Ⅱ-7
ストーブが置いてあったのは従業員用の部屋だったらしく、僕と榛名が今時珍しい石油ストーブを囲んで暖を取っていると、時々やけに黒服を着こなした人たちがこの部屋に入ってきて、何かを手にしては去って行った。大抵は「大変だったね」とか「外、やっぱりひどい?」とか、僕たちに声をかけてゆき、携帯に目を落とした榛名はその返答を完全に放棄していて、一通り服が乾く頃には僕ばかりが段々葬儀会社の人たちに親近感を覚えるようになっていた。
「ごめん、手貸してくんない?」
そんなとき、扉の開く音にまた会社の人が入ってきたのかと思ったら、聞き慣れ過ぎた声で、東野さんが顔を覗かせていた。さっきのタオルのお礼もあることだし、と僕にしては珍しく、うん、と頷いて素早く腰を上げたのだけれど、
「榛名?」
が動かなかった。かと言って、どうもその目を落としている携帯の操作に熱中しているというわけでもないらしくて、指先が全然動いていないことに、今更気付いた。僕はちらっと東野さんを見る。東野さんは不思議そうに丸い目をしていて、たぶん僕も同じ顔をしている。
「榛名?」
ともう一度僕が呼び掛けると、榛名は携帯画面の光を消して、ゆっくりとうなだれた。
「……悪い、俺無理だわ」
「大丈夫? 体調悪いの?」
東野さんが心配そうに部屋の中に入ってくる。榛名は目のあたりを手のひらで覆って、それから身体を重たそうに折り曲げる。
「……あったま痛え」
「ちょっと、それ前兆とかじゃ、」
「……あの病気、そういうのねえから。死ぬときは急に死ぬだけだし、」
それはねえよ、と言った榛名の声はあからさまにつらそうだった。僕は原因を考える。いっぱいある。最近の僕たちの生活習慣はぐだぐだだし、昨日寝たのは午前二時半だし、たまに激辛カップめんとかをふたりで牛乳二リットルくらい飲み干しながら食べたりしてるし、雨ばかりだから外にも出ていないし、運動もしていないし、暖房はつけっぱで部屋は乾燥してるし、ついでにさっき冬の嵐みたいな天気の中ずぶ濡れで凍えていた。
「風邪じゃん?」
と言うと、榛名はしんどそうに頷いて、東野さんも盲点だった、みたいな顔で僕を見た。
「しょうがないから僕がふたり分働くか。式、始まったら呼びに来るから、ちょっと休んでなよ」
「ありがと。榛名、あんまつらかったらここの人にヘルプ出してね。たぶん横になるとことかあると思うし」
榛名が低く、わり、と呟くのを聞き届けて、部屋から出る。心配そうな顔をしていた東野さんは、けれど思ったよりも早足で廊下を進んでいくので、僕もそれに、ちょっと大股でついていった。
「待鳥も、つらかったら言ってね。他の人もいないわけじゃないから」
「いや、僕は全然つらくないけど。ていうか何手伝えばいいの?」
「お弁当並べ。これから雨ひどくなるらしくて、お弁当屋さんが早めに持ってきちゃったらしいんだよね」
それ僕たちがやるんだ、とちょっと驚いた。けれど、個別で避難所の外から来る人は相当少ないとはいえ、東野さんが受付にひとりで座っていたことを思い出せば、確かにこれも参列者の協力する仕事の範囲だろうな、と思う。毎日毎日合同葬儀で大量の人が来るのだ。葬儀会社の人も、とてもじゃないけど今までどおりの人手で、今までどおりの仕事はできないだろう。
「ここ」
と言って東野さんが案内してくれたのは、大きめの和室だった。五〇人、ひょっとすると七〇人くらいは入るだろうという大きさの。入口にはすでに弁当とペットボトルのお茶が積み重ねられていたけれど、中には誰の姿もなくて、ほとんど水槽の中にいるみたいに激しく窓を流れていく雨の音だけが響いている。
「待鳥、どっちがいい?」
「じゃあ弁当」
と割り振りを終えて、僕は東野さんがペットボトルを置いた席にすかさず弁当を添える仕事に従事し始める。それほど重労働じゃないけれど、一度に持てる数が限られているから、いちいち手元の在庫が切れたら入口まで補充に戻る、という工程が地味に面倒だった。
「ごめん、これあと五部屋やるから」
追い打ち。僕はあと何回腰を曲げればいいのだろう。まるで田植えだ。やったことはないけれど。
「ごめんね、あとでなんか奢るからさ」
「え、いいよ。むしろいっつもこういうのやってもらっててごめんね」
「奢ってくれんの?」
「……うん、まあ。いいけど」
「マジ?」
一瞬振り向いた東野さんの目は大きく開いていて、思わず僕がうん、と頷くと、にまっ、と笑って足取りが軽快になった。軽快な動きで次々ペットボトルを置いていく。一体何を奢らされるんだろう。
「今ってほかの人たち何してんの? 会場準備?」
その軽快な動きを、僕の質問が止めてしまったらしい。ぎくり、と一瞬止まった手が、もう一度動き出してペットボトルを机の上に降り立たせたのと同時、
「あー……。や、手は空いてるっちゃ空いてるんだけどね。みんな……」
「うん?」
「やっぱほら、落ち込んじゃって」
「ああ」
それはそうだ、と納得する。この生活が始まってからずっと一緒にいたクラスメイトが初めて死んだのだ。特に泊まり込みで仲を深めていた人たちが深く傷ついただろうなんてことは、想像するに難くない。
「東野さんは?」
「え?」
「いや、だいじょぶなのかなって」
「……うん、まあ」
なんだか妙な沈黙があった。歯に物が詰まった言い方というか。不思議に思って前を行く東野さんの後頭部をじっと見つめていたら、ちょうど東野さんの手持ちが切れたらしく、振り向いて、目が合って、たじろがれる。
「……今度、ちょっと落ち着いたら話すよ」
「別にいいよ、なんか言いにくいことなんだったら」
「言いにくいっていうか……、いや言いにくいんだけどさ。待鳥には別に言ってもってやつだから」
「何それ」
「たぶんお前、そういうの気にしないし、あ、」
急に動いた東野さんの視線で、入り口のあたりに誰か来ていることがわかった。ちょっとごめん、と僕を避けて向かった先には、この短時間でもはや見慣れつつある黒服の葬儀会社の人の姿があって、何やら頼み事をしているジェスチャーと頼まれごとをされているジェスチャーの応酬があったのち、
「ごめん、待鳥。あと五部屋、お願いしちゃっていい?」
「ああ、うん。ほかのとこも入口に弁当とか置いてある感じ?」
「うん。置いてあるとこだけやってくれればオッケー」
「オッケー」
指で丸を作って返すと、東野さんはお願いね、と残して、葬儀会社の人と一緒にぱたぱたとどこかに去って行ってしまった。去って行かれると、途端に激しく面倒くさいなという気持ちも湧いてきてしまった。どうせこれ、式が終わった後、焼き待ちしている時間に食べる用の弁当だろうし、用意しないでもひとりひとつずつ取って行って席についてもらえばいいんじゃないか。というか、いまだに直で見たことがないのだけれど、セッカ病で死んだ人の遺体って焼いたりするものなのだろうか。骨とか残らない、ってニュースで見た気がしないでもないんだけれど。
それでも一度任されたことは最後までやることにしよう、と弁当とペットボトルを座布団のある数だけ置いていく作業を延々続ける羽目になっている。クラスの人に手伝いをお願いしたいと思っても、さっきの東野さんの言葉を聞いてなお助力を求めるほどの気合も僕にはない。落ち込んでる人と気まずい思いをしながら作業するくらいなら、一人で倍量の作業をこなしていた方がまだマシというものだ。
なんて思っていたら、二部屋目で来た。
「なんか手伝うこと、ある……?」
幽霊みたいにか細い声で、一瞬雨の音に紛れた幻聴かと思った。けれど、振り向いてみれば確かにそこにいた。最近にしては珍しく、光倉さんがひとりで、制服姿で立っていた。
あるよ、とすぐに返せなかった。顔色がひどく悪かった。インフルエンザに丸々一月かかって、病み上がりに登校してきたときよりも。ただでさえ色の白いのが、紙みたいに真っ白になっていて、悪天候で室内灯の薄暗さばかりが目立つ室内では、それこそ本当に幽霊みたいに。
「大丈夫?」
だから、最初に出てきたのはそういう気遣いの言葉で、それに対して、こっくりと緩慢に頷いた光倉さんは、
「動いてた方が、楽だから……」
と、ドラマの台詞みたいなことを言った。
お願い事をするのも気が引ける、というか下手をするとさっきの榛名よりも体調が悪そうで、休憩室に無理矢理押し込んでしまうのが優しさのようにも感じたけれど、
「それじゃ、座布団のあるところにお茶置いてって。僕は弁当置くからさ」
本人が言うなら、と僕はその優しさを捨てた。うん、と小さな声で光倉さんは頷いて、部屋入り口の段ボール箱の中から、ペットボトルを取り出し始める。
やることはやっぱり単純で、雨の降る音を聴きながら、僕たちは静かに作業をした。光倉さんは悲し気な顔をしていたけれど、僕は適切な話しかけ方がさっぱりわからなかったものだから、あえて何もなかったように、いつも通りの表情で過ごしていた。
実際、僕はろくに市ヶ谷くんのことを知らなくて、こんなことになった今でも、いつも通りの心でいた。
黙々と作業が続き、二部屋目が終わる。三部屋目に移動する。あと何部屋?と訊かれる。ここ入れて三部屋、と答える。また作業が始まる。手持ちの弁当が尽きる。入口に戻って補充しようとする。光倉さんが屈み込んでいる。僕がそこに戻ってくるまでの間、光倉さんはそのまま動かなかった。
「大丈夫?」
「……人ってさ、死んじゃうんだね」
うん、までは口に出た。そうだね、はあまりにも軽い言葉になりそうだったから、喉のあたりで止めた。
「なんかね、びっくりしちゃった。わかってたんだけど……、わかってなかったのかな。自分にはやっぱ、関係ないって思ってたのかも」
「そりゃまあ、みんなそうじゃないの」
「……でも、私、市ヶ谷くんが、その、そのあとになっても、あんま実感なくて」
段々と、声は湿り気を帯び始める。そんなときばかり、視線は別のところに向いてしまう。窓の外。折れた枝がアスファルトに引っかかりながら、不格好に風に流されていく。
「みんな、みんなが泣いてから、つられて泣いてね、なんか、ほんとに悲しくて泣いてるのかなって、思ったら、泣いてても、それしか考えらんなくて、」
ずっ、と啜るような音が聞こえてくる。光倉さんは顔を伏せていて、傍に立つ僕からは、左右に垂れた髪の間から覗く首筋しか目に入らない。
「冷たい人間で、ごめん、なさっ……!」
そんなことないよ、とか。
僕の方がもっと冷たいよ、とか。
気休めの言葉はすぐに思いついたけれど、口に出すことはなかった。これってきっと、相談じゃなくて、ただの懺悔だってわかっていたから。その上きっと、光倉さんのこの罪悪感みたいなものは、僕が共有できるものじゃないらしいってことも、わかってたから。
僕はゆっくりと屈み込む。同じ目線になっても、身体を折って、声を上げて泣き出した光倉さんの顔は、やっぱり見えなかった。
声をかけようとして、やめた。扉の外に、東野さんが立っていた。珍しく、ちょっとうろたえた顔をしながら。
東野さんと目を合わせる。目線だけで、他の部屋の分をお願いできないか語ってみる。驚いたことに通じたらしくて、東野さんは力強くはないけれど、しっかりと頷いて、足音を立てないまま、別の部屋の方に歩いていった。
ちょっと迷ってから、光倉さんの背中に手のひらを当てた。一瞬震えて、そのあと、感触を返してくるように、背中がもう少しだけ、丸まった。
すすり泣きが、雨音と一緒に聞こえている。
僕は、大丈夫、なんて無責任な慰めの言葉すら口にしなかった。
生き残っちゃうの、つらい?なんて。寄り添いの言葉も口にしなかった。
ただ、近くにいた。
それでまあ、呼吸くらいは、していた。