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じゃあ逆に君以外がみんな死んでしまうとしたらどうするんだって話  作者: quiet
Ⅴ 終わること知りながら降る僕たちは僕たちじゃなく僕として在る
22/22



 目覚めると、隣の布団が灰塗れになっていた。


 どうやら僕が一番の貧乏くじを引くことになったらしい、と寝起きの頭でもすぐに理解できた。誰がいちばん損な役回りをすることになるか賭けようぜ、と昨日の夜も話し合っていたから。


 きょろきょろとあたりを見回してみるけれど、光倉さんの姿はない。もうひとつの布団は蹴飛ばされたように乱雑に床に転がっていたので、また逃げたんだろうな、と思う。いい加減慣れたりしないものなんだろうか。


 寝ぼけた身体をうん、と背伸びさせて、裸足のままぺたぺたと床の上を歩いて、教室の一番後ろのロッカーから、ほうきとちりとりを取り出す。


 布団まで戻って、遺灰を掃く。さらさらとした、白みの強い灰色の粉。これが基は人間だったらしい、っていうのは今になってもあまり直感的な理解が及ばなくて、やっぱり、死んでしまった人のいた場所に、どこからか風に吹かれてきた塵がたまたま積もっただけなんじゃないか、と疑ってしまう。


 きっと、普通の死体でも、似たようなことを思ったんだろうけど。


 ひととおり掃き終えたら、箒を置く。ちりとりの口のあたりで往生際悪く溜まっている遺灰を、手のひらでぺたぺたと拾い集める。それからシーツの上の細かな粉も、すべて、できる限り。


 セッカ病が残す遺灰は、灰にしては重く、人ひとり分の残骸にしては軽い。片方の手だけで持てば、プラスチックのちりとりがしなるような重みを感じる。教室の床に投げ捨ててある大きなビニール袋をもうひとつの手でがさこそと取り出して、その中にさらさらと、灰を詰め込んでいく。口のところを三回結ぶ。


 トイレの前の水道に行って、備蓄のペットボトルの水で、手を洗う。


 よく洗う。


 クラスメイトの僅かな残骸が下水道に流れていくのを、じっと見つめた。


 ハンカチで手を拭いて、教室に戻る。光倉さんの姿はない。机も、椅子も、もうない。あるのは抜け殻のような布団が三つ。投げ出されたトランプが一組分。ビニール袋が四つ。万年カレンダーが、ひとつ。


 カレンダーの前に座る。やたらカラフルで、ごつくて、手間のかかった、なんだかんだで未完成のカレンダー。三月用に組み替えられていて、二十五、の数字のところにだけ、赤いパネルが嵌めこまれている。


 それを外す。黒字の二十五を嵌めこむ。黒字の二十六を外す。赤字の二十六を嵌めこむ。こうして、明日というのが今日になる。


 ぼんやりとその数字を眺めていて、急に背筋に震えが走った。寒い。例年、三月はこんなに寒かっただろうか。月が替わって、暖房のための燃料の心配をしなくてよくなって、代わりに夏、どんな風に過ごせばいいのかを無責任に、無計画に悩み始めるつもりだったのに、春分の日を過ぎた今頃になっても、まだ寒い。


 窓の外を見る。しとしと雨が降っている。こいつのせいだろうなあ、と思って、悩むまでもなくもしかしたらもう一生夏を見る機会はないかもしれない、とほとんど確実なことを考えたりしながら、布団の中に隠れる。基本的には日中、動かない方がいい。動くと腹が減るし、腹が減ると食べ物を口にしなくちゃいけない。そして口にできる食べ物は限られているのだ。


 まあ別に、もう残りふたりだし、好き勝手食べてもたぶん余るんだけど。少なくとも僕の分に限ってしまえば。でもまあ、これから生き残っていく可哀想な人のためにもそこそこの量を取っておいてあげる親切心というのもないでもないのかもしれない。


「あ、」


 と、そこで思いついた。寝てる場合じゃないや、と。いや別に、本当は寝ていてもいいんだけど、こうしてぐーすか寝ていたら困る人がいる。かもしれない。


 というわけで、また布団から抜け出す。さすがに裸足じゃ寒いや、と思って、教室の後ろ、真ん中一番下段のロッカーを開く。近くの服屋から拝借してきた大量の靴下が入っている。適当に手を突っ込んで、適当に取る。意味不明な色の靴下を履いて、廊下に出て、上履きを突っかけて、歩き始める。


 だいたい、居る場所はわかっている。


「片付け、終わったけど」


 特別授業棟。四階。屋上に続く扉。その前に光倉さんは座っていて、僕は下の踊り場から声をかける。膝を立てて、その間に顔を埋めているものだから、表情はさっぱりわからない。


「ねえ」

「片付けって言わないで」

「……失礼しました」


 うっかり口が滑った。昨日までは他のクラスメイトがいたから普通に気を遣えていたのに。光倉さんとふたりになったことで気が緩んでしまった。こんな気の緩み方をするやつは嫌だな、と自分で思う。


「遺灰、集め終わったから。教室戻ってきなよ」

「……ごめん、今、ちょっと余裕ない」


 いつも余裕ないなこの人、と心の中でだけ思う。もしも人の死に慣れないことが善人の条件だとしたら、光倉さんは全世界善人チャンピオンかもしれない。


 そう、とだけ僕は頷いて、踵を返す。今に始まったことじゃない。こういうときはとりあえず、教室に戻ってくるのを静かに待つのだ。一度だけ心配するように顔を見せておけば、それでいい。逆に一度も見せないでいると、後で拗れる。


「待って」


 はずだったのに。


「ここ、来て」


 もう拗れた。俯いたままの光倉さんは、屋上の扉の手前、段差のあたりに座っていて、その位置を少し直して、すごく狭苦しいスペースを開けた。今日からは違うパターンらしい。まあ確かに、残りひとりになれば流石に反応も変わってくるのかもしれない。


 階段を上る。床には扉の磨りガラスから差し込んだ薄い光が作る、手紙みたいに白くて四角い模様がついている。光倉さんの示す狭いスペースに自分の身体を詰め込むのは遠慮したかったので、その四角の中に足を置いて立つ。それだけにする。


「座って」


 したのに。


「座って、ここ」

「えー……」

「お願い」


 こういうとき、弱ってる人って強いよなあ、と思う。仕方なく座る。肩の触れ合うような距離。落ち着かないなあ、と思う。そこそこ光倉さんとの付き合いも長くなったけれど、やっぱり向こうから距離感を指定されるっていうのは、居心地が悪い。それが普通より近い距離なら、なおさら。


「自殺、」


 光倉さんが言った。


「します」

「しないんでしょ」

「……うん、できません」


 そこまでは言ってないけど、光倉さんは勝手にそこまで認めてしまった。


「みんなの分までちゃんと生きます」

「がんばってね」

「できません、そんなこと」

「大変だね」

「待鳥くん、死なないでよ」

「無理。不老不死じゃないし」

「不老不死になって」


 言いながら、光倉さんの身体が傾いて、僕の肩に体重をあずけてくる。僕は光倉さんの頭に手を添えて、ゆっくりと押し戻す。光倉さんの頭が負けじと体重をかけてくる。力比べが始まる。体勢的に僕が若干不利だった。


「なっ、て、よー!」

「むー、りー、で、す!」


 すごいぐいぐいくる。なんでこんなことに体力を使わなくちゃいけないんだ、と悲しくなって、力の向きを変えることで均衡状態から脱出する。具体的に言うと、頭の向きを逸らされた光倉さんは斜め前の方向に上半身を倒れ込ませた。額のあたりが僕の太ももに当たった。痛い。そしてそのままの姿勢で光倉さんは止まった。


「……無理かなあ」

「無理だね」

「永遠に生きたりしない?」

「永遠に生きたりしない」

「根性なし」

「えー」


 あんまりな言い草に呆れた声が出る。光倉さんが喋るたびに、足に生温かい息が当たって不快だった。ので、頭を持ち上げようとしたのだけれど、思ったよりも重たくて、光倉さんはさらさら体勢を変える気はなさそうで、手で触れた頭も生温かくて、やっぱりなんだか気持ち悪くなってやめてしまう。


「なんで私だけ……」


 という呟きは、セッカ病になれなかったんだろ、と続いていくとわかったので、


「神様に気に入られてるんじゃないの」


 慰めの言葉を言えば、


「むしろ嫌われてる気がする。こっちくんな!って言われてるの」


 さらにネガティブな言葉が返ってくるので、


「かわいそ」


 とだけ言って、話を終わらせる。

 沈黙が呼吸をするみたいに、間が空いて、


「でもまあ、仕方ないよね。そうなっちゃってるんだもん」


 と、前向きな言葉。僕は機を逃さないように、そうそう、と相槌を打つ。


「のんびり死ぬまで生きなよ」

「それは無理」

「へえ」

「無理でもやるしかないんだよね……」

「そうそう」


 どすん、と足に拳を振り下ろされた。いっ、と一瞬声が出たけれど、ちょうど骨の硬いあたりに当たってくれたのか、衝撃ほどの痛みはなかった。むしろ、振り下ろした光倉さんの拳の方が痛んだんじゃないかと思う。


「どうせすぐ死ぬ人は気楽でいいよね」

「いいでしょ」

「馬鹿。死ね。死ぬな。呪われろ。不老不死になれ」


 ぐすぐす、と洟をすする音が声に混じり始める。でもよく知られているとおり、泣いたところで人の寿命は延びたりしないし、不老不死になったりすることもない。


「そんなに深刻にならなくてもいいのに。どうせ光倉さんだってそんなに死ぬまで長くないよ」

「質が違うの」

「はあ」

「みんなで一緒にバタバタ死ねる人たちはいいよね。不安とかないんでしょ。お手々繋いでみんなでゴールだもん。私はさ、ひとりだけ取り残されるんだよ。ただ病気に罹んなかったっていうだけで、他の人が欲しかった時間、そういうの全部背負って生きなきゃいけないんだよ」

「別に捨てたらいいじゃん。何がどのくらい大事かって、人にとってじゃなくて自分にとってどうかで決まるものでしょ」

「私は待鳥くんとは違うもん」


 そう言われて、光倉さんの言葉に付き合い続ける意味がさっぱりなくなってしまった。鏡みたいにほとんど同じタイミングで頷いて、ほとんど同じタイミングで首を横に振って、そういう風にしていればいいのかな、と思う。本当は、本当にそれだけでもいいのかもしれない。


「人が大事にしてるものは大事に見えるし、勝手に捨てたりなんてできないよ」

「それが自分の持ち物でも?」

「そうだよ。だから私、これからも生きていくしかないんだよ。待鳥くんが死んだあとは備蓄したペットボトルの水をひとりで飲んで、それがなくなったら今度は雨水を飲んで、雨が降らなくなったら今度は泥水を飲んで、そういう風に、みんなの分もがんばって生きていくしかないの」


 なんだか今日の光倉さんはよく喋るなあ、と思った。まるでみんなの遺書みたいに、一生分の言葉を並べ立てるみたいに喋っている。少し考えて、まあそれもそうか、と思う。僕が死んだら、もう話し相手もいなくなるのだから。僕が今夜どころか今すぐにでも死んでしまいかねない以上、実質、これが遺言みたいなものなのかもしれない。


「死ぬのってなんで怖かったか、知ってる?」

「さあ」

「ひとりぼっちになるからだよ。たった今死んでいく人よりも、たった今生きてる人の方が多かったから」


 光倉さんはそんな自分理論を語る。たくさんの遺書を読んでいても思ったけれど、もうすぐ終わりが来るって頃になると、みんな自分の心の整理をつけるためなのかなんなのか、生きることとか死ぬこととか、そういうことについて何かの公式を見出そうとするらしい。


「今は生きることの方が怖いよ、ずっと」

「そう」

「私の話、興味ない?」

「普通かな」

「最低、もう要らない」


 消えて、と言って光倉さんは僕の膝を叩いた。不用品扱いされた僕の死体はおそらく例のビニール袋に入れられた後、校舎裏のごみ捨て場に容赦なく捨てられるだろう。それどころか、ただ風に晒されて放置されるだけかもしれない。まあ別に、死んだ後のことなんて関係ないし、どうだってなんだっていいんだけれど。


「とりあえず、また寝たら? そしたらもう少し、マシな気分になってるよ」

「もう眠くない」

「じゃあ海にでも行く?」

「なんで?」

「前行ったとき楽しかったから」

「ダメだよ。あのカレンダー、置いていけないでしょ」

「いいよ別に、あんなの。僕が死んだらみんなの墓とかにしちゃいな」

「そんな勇気ない」

「じゃあ生きてるうちに僕がやるよ。あれはみんなの墓。カレンダーじゃないし、生きてる人のための道具じゃない」

「……でも、みんなの心がこもってる」

「みんなの心はぜんぶ綺麗に天国に行ったよ。ここには何も残ってない」

「……ほんと?」


 言いながら、光倉さんは僕の膝を撫でた。うひい、と声が出そうになる。そういう意図はないんだろうけど、力のない触り方はくすぐっているみたいで、ぞわぞわする。上から手を重ねて押さえつけた。


「本当」


 言葉も重ねた。ただ僕は光倉さんのことを慰めようと喋っているだけなのに、なんだかお伽噺でも口にしているような、そんな気持ちになっている。


「でも、ダメ」


 と、光倉さんは言った。


「心は残ってなくても、思い出は残ってるから」

「誰の?」

「私の」


 じゃあ仕方ないね、と僕は思って、


「そう。よかったね」

「うん」


 光倉さんは素直に、そう言った。


 それからしばらく、眠るみたいに座っていた。眠るみたいにっていうのは、つまり、時間が永遠に続くと信じて、色々な意識を手放してしまえるみたいに、っていうこと。


 その眠るみたいな時間が終わったのは、目が反応したから。


 僕たちの目の前の床には、背中を預けた扉についた小さな磨りガラスが作る、光の溜まりが浮かんでいる。その白くて、ぼんやりとした四角の中に、何かちらちらと、黒い影が流れていくのが見えた。


 雨、にしては大きく。雨、にしてはゆっくりとした速度で。


 名前を呼ぶと、光倉さんもそれを見た。じっと。僕ときっと、同じように。それから僕の手の下にあった自分の手を、ゆるりと持ち上げて、自分のジャージのポケットを探る。


 鍵が出てきた。屋上、とタグがついているのが見えて、光倉さんは僕の肩に手をかけて、体重を預けながら、身体を起こす。少しだけ、痛かった。


 光倉さんが立ち上がって、僕も立ち上がる。振り返って、屋上への扉に向き合う。磨りガラスから洩れだす光は、ちょうど僕たちの顔やら胸のあたりに当たって、同じように、黒い影もさらさらと身体の表面を流れていった。


 光倉さんが、鍵穴に、鍵を差し込む。ずっ、と。がちゃり、と。硬い音がして、鍵が回る。

 扉を、重たそうに。光倉さんが開いた。


 そして、ああ、と声を漏れる。僕の口からか、光倉さんの口からかは、あまり意識しなかった。



 雪が降っていた。


 もう春の始まるころになって、今さら。



 光倉さんの足が、先に動いた。屋上に足を踏み出す。ほとんどの生徒が足を踏み入れたことがなかっただろう、さっきまで降っていた雨の名残で汚く濡れた床を、上履きで踏みしめる。僕はしばらく扉をじっと支えながら、結局は同じように、屋上に踏み入った。背中に、重たい扉ががちゃん、と閉まる音が聞こえた。


「雪だよ」


 と。光倉さんは言った。目の前のそれを、よく確認するように。嘘になってしまう前に、言葉にして固めてしまうように。


「雪だよ、待鳥くん」

「うん」

「神様からのお祝いかな」

「なんの?」

「がんばって生きましたで賞」


 だといいね、と言おうとして、口の中で言葉を変えて、


「そうだね」


 ちょっと笑う。


「うれしいね」


 と、光倉さんが言った。


「うれしいね」


 と、僕も言った。


 綺麗だね、と光倉さんが言って、僕も言った。

 白いね、と光倉さんが言って、僕も言った。

 あんまり冷たく感じないね、と言って、僕も言った。

 積もるかな、と光倉さんが言った。


 積もらないだろうな、と僕は思った。濡れた屋上の床の上に立ちながら。泥まみれの校庭を見下ろしながら。肌に触れただけだってほら、こんなに容易く溶けてしまうのに。


 積もるよ、と言った。光倉さんは笑った。あはは、と声を上げて。それから、こんなことを言った。


「でも、何も解決しないね」


 それはそうだろ、というようなこと。


「雨でも雪でも星でも、何が降っても何も変わんないや」

「何に変わってほしいの」

「ぜんぶ」

「そっか」

「うそ。本当はね、」


 そこで言葉を切って、光倉さんは僕を見た。


「遺書、もう書いた?」

「いや」

「遅くない?」

「書かないよ」

「え」


 目を丸くして、


「なんで? 書きなよ」

「どうせ読む人いないでしょ」

「私読むよ」

「いいよ、読まなくて」

「なんで?」

「なんでって言われても……」


 なんでだろうな、と考える。考えている間にも雪は降って、春先に空から落ちてくるような柔らかな氷は、すぐさま僕の身体の表面を濡らしていく。はじめからただの雨だったような顔をして。


「一七年生きてきて、言い残したいこと何もないの?」


 言い残したいこと、と聞けば反射的に口をついて、


「ないよ」


 と、自分でも想像しないほどさっぱりした声が出る。不思議なもので、自分で自分のそう言う声を聴いてしまえば、本当にさっぱり、言い残したいことなんて何もなくて、だから遺書を書かない、そういう人が僕なんだ、と自分を認識し直してしまう。


「言い残したいこと、なんもないや」

「……残ってる人、私だけだから?」

「いや別に、そういうことじゃなくて」


 だからたぶん、きっと。


 この言葉を口にしたとき、どういう気持ちになるのか。そういうこともちゃんと知っていて。

 知っていて、口に出した。



「まあまあしあわせだったから」



 少しだけ、別の景色が見えた。


 教室とか。榛名の家とか。渡り廊下の自動販売機の前とか。たったいま背にした屋上前の扉とか。海だとか、廊下だとか、昔の教室だとか、なんだかそういう景色が、まるで大切なものみたいに、ちらちらと降り続ける雪に紛れて、冬の景色が消えてしまう前の走馬灯みたいに、目の中に現れた。


 幻だから、すぐに消えてしまったけれど。


 目の前で上履きと靴下を脱ぎ始めた光倉さんは、本物だった。唐突にそんな行動を始めたのでびっくりしてしまったけれど、びっくりした状態から回復するのも待ってくれないで、光倉さんは裸足で薄汚れた水たまりをパシャパシャと横切って、上履きを手に持って。


 思いっきりぶん投げた。


 一足目は、遠くに飛んだ。二足目は、屋上の柵に当たって、無様に下に転がり落ちていった。光倉さんは続けて、靴下も丸めて投げた。空中で広がってしまって、投げた時の勢いよりもずっとふんわりとした勢いで、それは校庭に落ちていった。


 光倉さんが屋上の柵を握る。四角くて、白くて、ところどころ錆びていて、すっかり濡れたそれを、思い切り、手が白くなるくらいに強く握る。


 そしてきっと、何かを叫んだ。


 声は何も聞こえなかったけれど。音は何も聞こえなかったけれど。光倉さんから、波に似た、風に似た何かが、空に向かって放たれたような、そんな気がした。


 なんて言ったの、なんて。


 訊く気も起こらなかった。それはたぶん、光倉さんだけが知っていればいいことだと思ったから。


 灰色の雲が、空に立ち込めている。


 屋上から見える街並みは霞んで見えて、灯りなんかひとつもついていない。冬の温度をまだ残したままのコンクリートの箱ばかりが立ち並んでいて、たまに、人の暮らしていたころの遺跡みたいに柔らかな色の屋根が、ぼんやりと空にその身を晒している。


 校庭に生徒の姿はひとつもなくて、賑わいなんかかけらもなくて、ただひたすら泥色にぬかるみ続けていて、光倉さんが投げ捨てた上履きの白だけがやけに目につく。


 ちらちらと降る雪は、目に見えるすべての景色に降り注いでいる。柔らかくて、頼りなくて、触れたらすぐに、まるで初めから何もなかったみたいに、ただの水に変わって消えてしまうっていうのに、それでもすべてに、景色の中にあるすべての欠片に降り続けている。


 その光景を瞳に映して、瞬きひとつすれば、瞼に触れて、消えてしまう。


 光倉さんが振り向く。


 あれはどんな顔だろう、と思う。

 どんな顔だっていいや、と思う。


 誰がどんな顔をしていたって、僕がどんな表情をしたっていいと思う。

 どうにもならないことばかりなら、どうにかできる僅かなことは、どうにだってしていいはずだと思う。


 だから、少しだけ。


 光倉さんと、目を合わせて。

 光倉さんと、光倉さんの立っている景色に目を合わせて。


 少しだけ、笑う。


「寒いから、中、戻ろっか」


 もう誰も待ってないけど、なんて付け足すまでもなく。

 ほんの少しだけ降る雪の、そのほんの少しを、僕は、そしてきっと、光倉さんは感じていた。



 いずれは溶けて、消えてゆくことを知りながら。




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