Ⅰ-3
「ういっす」
「おっすー」
と、雑な挨拶を榛名と交わし合うと、いつもの朝が来たなあ、という感じがした。ついさっきまで、起きて布団を畳んで、なんてことをしていたときには、まるで昨日の続きのまま今日を始めてしまったみたいで、しっくりこなかったんだけど。
教室に入ってきた榛名が最初にすることと言えば、ロッカーに鞄とブレザーを突っ込んでいつものカーディガン姿になることで、いつものことながら首元がガバガバで寒そうだな、と思う。確かにここの制服は固くて動きづらいから、そういう恰好をした方が楽なのはわかるんだけど。
「お前なんで今日ジャージ着てんの?」
それから榛名は僕の席のところまで来る。窓際の最前列。ベランダに通じる扉の手前、一段高くなっている足場のところに腰かけて、ホームルームまでの時間を潰す。僕は僕で、椅子に横向きに座りながら、朝日を背に受けて、窓辺に寄りかかっている。
僕は昨日の夜に言われたこと、宿泊する生徒のYシャツをいちいち洗ってアイロンかけるのは面倒すぎるからお前らジャージで生活しろというありがたいお言葉を賜ったってことを伝える。へえ、と榛名が割とどうでもよさそうに頷く。朝の八時二〇分。教室の中ではジャージ姿が圧倒的多数で、それは別に、宿泊組は全員そろってて、制服組はこれから来るってことだけが理由じゃなかった。
「結局昨日、どんくらい泊まったん?」
「七、八割じゃない? 大体いた気がするけど」
「狭くね」
「マジ狭いよ。榛名はアレたぶん無理だと思う。あ、そういや昨日のあれなんだったの?」
「ああ、別に。自分で解決したわ。お前返信おせーんだもん」
「いやそんな遅くはなかったっしょ。ちょっと放置したけど」
「おい」
ぺん、と榛名がカーディガンの袖を余らせて、それで机を叩く。机に積み上げている辞書の表面から埃が舞ったのが、窓から差す朝日にきらきらと照らされてわかる。たぶん昨日、どったんばったん教室を引っかき回したのが効いてるんだと思う。窓を開けて換気したくなるけれど、最近は寒いから顰蹙を買いそうだし、ただただくしゃみが出そうで出ない気持ちに耐えることにする。
「てか自己解決って何? なんか勉強わかんないとこあった?」
「あったとしてもお前には訊かねえわ」
「数学この前勝ったじゃん」
「あれまーだ納得いかねえ。お前カンニングしただろ」
「してねぇー」
へらへら榛名と笑い合っていると、教室の前側の扉から、制服姿が入ってくるのが見える。それは光倉さんで、僕はちょっとビビる。
誰に話しかけることもなく、光倉さんはまっすぐ席まで歩いてくる。僕の隣の席に。学校指定の鞄が、重たそうな音を出して机の上に置かれる。
おはよう、と声をかけるまで、光倉さんはこっちを見もしない。
声をかけると、一瞬だけ顔をこちらに向けて、笑って、おはよう、と言う。そしてするりと目線を外して、コートを椅子に引っかけて、鞄を教室の後ろのロッカーに持っていく。
時刻は八時二八分。もうすぐホームルームが始まる。
「泊まりじゃねえの?」
と榛名が言った。ん?とそっちを向いて訊いてみると、光倉さんの席を顎で指す。らしいね、と答えると、ふーん、と面白くなさそうに榛名が言った。というか、明らかに不機嫌になっていた。六月半ばの席替えでこの配置になってからというもの、榛名は光倉さんを見ては毎日のように不機嫌になっているものだから、もう今更どうこう言う気はないけれど、身体に悪そうな朝の日課だなとはいまだに思っている。
一限目なんだっけ、と思う。思い出せなかったので訊く。漢文、と榛名が答える。睡眠タイムだな、と思いながら机の中を探る。薄い教科書と文法書を取り出して机の上に置く。漢和辞典はすでに積み重ねられた辞書の中に混じっている。あくびがひとつ出る。なんだか昨日は、眠りが浅かった。
チャイムが鳴ると同時に、光倉さんも戻ってくる。この人はいつも計算したかのようにぴったり席に着く。ここ一ヶ月のインフルエンザ休暇のためにしばらく見なかった光景だけれど、久しぶりに見ても懐かしい、というよりいつも通りだな、という感想が浮かぶ。榛名は、じゃ、と言い残して廊下側の自分の席に戻った。なのに、先生はまだ入ってこない。なんとなく、教室の中に弛緩した空気が満ちている。僕はこの後自習になるんじゃないかな、という淡い期待を持ち始める。生徒が宿泊を始めて一日目が明けた朝だし、色々授業以外の事務が発生したりしてるんじゃないか。してたらいいな。話し声が聞こえ始める。たぶん僕と同じ考えに至った人が何人かいる。これからの時間を潰すことになるんじゃないか、という見切り発車で携帯を取り出す。充電は朝のうちにしたから、九八パーセント。教室で休憩時間外に携帯を弄り出すときの習性で、入り口の扉の方に注意するために、ちらっと横目を使う。すると、珍しく光倉さんと目が合った。ので、携帯を机の上に置いて、話しかける。
「もうインフル大丈夫?」
「え、あ、うん。ダメだったら出てこないよ、迷惑だもん」
「ていうかすごい時期に罹ったよね。休み始めたのほぼ夏だったでしょ」
「あ。そう、それね。でもね、調べたら結構夏にインフルエンザになるってあるらしいんだよね」
「ほんとに?」
「病院で看護師さんも言ってたもん」
へえ、と頷く。最近病気と聞いたらもっぱらセッカ病の話ばかりだったから、ちょっと新鮮な気持ちになりつつ、光倉さんの語るインフルエンザ豆知識を聞く。話していると、昨日のことが浮かんでくる。光倉さんの表情を見ていると、どうもその話はなかったことにされているように思えたので、関係のないことを考えながら話を聞き続ける。
そのうち、するーっと光倉さんの視線が僕とは反対側の方に逃げ出していく。僕もそれに釣られていくと、教室の入口の方に向かっていったことがわかる。話題が一段落するのを聞き終えて、
「来ないね」
「ねー」
担任が訪れる兆候は全く見られない。ホームルームの終わりと、一時限目の終わりを告げるチャイムが鳴る。教室はもう一段二段、騒がしくなる。
「自習かな」
「私、久しぶりに来たのに……」
ほんのり残念そうに光倉さんが言う。休み続けるとあの漢文の授業すら楽しみになるものなんだろうか。教科書を先生が音読するか、生徒が音読しているかくらいしかしていないと思うんだけど。単純に勉強が好きという線もなくもない。榛名が死ぬほど嫌そうに勉強している姿を見て以来、成績が良いからといって勉強が好きなわけじゃないと念頭に入れるようにしていたんだけど、よくよく考えてみるとその情報によってすべての成績上位者が勉強嫌いということにはならない。
そんなことを考えていると、教室前方の電話機が鳴った。ほんの一瞬緊張が走って、その後は自習を期待する声が教室のあちこちから聞こえてくる。それから、電話機の前に座っている生徒同士で視線のやり取りが交わされる。誰が出るかを押し付け合っているのだ。電話機は廊下側に設置されているので、僕は関係がない。思い切り壁に寄りかかって、ふんぞり返ってみたりする。
結局、前から二列目に座っている東野さんがさっと席を立った。いやあすごいなあ、と素直に感心する。さすが自分からクラス委員長をやる人は気合が違う。
がちゃり、と受話器を取ると、教室のクラスメイトが一斉に耳を立てる。東野さんの答えは簡素なもので、はい、はい、わかりました。の三言で終わった。受話器を置いて、振り向く。期待が降り注ぐ。東野さんの口が開く。
「自習!」
いえーい、と気だるい感じの歓声があちこちから湧いた。僕は僕で、気が抜けてあくびをする。光倉さんは、少しだけ俯いて、溜息らしきものをついた。それからこっちを向いて、言う。
「ね、待鳥くん。私保健室行くから、もし先生来たら伝えておいてもらっていい?」
ちょっとびっくりしつつ、うん、と頷く。
「やっぱまだ体調悪い?」
と訊くと、そんな様子はまったく感じさせないさまで光倉さんは明るく笑って、
「ううん。ただ昨日あんまり眠れなくって……」
そう言って、立ち上がる。オッケー、と指で丸を作って応えると、光倉さんは軽く頭を下げて、そのまま席を立つ。もう教室の中は騒がしくなっていて、それほど目立たなかった。忙しない人だなあ、と思う。
困ったことに光倉さんがいなくなってしまったので、話し相手がいなくなってしまった。後ろの席は女子で、その隣の席の女子といつも一緒に行動するタイプの友人関係を築いている。僕はこの教室という集団の中において孤独な断絶に見舞われてしまった。いやまあ、この一ヶ月大体ずっとそうだったんだけど。おかげで携帯中毒みたいにいついかなるときも携帯を弄くりまわすようになってしまった。机の横に置いた鞄からイヤホンを引き抜きつつ、絡まっているのをほぐしつつ、大胆にも教室で動画視聴を始めてやろうとして、そのときメッセージがくる。榛名からだった。僕の携帯に入るメッセージの九割は榛名からで、残りの一割が親と業者だ。
『あいつは?』
と短い文に、
『保健室』
と返す。返して、後ろを見ると、予想通り榛名は席を立っていて、こっちに近付いてきて、光倉さんが立ち去って空になった席に座る。
「何あいつ、サボり?」
「や、」
寝不足だって、と返そうとして、それはサボりだな、と気付く。
「まだ体調悪いんじゃない? 一ヶ月インフルだったんだってよ」
「は?」
「マジ。本人言ってたもん」
「なわけなくね」
僕に言われても困る。東野さんと榛名のふたりに伝えてふたりとも反応が芳しくなかったので、光倉さんのインフル情報はこれ以降話題として上げないことにした。
「あいつの話はいいや。待鳥、今日の夜暇?」
「用件による」
「よるな」
「いや、よるよる。完全による。行けたら行くわ」
僕が言うと、榛名は声を出して笑って、「お前マジ腹立つわ」と言った。言われたので、そこそこ傷ついた。
「うち泊まりにこねえ? 親帰ってこねえから」
「え? あー」
うーん、と考え込む。内容としては、まずそもそも学校宿泊組として名簿に登録されているだろう生徒が、いきなり人の家に泊まりに行けるのかどうか。他には、人の家でご飯を作って食べるのはともかく、トイレやら風呂やらを借りるのってなんか落ち着かなそうだよな、とか。あと着替えとか持っていく感じになるのかなとか今日着たものの洗濯はいつどういう風にやろうかなとか。その中でも特にいちばん気にかかったところから質問することにした。
「いいけど、やることあるの? 前行ったときなんもなさすぎて死ぬほど時間持て余したじゃん」
「いや、独房から進化した。どさくさに紛れてゲーム機買ったわ。お前コントローラー持って来いよ」
「マジ? 機種何?」
榛名が口にした名前は、僕の持っていないゲーム機だったけれど、ふたりでネットで調べてみたら、旧世代のハード用のコントローラーがそのまま使えるらしかった。中学以来新しいゲーム機は買っていなかったけれど、そっちなら僕も持っている。
「オッケー。あとは外泊できるかかな……。あれ、東野さんいなくなってる」
「あ?」
僕の言葉を聞いて、榛名も振り向いて東野さんの席の方を見る。からっぽだ。教室の中を見渡してみるけれど、どうも姿が見当たらない。
「なんで東野?」
「先生に訊いてダメって言われたらめんどくさいじゃん。東野さんならダメでもこっそり脱け出せばいいし」
気になって、席を立つ。榛名もついてくる。教室の出入り口の方に立って、外の廊下を見る。目に入る範囲に、東野さんの姿はない。近くの席のクラスメイトにどこに行ったか知ってるかと訊くと、なんかたぶん外行ったよ、と、そりゃそうだろうなとしか言いようがない答えが返ってくる。
「僕ちょっと探しに行ってくるね。どうせ暇だし」
と言うと、榛名はマジで、と驚く。
「一緒に行く?」
「いや、バレたらめんどくせえだろ」
「なんとかなるっしょ。平気平気」
「お前マジで適当だな」
カモン、と手招きしても榛名は首を横に振るばかりだったので、先生が来たら死んだって言っといて、と伝言を残して僕一人で旅に出ることにする。
洒落になんねー、と笑っていた。