Ⅲ-3
「こんなことして、意味あんのかよ」
午前九時のことだった。小雨がさらさら降っていたけれど、雲が薄いのか少しだけ明るくて、節電のために教室の電気を点けないように、なんて言われても、まあいっかなんて思えるような、そんな朝。
あと、昨日葬式を終えたばかりの朝。
こんなこと、と言ったのは、教室の真ん中、ジャージ姿で拳を握りしめて俯いた八木くんで、その立ち姿は、なんだか舞台に立った演劇俳優みたいに見えた。
こんなこと、と言われたのは、教室の前側、中央に置かれた、七割方出来上がりつつある巨大な万年カレンダーで、その姿は、なんだか舞台に置かれた大道具みたいに見えた。
その一言で、ぱた、と全員の手が止まったし、全員の目がそっちの方に向いた。そして何を思ったか教室の中心のあたりで作業してしまっていた僕は、これから起こりうることを想像し、そろそろと教室の隅の方に移動しようとする。したんだけれど、
「もっぺん言ってみろよ」
したんだから、もう少し待ってほしかった。八木くんのたった一言で着火してしまったのはよくよく見慣れた金髪頭で、ついさっきまでベランダ側で他の男子数人と喋っていたのに、大股でずんずん歩いてきて、もうすでに八木くんの目の前まで来ている。
榛名も背が高いけれど、八木くんも背が高い。どっちもまあまあ肩幅がある。僕は身長は平均くらいだけど、別に肩幅はない。怪獣大決戦に巻き込まれた一般人みたいな心境になりかけている。
「おい、もっぺん、」
「意味があんのか、つったんだよ」
「あ?」
「ないだろ、こんなことしても! どうせ死ぬんだよ!」
それはなんでもそうだろ、と思いつつ、びくっとしてしまう。僕は突然大きな声を出されるとびっくりするようにできているのだ。
「八木! てめえ!」
榛名もそれに負けじと大声を張り上げてしまう。胸倉まで掴み上げてしまう。やめてくれ。そして誰か止めてくれ。榛名と話していた男子たちはまあまあ肩幅があるのに、ただ困惑したような顔でこっちを見ているだけ。助けはこない。他に誰かいないかな、と周りを見てみる。六〇人いて誰もいないのか。こう、八木くんの恋人とか。榛名の恋人とか。そういう存在は存在していないのか。光倉さんすらちょっと怯えた風に見ているのが視界に入る。東野さんと目が合う。ついさっきまで心配そうな顔をしていたのに僕と目が合った瞬間だけ、お前間が悪すぎてウケる、みたいな顔をした。信じられない人だ。
誰も助けてくれそうにない。なんかもうこの後の流れなんとなくわかるんだよな、と嫌々僕はじりじり移動する。カレンダーの方に。
「本当のこと言っただけだろうが!」
「それが人のやってっこと馬鹿にする理由になんのかよ!」
「お前だって見ただろ! どうせ俺ら全員、あんな風になんもなくなんだよ! 昨日まで普通に喋ってたやつが!」
「だから何か残そうとしてんだろーが!」
「残らねえよ!」
八木くんが怒鳴った。そしてその左手が動いた。
ついさっきまで作業していたから、小さなトンカチが握られたままの左手が。
「こんなもん!」
大きな声。やろうとしたことに反応できたのは、たぶん教室でふたりだけ。僕と、榛名。間に合ったのは、最悪なことに僕だけ。
八木くんの左手が振りかぶられる。榛名がそれを抑え込もうとする。焦ったのか、確実に止めようとしたのか、肩口じゃなくて手首のあたりを掴もうとして、失敗して、すり抜けた腕が振り切られる。トンカチが投げられる。
カレンダーに向かって。軌道上には僕がいて。何か盾にできるものはないかと探していたのにさっぱりなくて、身体で受け止めるしかなくて。
わあ、とか、おい、とか。そんな言葉が聞こえながら、衝突。太もものあたりに、がつん、と。
声も出ないくらいには、痛かった。けど、その場で崩れ落ちたり、頭が真っ白になったりするのには痛みが足りなくて、普通に足を押さえて、口を開けて、そこから形のない悲しみとかを吐き出す羽目になる。
大丈夫か、と言って、何人かの男子が僕のところまで走ってくる。もうちょっと早く走ってきてほしかった、と思う。痛すぎるのでその場でうずくまってしまう。特に骨とかまでやっちゃった感触はない。たぶん八木くんも本気でバキバキにカレンダーを割るつもりはなかったんだと思う。普通に肉が痛い。絶対色が変わってると思う。二回目は嫌だな、と思って、床に落ちたトンカチをさりげなく自分の後ろに隠す。僕を取り囲んだ男子たちが、平気か、とか、大丈夫か、とか口々に尋ねてくるので、ちょっと落ち着いてから、
「…………いった……」
と素直に言った。ちょっと涙声になっていたけれど、視界に涙が浮かんでいたので当然のことだと思う。僕は痛いと涙が出るようになっている。
「おい!」
と、今度八木くんに向かって言ったのは、榛名じゃなくて、僕を取り囲んでいた男子のうちの誰かだった。そのせいで僕は怪我をしてとても痛いというとても可哀想な状況にあるっていうのに、すでに未来の心配と過去の行動の後悔を始める羽目になる。僕が被害者で、八木くんは加害者、危ない奴みたいな構図が出来上がるのは嫌すぎる。僕だってカレンダー作りってしょうもなくね、とは思っているのだ。というか僕の方が絶対八木くんよりも強い気持ちでこのしょうもなさのことを思っているのだ。これまで八木くんの方はちゃんと、みんなと一緒になって、というかみんなを率いて、一生懸命これを作っていたのだから。
「お前、何考えてんだよ!」
「……ちが、俺……」
ほら可哀想なくらい動揺してる。どうせ昨日の葬式のメンバーの中に八木くんの仲の良い友達がいたとかそういうことなのだ。いいじゃないか。死んだとき我を忘れるくらい悲しめる友達がいるって、いいことじゃないか。そんなに責めなくなっていいじゃないか。仲良しでやってきたんだから最後まで仲良ししてた方が綺麗に収まるじゃないか。支え合って生きていこうじゃないか。というかもし八木くんがこのあとすぐにセッカ病の症状を起こして死ぬとかになったら、僕の行動ミスのせいで八木くんの人生最後の思い出がこれになってしまう可能性がある。嫌すぎる。嫌すぎるので声を出す。
「……や、よ…………いた、く、わ」
痛すぎて出なかった。いや、よく考えたら痛くなかったわ、余裕だわ、そのくらいのことを言おうと思ったんだけど、想像の中の自分と現実に痛みに襲われている自分の乖離が激しい。痛すぎて本当に悲しい気持ちになってきた。涙を通り越してなんだかえずいてきた。痛すぎて吐くってありうることなんだろうか。普通にありそうで怖くなってきた。
「待鳥……」
それでも真剣な気持ちで言葉にすればそれなりに伝わるらしくて、僕の周りを囲った男子たちの目線は、八木くんから僕の方に移ったみたいだったし、上手く顔を上げられなくて床の方にしか視線を向けられずにいるけれど、僕の名前を呼んだ八木くんの上履きが、ゆっくりとした足取りでこっちの方に近付いてきているのが見える。
よかった、とちょっと安心する。なんかいい感じに収まりそうな気がする。今の仲の良すぎる空気には辟易していたけれど、仲が悪くてギスギスし始めたりするよりかは、まだまだ絶対そっちの方がいいと思ったりして。
安心してたのに。
「あ、」
ものすごく痛い。のに、自分が動かなくちゃ絶対間に合わない、と咄嗟に思ってしまって、実際上履きの動きに反応して顔を上げたときには、誰も動き出していなくて、もう今だけ色々なものを忘れよう、と思い切って、思い切り力を入れて立ち上がる。
榛名が八木くんの肩を掴むのが見える。
八木くんが振り向く。そのとき、もう拳は振りかぶられている。
色々なものを忘れても、それでもやっぱりどうしても力が入らなくて、身体が持ち上げられなくて、倒れ込むようにふたりの間に割って入るのが精一杯。
そうすると、ただ単に、殴られる人が変わるだけで。
がっ、と。思ったより鋭い感触がした。尖った石みたいな。骨ってそんな硬いのかよ、みたいな。そういう感触がした。つむじのすぐ横、後頭部とも、側頭部とも、言えないあたりに。上から降ってくるみたいに。
勢いあまって僕は、ばたん、と勢いよく床に倒れ込む。たぶんその直前に、もう一度教室から悲鳴みたいなのが上がったんだけど、僕が倒れてからは静かなものだった。そして足と頭と、それから腹のあたりが痛かった。倒れ込んだときに、たぶん何か物を下敷きにしている。刃物とか鋭いものじゃなさそうなのでそれはよかった。あと、寝っ転がっているから、総合的に見てさっきの体勢より強く痛みを感じないので、それもよかった。
それはそれとして、どうして僕がこんな目に、という思いがしくしくと湧き出してきた。文句のひとつでも言いたくなった。ひとつくらいしか思い浮かばないあたりが自分らしさってやつかもしれない、と思った。
それで、浮かんだ文句は、ふざけんなゴリラがよ、で。
「………………ふざけんな、ゴリラがよ…………」
思ったよりも情けない声だったけれど、思ったよりもはっきり声に出た。
たぶん、教室中の人たちに聞こえたんじゃないかと思う。




