Ⅱ-9
頭を抱えたまま動かなくなった榛名の隣で、僕はひたすら寒さに耐えていた。
「ねえー、榛名、ストーブあるとこ行こうって。マジ寒いよここ」
「…………」
「榛名ー、はるくーん、はるちゃーん」
ガン無視。さっきから三十分以上が経つけれど、榛名はずっとこの調子だった。
式場を出た榛名は思いのほか簡単に見つかって、普通にエントランスロビーにいた。ちょっと見えにくいけれど、比較的堂々と置いてあるベンチに腰を下ろして、骨ばった大きな手で、表情を見せないようにして自分の顔を覆っていた。
僕は懸命に話しかけた。どしたん? 調子悪いん? イラっときちゃった? 帰るか? おい無視か? やんのか? ああん?
全部無視。
のれんに腕押しを続けていてもつらいだけだな、と諦めて、僕はこの寒い寒いエントランスロビーで、変わらず降り続ける雨を眺めながら、健気にも榛名の隣をキープして震えていた。早く暖かいところに行きたい。そのためにもさっさと式に終わってほしい。なんて、罰当たりすぎることを考えて、声に出したら榛名にぶん殴られそうなので口にはしない。
意外だったな、と思う。
榛名がああいうことをするイメージはあんまりなかった。校則は破るし学校はサボるし愛想は悪いし口はきついし、確かにパッと見ると結構苛烈なやつだけど、仲良くなればそれほど気にならない程度にはなるし、仲良くなかったころも、急に凄んできたり殴ってきたり、そういう深刻な過激さとは無縁のやつだと思っていた。
普段と違う、ということは普段とは違う状態にするだけの、特殊な理由があるわけで。
体調が悪いだけじゃないんだろうな、と思う。むしろ、体調が悪いのもひとつの結果なんじゃないかと思う。
もしかして、もしかすると、結構精神的にきてるのかもしれない。これもまた、意外だと思う。
榛名も僕と同じで、そういうのどうでもいいと思ってる人間なんだと、勝手にそんな風に考えていた。
扉の開いた音がした。
「終わったかな」
「…………」
確かに投げかけるつもりのあった言葉じゃなかったけれど、榛名の一貫した無反応に、ちょっと寂しいような気持ちになる。ただ、すぐに遠くから聞こえてくる音が僕の推測を肯定してくれた。がやがやと聞こえてくる声が、斎場全体に漂っていた静けさを打ち消していく。
たぶんこのあとは食事の時間だろう。僕は斎場の中の地図を頭の中で思い描く。さっき弁当を置いた場所がああで、式場の場所がああだから、みんなが移動していくルートはこう。僕らのいるこの場所を通過することはない。
「飯行く?」
「…………」
飯食わないと死ぬよ、といつもの調子で続けようとして、やめた。やめた瞬間、やめたのが悔しくなった。急になんだよ、と言おうとして、やめた。こっちはやめても、悔しくならなかった。単にこれは、優しさからやめたんだと自分でわかっていたから。
「いた」
「お」
短い呼び掛けで、それでも嬉しかった。榛名からのものじゃない。東野さんが、ひとりで僕たちのところまでやってきた。
「なんでこんなとこいんの」
寒くない?と東野さんが自分の二の腕をさすった。寒いです、と僕は自分の身体を抱くようにしてブレザーの隙間から腕を突っ込んだ。
「ストーブの部屋行っとけばよかったのに」
「動かないんだもん、こいつ。ていうかだいじょぶだった? あのあと」
「うん、全然。待鳥たちがすぐ掃けたから、特に何事もなく、」
東野さんの話の途中で、はっ、と鼻で笑うような声が聞こえた。僕は榛名を見た。東野さんも榛名を見た。声の出どころがそこだったから。しばらくして、僕は東野さんに視線を戻したし、東野さんは僕に視線を戻した。それ以上声が出てこなかったから。
「で、お昼。行くよ」
「行きたいんだけど」
「ん」
「こいつ動かないんだもん」
僕は手のひらで隣の男を指した。東野さんは、ふうん、とフラットな表情で、その男の肩を叩く。
「ほら、行くよ」
「…………」
「ほら、こんなん」
僕が言うと、東野さんは、仕方ないな、みたいな溜息を小さく吐いて、
「右持って」
と言いながら、榛名の左手首をつかんだ。
「えー」
と言いながら、僕は顔を覆ったままの榛名の右手首をつかむ。もう随分長いこと榛名はこのポーズでいるし、そろそろ覆った顔にくっきり跡がついていそうだ。
そして東野さんは、案の定いつでも自分の後ろ側に体重をかけられる体勢を取りながら、
「引っ張るよ」
と言った。
引っ張るらしかった。ので、僕は立ち上がって、東野さんと同じ側に立つ。
「せーので行こう」
と東野さんが言うと、
「触んな」
と言って榛名が手を払った。なぜか僕のだけ。僕は東野さんに目線で訴えかけた。東野さんは、もっかい、と目線で訴えかけてきた。僕は榛名の右手首を掴もうとした。今度は掴む前から振り払われた。東野さんがふがいない僕に早々に見切りをつけて、自分ひとりの力で榛名の左手首を引っ張った。びくともしなかった。それはそうだった。体重が違いすぎる。しばらく東野さんはぐいぐい自分の全体重をかけて榛名を浮かせようとして、そのうち諦めた。
「なんで?」
と訊かれたので、
「知らん」
と答えた。それから
「なんで?」
と訊いたけれど、榛名は何も答えなかった。
「待鳥だけでも食べちゃったら?」
「いや、いいよ。帰るときだけ声かけて。こいつひとりにしとくのもなんか心配だっ、いっ……はあ? 何お前」
話してる途中で、太ももを急に小突かれた。小突いた本人は金髪を垂らして、俯いている。たぶん素知らぬ顔をしている。後頭部を軽く平手で引っぱたいた。するとお返しと言わんばかりに、今度は強めに足を叩かれた。エスカレートしてめんどくさくなるやつだ、と思って僕はそこで反撃をやめた。諦めて東野さんに言う。
「……まあ、こんな感じだから」
東野さんは、ごめんね、という感じの顔をした。声に出さなかったのは、横の金髪に聞かれるとめんどくさいことになりそうだという予想があったんだと思う。僕も同じ予想をしていたからわかる。
「……んじゃ、とりあえず帰るときだけ声かけるよ。お弁当どうする? とっとく?」
「あ、それ嬉しい。余ったら、おい」
話している途中で、背中側から、ブレザーに手を突っ込まれる。氷みたいな指が、ワイシャツを貫通してぞっとするくらいの冷気を押し付けてくる。僕は伸ばされている右腕の付け根を手のひらで押さえ込む。びくともしなかった。
「さっきから何?」
「…………」
「なんとか言えやい」
なんとも言わない。せめて「なんとか」くらい言え。
そろそろちゃんと怒ってもいいような気がしたけれど、僕は元々怒るのがあまり得意じゃない。得意じゃないことを今さら得意になろうと努力する気もない。なので、聞こえよがしに溜息だけ吐いて、金髪のお子様から視線を外す。
「余ったらでいいよ」
とさっきの言葉の続きを、東野さんに伝える。東野さんは、「ちゃんと取っとくよ」といかにも頼もしい言葉で返してくれた。
そして、それだけじゃなく、口パクで何事かを続けた。
声に出さないということは、榛名に聞かれたくないことなんだろうな、と思って、聞き取れなかった、もう一回、をジェスチャーで伝える。口の形をじっと見る。
あ、い、い、い、ん、あ、あ、い、お。
寂しいんじゃないの。
こいつ?と榛名に視線を送るジェスチャーを返す。東野さんは頷く。
まさかあ、と。
声に出てしまうかと思った。出さなかったけれど。榛名にそんな繊細なことを感じるような回路がついているわけがない。
ないない、と手を振ると、東野さんは、そう?と小首を傾げて、まあいいや、と頷く。じゃ、とりあえずそういうことで、と手を振ろうとする。
「あ、」
それを、僕の声が引き留めた。
「ちょっとだけ、」
お願い、という意味を込めて、僕は榛名の冷たい手から抜け出す。式場から玄関までの道のりに、ぞろぞろと人の群れが現れたからだ。そしてその中にいたからだ。
さっき、榛名が怒鳴りつけた男女ふたりが。
そっか、昼食べないで帰る人たちもいるんだ、と。今更ながらに気付きつつ、ああ、こういうのやるのやだなあ、でもやんないともっとやだよなあ、とか葛藤しつつ、僕は冷え切った身体に降りた見えない霜でも振り払うみたいに、少し走るくらいの速度で、近付いていく。
「あの、」
と声をかけたとき、同時に何人かが振り向いた。けれど、しっかり目が合ったのはそのふたりだけだったから、そのまま用件を伝える。
「さっきはすみませんでした」
僕が頭を下げる前、言葉を口にし終えた一瞬、向こうも気まずげな顔になったのが見えて、
「いやね、こっちこそごめんなさいねえ。お友達?」
女の人の方が、同じように頭を下げてくれた。
「あ、いや、はい。さっきのあの、あいつ、体調悪くて。それであの、急に怒鳴っちゃったみたいなんですけど」
「いいのいいの。ついね、こっちも毎日お葬式お葬式で、気が緩んじゃってたから。他の人たちにも、結構声、響いてたって言われちゃったし。ごめんなさいね、かえって」
「いや、結局、あいつの方がうるさくしましたし」
「ううん。今日、お友達のご葬儀だったんでしょう?」
僕は咄嗟に、うん、とは頷けなかった。けれど、それを気にするでもなく、話は続けられる。
「私たちくらいになるとねえ、死んじゃっても、まあ、しょうがないかって諦めもつくんだけどねえ」
「おい」
と、女の人の話の途中で、少し距離を開けて立っていた男の人が声をかける。僕は一瞬ちょっと驚いて、まわりを見ると、もう人影がだいぶ少なくなっている。このあと、このふたりも乗り合わせのバスで避難所に向かうのかもしれない。だったらあまり引き留めすぎてはいけない。
「あの、」
すみませんでした、ともう一回謝って話を切り上げようとして、
「若い子たちはねえ、そういうことじゃないでしょう」
「おい」
「あら」
男の人が女の人の肩に手を乗せた。それでようやく、自分たちが取り残されていることに気付いたらしい女の人は、僕にもう一度向き直って、
「ごめんなさいね、もうバス出ちゃうみたいだから」
「いえ、引き留めてすみませんでした」
「お友達によろしくね」
と頭を下げて去って行く。僕はもう一度、すみませんでした、と言おうとして、でもタイミングがおかしいかな、と直前で思ってしまって、すごく小声になったりして、慌てて頭を下げたりして、最後に男の人も、気まずげな顔で頭を下げたのを見て、玄関から出ていくまでを見守った。
はあ、と思いっきり息を吐いて、肩の力が抜ける。緊張した。まだ自分自身がやったことじゃないからいいけれど、謝ることには一生慣れそうにもない。思っていたより向こうの人が変な人じゃなくてよかった。これで怒鳴られでもしたら、走って逃げだすところだった。自分から声をかけておいて。
「……あれ」
一仕事終えた気持ちで振り向いたら、金髪頭が消えていた。代わりに東野さんだけが立っている。おつかれ、と唇だけ動かすようにして口にされた言葉は、すっかり人の消えたエントランスホールで、雨の音に消されず僕にまで届いた。
「あいつどこ行ったの」
「ご飯」
「ああ、そう……」
元気出たならよかったよ、と釈然としない気持ちを抱えつつ、東野さんのところまで戻る。どうせさっきのふたりと顔合わせたら面倒だと思ってこっから消えただけなんだろうな、なんて考えていると、
「クラスのみんな、迎えに来てさ」
「え、」
「光倉さんとか。言ってくれてスッとしたって」
謝るのに緊張しすぎて、自分の背中側でそんな事態が発生していたことにまったくもって気がつかなかった。
「で、一緒にご飯食べよって連れてかれた」
「……なるほど?」
「まんざらでもなさそうな顔してたよ、榛名」
釈然としない。
そういう思いが顔に出ていたのか、東野さんは、ふっ、と笑って、
「要領わる」
「うっさ」
続けてうふふ、と口元に手を当てながら笑う。行こ、と言って、さっき僕たちが準備した部屋へと向かう。僕はついていく。
奥から詰めるようにしてみんなが座っていた。だから、僕は余りの席、廊下に面した寒い場所に、東野さんと隣り合わせで座った。
榛名は随分奥の方にいた。
隣には光倉さんと、八木くんがいた。
誰かが何かを言った。
みんなが笑った。
そのとき、榛名も笑っていた。
それを見て僕は、ようやく榛名にも回路がついていることに気がついた。
寂しさを感じる回路。
視線を外した。弁当の蓋を開けた。割り箸を上手く割れなかった。茶色い魚を崩して、ほんの少しだけをつまんで、口に入れた。
噛んで、飲んで。
「待鳥、魚食べるのうまいね」
と、東野さんが言うものだから、僕は、
「でしょ」
と笑う。
笑った。




