を入れるまでもなく、暖かな空気が満ちている。白くて薄いレースのカーテンの向こうでは、閉ざされた窓の表面の水滴が、つ、と流れていく。電線に止まったカラスの飛んでいく空は、今日もまた灰色だった。
榛名の操作するゲームのキャラクターが、通行人から車を強奪して、流れるようにATMに突っ込んでいった。パトカーのサイレンが鳴り始める。最初の頃こそ、僕らはこの一連の流れで死ぬほど笑っていたけれど、今となっては見慣れた光景で、榛名の表情は全然動きやしない。
こたつの上にみかんはない。代わりに、平らげたスナック菓子の袋がふたつ転がっていた。
「誰行ったの」
「東野さん」
「ほかは」
「知らない。気になんの?」
榛名は何も答えなかった。沈黙は肯定じゃなくて、無関心も表す。
ぺぽっ、と携帯が鳴る。
「榛名、呼ばれてるけど」
「友引かよ」
「先生に。ていうか知らないでしょ、死んだ人」
「あー、そうでもねえ。去年美術選択で授業被ってたわ」
「え、じゃあ行けばよかったのに」
「キリねえだろ。仲よかったわけでもねえし。つか何、誰が呼んでるって?」
「担任。顔見せろって」
正確に言うと、東野さんからのメッセージはこんな風だった。『今お葬式終わった』んだけど、この間もそんな話をしたけど担任が『やっぱ榛名のこと心配だって言ってる』から、『今時間ある?』『ていうか榛名の家にいる?』これから『ご飯一緒に食べに行かない?』。
榛名は口にくわえたスプーンを、不満気にくいっと持ち上げる。
「だりー」
「でもこの流れタダ飯だよ」
「いやいいわ。俺の家にはもはや今生で使い切れないほどの財がある」
「なんで急に貴族になった?」
こういうのは気分的な問題でしょ、と重ねて僕は言ったけれど、榛名の答えは「気分的にだりぃ」だったので、僕は『榛名が』『だるいって言ってる』『貴族になりながら』と東野さんにメッセージを送る。怒ったうさぎのスタンプが返ってきた。あとギロチンのスタンプが返ってきた。いつ使うつもりでこんなスタンプ買ったんだ。
「それはそれとして昼どうすんの?」
「さっき食ったろ」
「スナック菓子はご飯にカウントしないでしょ」
「ウチはウチ、よそはよそ」
そう言いながら画面の中のゲームキャラクターが、人を殺害し、ドロップされた生肉を食べている。遠回しな牽制の可能性があった。
しょうがないなあ、と思って部屋の隅に投げ出していた自分の鞄を引き寄せる。こたつに足を突っ込んだまま、腹ばいになって。財布を取り出す。開く。七〇〇〇円入っている。
「コンビニ行くけど、」
「カツ丼。あとカレー」
「めっちゃ腹減ってんじゃん。むしろそれ榛名が買いに行くのが筋でしょ」
「やだよ外さみいもん」
「冬服出しなって」
ああ、と適当な返事しかなかったので、僕は諦めてこたつから抜け出す。右のポケットに携帯を入れて、後ろのポケットに財布を差して、うん、と背伸びする。
「んじゃ、行ってくるわ」
「うーい」
榛名が盗んだ車で赤信号を突っ切っていく画面を最後に、部屋を出る。
暖房の効いていない廊下に出ると、寒い、というより最初には、涼しい、という感覚が訪れる。それから、ただ息を吸うだけで喉が潤う。飲み物も買ってこなくちゃな、と思う。部屋に常備されている二リットルのお茶のペットボトルが、最後に手にしたときには随分軽くなっていた気がする。
榛名の家も、もはや勝手知ったる、という感じだった。階段を下りて、キッチン、ダイニング、リビングに通じる扉を備えた廊下を通り過ぎれば、そのまま玄関がある。
榛名の脱ぎ散らかした靴の横に、僕が申し訳程度に揃えた靴が置いてある。それ以外の靴は、この一月の間に動いたところを見たことがないので、背景みたいなものだ。
玄関を出る。鍵はかけない。何やら榛名の家は携帯で遠隔操作できるハイテクな鍵を採用しているらしくて、僕が何もしなくても、勝手に施錠の管理はされている。戻ってきたら、普通にインターホンを押せばいい。向こうが寝てない限りは、それで入れる。
思ったよりも寒くないな、と感じたけれど、何気なく吐いた息が白かった。だから、やっぱりもう冬が来ているらしいってことだけはわかった。
コンビニは榛名の家を出てすぐに右に曲がって、一〇分ほど歩いた角のところにある。そこから五分歩くと、駅がある。精々映画のレンタルショップがあるくらいで、ほかに何もない駅。ちょっとくらいなら足を伸ばしてもいいな、と思う。日曜日。学校にいても何をすることもないからと昨日から榛名の家にいるけれど、そろそろ身体が動きたがっている気がした。
空は曇っている。最近は雨が降るか、それとも雨が降りそうかのふたつくらいしか天気の種類がない。冬ってこんなものだっけ、としばらく納得していたけれど、動画サイトのランキングでひっきりなしに『異常気象!』の煽りのついたタイトルを見かけるうちに、なるほど異常気象、と認識を改めた。それでまあ、そういうのは全部隕石のせいらしい。たったひとつの隕石でここまでなんでもかんでも終わってしまったら、もうひとつ落ちてきたときには星ごとまっぷたつに割れてしまうに違いない。そして、そのもうひとつが落ちてくるのはあの分厚い雲のせいでまるで見えやしないに違いない。
住宅街は、ここ一週間くらいで一層静かになった。これは気のせいじゃないと思う。色々な要因が考えられるけれど、このあたりに住んでいる人は間違いなく減ったし、まだ残っている人たちの生活ボリュームも間違いなく減った。
このひと月で、僕らの通う学校の生徒は一〇人死んだ。
学校全体の人数が一〇〇〇人くらいで、死亡割合は一パーセント。全国的にも、全世界的にもそこまで大きな誤差のない数字だった。
一〇〇人のうちひとり、と考えると大体学年で三、四人くらいの確率で、まだ僕にとってこれは身近な、切羽詰まった出来事としては感じられない。同じクラスから死者は出ていないし、知人からもひとりも出ていない。ただ、世界的に見るともう死者数七〇〇〇万人、ということで、こっちの数字を見るととんでもないな、という印象を受ける。小さな国ならとっくに滅びてるような数だ。身近な数字よりも大きな数字の方が危機感を煽ってくる、そんな世にも珍しい例だった。
危機感を煽られたのは僕だけじゃなく、当然他の人たちもそうで、初めの頃はそこまで強制力のなかった集団生活が、どんどん浸透していった。元々は子どものいる家庭あたりがこの生活に参加するメイン層で、特に独身の人たちなんかはこれをガン無視してたみたいなんだけど、今じゃ受け入れ施設が足りないだのなんだのでてんやわんやらしい。まあそりゃあ、今まで散らばって分布していたものを集めようっていうんだから、そういう問題は起こるだろうと思う。ちなみに榛名は未だにガン無視勢で、もちろんそれには親から聞いた医学的な裏付が理由としてはあるんだけど、僕もそれに釣られて結構な無視っぷりで、こんな風に平然とひとり歩きをしている。
土日はやることがないから大抵榛名の家にいて、平日は気分次第で学校と榛名の家を行き来している。あとはたまに自分の家に戻って好き放題する。
今のところ僕はそんな調子で、破滅していく季節を過ごしていた。
コンビニの前まで来たら、レンタルショップに立ち寄る気なんてすっかりなくなってしまっていた。ので、そのまま入店する。聴き慣れたチャイム音が鳴って、聴き慣れた店内放送が聴こえてくる。『政府の発表では――、』から始まる、いつものやつだ。
セッカ病が蔓延してから経済活動が停滞したかというと、案外とそうでもなかったりする。その証拠に、店内には品数こそ多少少なくなったものの、僕たちの嗜好を満たすに足るだけの商品は揃っている。
なるべく、いつもの通りにやりたいらしいのだ。治療法が見つかったとき、スムーズにこれまでの生活に戻れるように。僕はそんな段階はとっくの昔に通り過ぎていると思うのだけれど、たぶん、こういう麻酔を打たれたみたいな生活は気持ちが良くて仕方がないんだと、そういうことも同時によくわかる。現に僕は結構気持ち良いし、だから現状に対する不満は、特にない。
「ん、」
榛名に買っていくための高貴なカレーと高貴なカツ丼の存在をそこに認めて、自分は何を食べて残り少ない寿命を延ばしてやろうかと考えていたら、ポケットが微妙に震えている気がした。ので、そこを探ると携帯を取り出すことができた。表示されていたのは、東野さんの名前。とりあえず、と何も買わないまま、一旦コンビニの外に出て、電話を取る。
『もしもーし』
「はーい」
『ね、ご飯ほんとに無理?』
「えー……、めっちゃ押してくるじゃん」
『いや、まあ一応……』
歯切れの悪い返答に、ああこれ、東野さんが自主的に掛けてきたんじゃなくて、担任から電話もしてみろとかなんとか言われたからそのポーズを取ってるだけなんだな、と気付く。自分で自分の察しの良さにちょっと感動する。
「ていうかもうご飯食べちゃった」
『あ、そう?』
「うん、榛名は……まあなんか、適当にそのうち連れてくよ。そんな感じで先生に言っといて」
オッケー、と返ってきた声は明るい。また今日も人助けをしてしまった。良い気分になって電話を切ろうとしたところで、あ、と引き留めの声。
『明日学校来る?』
「明日? あー、うん」
行くよ、と言いかけて。
七〇〇〇万人の幻影が見えて。
「行けたら行くよ」