Ⅱ-8
結局、式が始まったのはそのあと一時間以上が経ってからのことだった。
なんでも強風の影響で街路樹が倒れたとかで、住職が相当渋滞で立ち往生したらしい。それを聞いて最初に思ったのは、混雑するくらいにはまだ車って走ってるんだ、なんて全然別のことで、そのとき、学校と榛名の家と、自分の家、そのくらいしか最近は行ってないから、時間が止まっちゃってるみたいに感じてるらしいな、と気が付いた。
泣き止んだ光倉さんは、何食わぬ顔で、というには相変わらず暗かったけれど、クラスの輪に戻って行って、代わりに僕は従業員部屋でぐったりしていた榛名を迎えに行った。
「大丈夫?」
と訊くと、
「行くわ」
と答えて立ち上がった榛名は、やっぱりちょっとふらついていた。から、僕は榛名に付き添って、いつでも退室できるよう、入り口近くの席に座った。
合同葬儀だから、実際に式をやるところはさっきの和室よりもだいぶ広かった。入口から祭壇まで歩こうとしたら案外時間がかかってしまうような距離。こんな広いところ、こんなとき以外で使うことがあるんだろうか、ときょろきょろ見回してみると、天井や壁に金属の線が走っているのが見える。もしかすると、普段は何部屋かに仕切って使っているのかもしれない。
全体に黒っぽい内装の中で、祭壇だけが不気味なくらい白い。そしてその祭壇の前には、見慣れない正方形の箱が一〇個くらい置いてある。段ボール箱くらいのサイズ。なんだろう、と考えていて思い当たってしまう。あれが棺だ。祭壇の上に飾られた遺影の数とぴったり合う。どれが市ヶ谷くんのものだろう、と目を細めても、距離のせいで顔写真の判別はできなかった。学生服を着ているらしい写真が三つしかないから、三択までは絞れたのだけれど。どれだと思う?と榛名に訊いてみようとした。けれど腕組みをして目を瞑る姿からは、あからさまな話しかけるなオーラが漂っていて、結局、どれがどれだかわからないまま、式は始まってしまった。
マイクのスイッチが入った瞬間、空気が震えるような、あの特有の感覚が広がって、それで急に参列者は静かになる。たまに聞こえてくるのは咳、くしゃみ、衣擦れ、洟を啜る音。葬儀会社の人が開式を告げた後、僧衣を着たふたり組が入ってくる。へえ、と思う。元々ふたり一組で動くようになってるんだろうか。それとも、セッカ病の影響でそうしてるんだろうか。
お経が始まる。木魚を叩いたり、鐘を鳴らしたり、立ったり、座ったり。
そういう行為のひとつひとつが何を意味しているんだか、葬式慣れをしていない僕にはさっぱりわからなかったけれど、随分通る声が出るんだな、なんて妙なところに感心してしまった。そしてそのうち、そのボリュームでほかの些細な音が掻き消されるようになってからは、身体の緊張も解けてきた。
すると、それに紛れてひそひそと話している声が聞こえてきた。
「……いのに、……もねえ」
「言っても……だろう。病気……そういう……」
途切れ途切れのものだったけれど、なんとなく内容はわかった。若いのに、三人もねえ。言っても仕方ないだろう。病気というのはそういうものだ。
ちら、と横目で見ると、右の方、榛名が座っているのの向こう側に、口の動いている男女がいる。あまり見た目から年齢を察するのは得意じゃないんだけれど、五〇、六〇くらいだろうか。僕と同じ列の並びに座っているそのふたりは、間には通路を挟んでいて、それでいてぼそぼそとでも言葉が聞こえてくるから、結構な音量で喋っているらしい。特にその内容についてどうこう、ということはないけれど、わざわざこの場所で話さなくちゃいけないことでもないんじゃないかな、なんて余計なことを思う。そのふたりの周りの人たちが、ちらちらと気にするように目線を送っているのを見ると、どうもこっちまで気まずくなってしまう。
別の場所に座ればよかったなあ、というか榛名、体調限界になって僕と一緒に退席みたいなことになってくれたりしないかなあ、とその目線の方向のまま榛名を見れば、苛々を抑え込むように膝を指で静かに叩いているのを認識してしまう。内心、ひええ、と声が出る。
せめてこれ以上のヒートアップだけはやめてほしい、と僕はお経を聴きながら、もにゃもにゃしたよくわからない形の名前のない神様に祈る。そしてお祈り虚しく、その話し声はさらに大きくなっていく。もうすっかり、普通に話しているのと変わらないような音量になっている。
それでも、一瞬、ふっと式場内に静けさが戻った。
よく聞いていなかったからわからなかったけれど(たぶんよく聞いていてもわからなかっただろうけど)、お経が一段落したらしい。木魚と鐘の音が止んで、僧衣のひとりが手を合わせながら数珠を鳴らして、もうひとりはトライアングルみたいな楽器……仏具?で鈴に似た音を鳴らす。
相変わらずよく通る声の読経は続き、けれどさっきよりもだいぶ落ち着いた調子のそれは、まだ続く話し声を隠せなくなっていた。今ではそれははっきりと僕のところまで聞こえてきている。
「でも、嫌よねえ。お葬式だって今、こうしてみんな一緒くたなんだもの。お棺だってほら、ちゃんとしたのじゃなくって、あんな小さくて」
「それでも今はやってるだけマシだろ。見ろ、今にバタバタ死ぬようになったらこんなこともできなくなるからな。そもそも住職だっていつまでいるかわからんだろうし。そのうち燃やすだけになるぞ」
「ほんと、やな時代になっちゃったわねえ。死ぬときくらいね、最後なんだからちゃんとしてあげたいものだけど」
「なあ。これじゃ死んでも成仏できるか怪しいもんだ」
「ほんと。まあまだお葬式があるだけ、いまぐらいに死んだ人たちは幸せかもしれないけど……」
「うるせえよ!」
止める暇がなかった。
ので、僕は立ち上がって叫んだ榛名をぽかん、と見上げていた。目を見開いていて、たぶん口も開いていた。
榛名は怒った顔をしていた。ついさっきまでの不調はどこへやら、最近聞いた中でいちばん大きな声を張り上げたその口は、今にも噛みつきそうに食いしばられていて、元々つり目気味の目も、感情剥き出しみたいにかっぴらいている。
痛いくらいの静寂、というのは特に訪れなくて、読経は途中で止まって、みんなが榛名を見ていた。そして口々に、なんだ、とか、どうした、とかそんな言葉が零されている。
なんだ、も、どうした、も僕が言いたかった。
「ちょいちょい、」
言いながら立ち上がって、榛名の肩をつかむ。噛みつかれそうで怖かったから、やんわりと。だけど、たったそれだけの接触で、榛名がどのくらい怒っているのかがわかってしまう。身体が張り詰めている。放っておいたらそのまま飛び掛かってしまうんじゃないかと、本気で思ってしまうくらいに。
落ち着けよ、という言葉をなんとなく言いたくなくて、
「榛名、外」
短く言って、肩を軽く叩く。榛名は依然、向こうのふたりを睨みつけたままで、僕はもう一度、
「外行こ、な?」
榛名は僕の呼びかけに答えなかったし、僕の方を見もしなかった。ただ、盛大に舌打ちをして、乱暴に目線を切って、大股で式場から出ていった。
はあ、と息を吐くのも束の間、今度は僕に視線が集まりつつあるのを肌で感じた。周囲を見れば大量の瞳と目が合ってしまいそうで、僕はその場で頭だけ下げて、榛名の後を追いかけた。