Ⅳ-1~4
1
クリスマスと年末年始も終わって、一月。
東野さんが死んだのでびっくりした。
たぶんみんなもびっくりしていて、まとめ役がいなくなった教室はぐだぐだになった。なんとなく次の女子組のリーダーが決まらなくて、カレンダー作りも一時期ちょっと停滞したくらいにはぐだぐだぐだになった。
ただ、そのぐだぐだも、次の葬式のあたりで終わった。葬式の段取りとか、そういうところはうちの教室ではほとんど東野さんがやってしまっていたので、とにかくそのあたりのところが大変なことになった。大変なことになったので、人の葬式をちゃんと進めてくれた人自身が死んで、その葬式がめちゃくちゃになったら目も当てられない、という意識が芽生えて、みんなの悲しみや混乱に一区切りがついた。
このときから、僕は葬式のときだけ頼りにされることになる。元々東野さんから、葬式のときだけはそこそこ使える男として扱われていたので、段取りに慣れていたのだ。なんで葬式のときだけはそこそこ使えるのかというと、これは別に僕が葬式が得意だからというわけではなく、みんな葬式のときは落ち込んで使えなくなるので、相対的に僕が使えるサイドに立てるという、ただそれだけの話である。
みんな、誰かが死んだときには、泣かない。
代わりに、葬式のタイミングで、泣く。
じゃあ葬式をやらなければ誰も泣かずに済むんじゃないかといえば、それはたぶんそんなことはなくて、みんな泣くタイミングを図っていたのだ。生活に支障を来さないように。
どうせ死ぬのに。
セッカ病で死んだ人の、骨は残らない。代わりに、バラバラに分解されて、灰になったみたいな粉だけが残る。みんな、遺灰と呼ぶ。
葬式に、東野さんの両親は来なかった。特に誰も、その理由を調べようとはしなかった。
遺灰は他の多くの生徒と同じように、共同墓地に埋められている。
たまに、クラスのみんなで、墓参りに行ったりした。
引っ越しの挨拶みたいだね、と誰かが言って。
僕はこっそり、おしるこの缶を供えたりしていた。
もう怒る人もいないのに、こっそりと。
2
八木くんは死に際して、ふたつの影響を残した。
ひとつ目は、万年カレンダー拡張作業の終了。八木くんがとにかくダイナミックなものを作ろうとする影響で、どんどん骨組みが巨大化していたけれど、とうとう先陣を切る人がいなくなったので、もうこのへんでいいか、という共通認識が芽生えた。
それからは細々と、必要な部品を作ったり、余白を彩色で埋める作業が行われている。僕はこういう作業が好きだったから良かったけれど、教室には悪影響を及ぼしたみたいだった。
作業の先が見えると、自分の寿命の行く先も見える。
そんなことはないと思うんだけど、そんなことあるようにみんなは感じていたらしかった。
そこで登場したのが、ふたつ目。
長い遺書。
八木くんは友達に「自分が死んだらロッカーを確かめてみてくれ」とことあるごとに言い含めていたそうだ。定期葬儀の直前に死んだ八木くんは、その死からそれほど経たずに、遺言どおりに僕たちにロッカー内を捜索させた。そこで出てきたのである。激長い遺書が。
遺書、と書かれた、細長い半紙みたいな質の薄い紙の方。こっちは普通だった。家族への感謝とか、クラスメイトと一緒にやれて楽しかったとか、そういう、まあ、言っちゃえばごく普通のことが、つらつらと達筆に書かれていた。字も上手かったんだ、という感動と、そういえばやたら筆ペン探してたのはそれか、という納得があった。
問題は、『遺書②』と書かれた方。大学ノートだった。
すべてのページが埋められたそれは、ほとんど自伝とか、日記とか、そういうものだった。
生まれたときから、小学校に通ったときから、中学校に通ったときから、高校に通っているときから、楽しかったこと、つらかったこと、夢を持ったこと、なくしたこと、誰かを好きなったこと、嫌いになったこと、後悔していること、したくないこと、家族のこと、みんなのこと、生きること、死ぬこと、これまでのこと、これからのこと。
さらりと書かれていた方の遺書とは違った。思い付きで書いていたんだろう、中身はぐちゃぐちゃで、行き当たりばったりで、ボールペンで引かれた二重線だらけ。見栄えはすごく悪くて、でもたぶん、八木くんはこっちの方を本気で書いていたんだって、簡単にわかった。
みんなが読んだ。僕も読んだ。それで、みんなも遺書を書き始めた。楽しそうに書いた。それはもう、先の見えない万年カレンダー作りを楽しんでいたように、結びの言葉の見当たらない遺書を楽しんで書き続けていた。
最後のひとりは嫌だな、と誰かが言った。
誰にも読んでもらえないから、と誰かが言った。
『遺書③』は見つからなかった。書けなかったのか、書かなかったのかは、知らない。
3
二月。旅行に行った。本当に過酷な旅だったので、かえってすごく素敵な思い出として記憶に残っている。そう思わないとやってらんないぜ、と頭が勝手に判断してくれたらしい。
海行くぞ、と榛名が言った。
死に際に海が見たくなる人というのはそんなに少なくない。というか多い。死ぬ前にどこに行きたい?と訊くと多くの人が実家か海を候補として挙げるし、実際結構みんな、海に行っているらしい。
えー、と僕は言った。寒いよ、と言った。てかどうやって行くの、交通機関もう死んでるでしょ、と言った。
チャリで行く、と榛名は言った。雨降ってるけど、と僕は言った。海に入ったらどうせ濡れんだから同じだ、と榛名は言った。こいつ頭おかしいな、と思った。
そして、頭のおかしい旅が始まった。
つらかった。雨だし冬だし海は遠いし。適当に駐輪所に停めっぱなしになっていた自転車を拝借したけれど、高校生の持ってる自転車なんて大体ホームセンターで売ってるいちばん安いやつだから、腰やら何やら痛くなるし。なんでもうそろそろ死ぬっていうのにこんな苦しみを味わわなくちゃいけないんだ。そう心でも思ったし、実際口にも出したけれど、出しまくっていたらそのうち榛名が泣きそうになったので、まあいいけど、と締めくくる羽目になった。
海に着いても、凄まじい感動がそこにあったかと言われれば、そんなでもなかった。
冬だから。雨だから。青い海、白い太陽みたいなごくごくありがちな感動はひとつもそこになかった。灰色の海、灰色の雲。寒風。これから海になるべくして空から降り注いでくる鈍い色の水。爽快感とは無縁の風景だけがあった。
まあ、この世の終わりっぽくて最期に見るにはふさわしい景色かもしれない、と。かえってそういう納得だけはあった。ので、榛名がものすごい顔をして湿った砂浜に膝から崩れ落ちたときは、何事かと思った。
しょうもねえーーーーーーー!
と。榛名は叫んだ。
アホかこいつ、と思った。そして榛名は続けて、自分がどんな海を期待していて、どんな思いで自転車を漕いで、どんな気持ちでこの場所で終わりを迎えようとしていたのかを大声で語った。半分くらいは風の音で聴こえなかったけれど、本当にアホなんだなこいつ、と思った。
ひとしきり叫んだあと、帰るか、と榛名は言った。榛名は切り替えの早い人間だった。一方で僕はもったいない精神をそこそこに持っている人間だった。
折角来たんだから泳いでいこうぜ、と僕は言った。
お前頭おかしいのか、と榛名は言った。こっちの台詞だ、と僕は返した。
掴み合いが始まった。体格差を砂浜が誤魔化してくれたおかげで、互角の勝負になった。全身ずぶ濡れの高校生ふたりが海を前に、人生でいちばん真剣だったかもしれない格闘を繰り広げた。
お互いがお互いの負けを認めようとしなかったので、たぶん僕たちは二時間くらいそこで争いを続けた。たまに本当に溺れ死ぬかと思うようなこともあったし、ここで死ね、とか平気で言い合っていたと思う。
それで、満足した。
日が暮れて、自分の足下すらよく見えないような夜が来た。僕たちは凍えながら、近くにあった大きなショッピングモールに逃げ込んだ。人影なんかもうさっぱりなくて、ゾンビのいないゾンビ映画みたいに見える廃墟で、勝手に展示品のベッドの上に身体を投げ出して、眠った。
起きると、榛名は死んでいた。
少し迷って、遺灰の半分は海に撒いた。残りの半分は、雑貨屋に置き去られた壜に詰めて、とりあえず持って帰ることにした。
特に遺書の中に死体をどうしろということが書いていなかったので、とりあえず、校舎に埋めて、『はるな ここにねむる』と墓標を立てておいた。
4
寝た。
起きた。
寝た。起きた。
寝た。起きた。寝た。起きた。寝て起きて、また寝た。
そのたびに、人が死んで、僕の周りはどんどんからっぽになっていって、世界はどんどん寂しくなっていった。
寝て、起きて、陽が沈んで、昇って、夜が来て、明けて、時が流れて、流れ続けて。
それでもうすぐ、春が来るらしい。




