Ⅱ-6
信じられないくらい雨が降っていたのだけが誤算だった。
僕と榛名は予定していた時間通りに起きたし、ちゃんと朝ご飯を食べたし、久しぶりに制服を着てもネクタイの巻き方を思い出せたし、運行本数が目に見えて減った電車の時間に間に合うよう家を出ることもできたし、駅から斎場を繋ぐバスの乗り場もダッシュを織り交ぜつつ調べていた出発時刻までに探し当てることができた。なのに、
「わ、なんでそんな濡れてんの」
「いやー、ダメだったね」
「根性ねえわあの傘」
ふたり揃ってシャワーを浴びたみたいな濡れ鼠。雨水を絞るように金髪をかき上げた榛名が振り返る先では、複雑骨折中の傘がふたつ、仲良く並んでいる。僕は僕で耳の奥まで入り込んできた水の詰まっているのが気持ち悪くて、手で耳を圧迫しては離してを繰り返しているんだけれど、一向に水は耳から出てこないし、袖から無限に滴がしたたり落ちてくる。
入口には制服姿の東野さんがひとりで座っていて、受付と書かれた机の上に、帳簿を置いていた。昔、遠い親戚の葬式で見たことがある。来た人の名前を書くやつだ。
その東野さんが立ち上がり、
「それじゃ中入れないでしょ。ちょっと待って、大きいタオルか何かもらってくるから」
「ありやす」
「サンキュー」
それまではこれでも使ってろ、と空いたパイプ椅子に置かれていたやけにもこもこしたハンドタオルを僕に投げてくれる。
たたた、と軽快に走っていく背中を見ながら、なんて頼りになる人なんだろうと僕は感動していた。傘がバキバキにへし折れた瞬間、僕の心もバキバキにへし折れたと思っていたけれど、そんな今日でももう少し頑張れそうな気がしてきた。
ぽたぽたと滴が落ちるところだけを簡単にタオルで拭く。榛名にも、はい、と差し出したけれど、俺はいい、待つわ、と返されたのでもしかして僕は遠慮を知らない人間なのではないかと気付かされた。遠慮のない人間で良かった~と思いつつ、顔やら手やらを拭いていく。タオルがやけに温かく感じるのは柔軟剤みたいな匂いがするからかな、なんて考えていたら真っ赤にかじかんでいる手に今更気付いて、気付いたことでよりつらくなってしまう。
寒い。
「おまたせー」
軽快な足音とともに東野さんが戻ってくる。手に編み籠のようなものを持っていて、僕たちの近くまで来ると、その中から白いバスタオルを取り出して、僕と榛名にひとつずつ渡してくれる。こんなにもバスタオルが嬉しかったのは生まれてこの方初めて経験だった。感謝の気持ちを三回分込めて、ありがとうを言う。
「これ葬儀場から借りたやつだから、後で洗って返さなくちゃいけないんだよね」
「ああ、うん。じゃあ僕が持って帰るよ。籠って借りちゃっていいの?」
「え? いや、戻してくれれば私、学校戻ったら洗うけど」
「え、なんで? あ、ごめん。借りてたこっちの方のタオルもびっしゃびしゃにしちゃったから、洗って返すね」
「それはいいけど。や、学校で洗っちゃった方がいいと思うんだよね。次の……、ほら、戻しに来るタイミングがあるからさ」
「いや普通に僕が学校で洗うよ。今日これ終わったらそのまま学校戻りでしょ?」
「あ? 待鳥学校戻んの?」
榛名は当然の権利のように籠にバスタオルを突っ込みながら、そう訊いてきた。この男に自分のものを自分で洗うという発想はたぶんない。いや、あるはずなんだけど、少なくとも今はその姿勢は見えない。
「榛名も学校行きでしょ」
「なんで」
「いや、雨。絶対止まないよ」
これじゃ、と言えばエントランスホールのガラスを濡らし続ける外は台風のような荒れ模様。頼みの綱の傘も壊れた今、バス停まで辿り着いた僕らはまず間違いなく乗車拒否される。そしてこれから晴れるなんていうのも望み薄だろう。ずっと雨ばかりなのだから。
ああ、と榛名は呟いて、それから何事もなかったようにブレザーを脱ぎ始めた。僕もならって、だいぶ重くなったそれを脱ぐ。いつもと違ってカーディガンなんかを着ていないから、Yシャツ一枚になってしまったけれど、びしょ濡れの冷たさは多少なりとも軽減された。ただし、それは上着に守られていた上半身だけで、下の方はスラックス一枚だったのだからどうしようもない。
「乾かないよね、それ」
「ダメですね。パンツまでびしゃびしゃだもん」
僕が答えると、東野さんは、ひっ、と、へっ、の間みたいな変な笑い声を出して、
「報告しなくていいから。まだ時間あるから乾かしてきなよ。奥の方にストーブあったからさ」
奥の方ってどこだろ、と僕が近くの壁に掛けてある構内図を見ていると、
「まだ始まんねえの?」
と榛名が訊いた。確かに、僕たちは結構ぎりぎり気味のタイムスケジュールで動いていた。入口で使った時間を考えれば、下手するともう始まってしまってもおかしくないくらいに。
「お寺の人、遅れてるんだって。天気ひどくて」
「避難所生活じゃねえの?」
「なんじゃん? 服とか道具とか取りに行ってただけかもしれないけど」
私に訊かれてもよく知らん、と東野さんが付け足す。そりゃそうだ。それにしても、ちょっと意外だな、とは思う。避難所から斎場までは基本的に借り上げたバスでまとめて人を運んでしまうので、僕たちみたいなふらふら外で生活している人たちくらいしか、基本的には遅れようがないのだ。目の前ですっかり乾ききっている東野さんを見ると、その借り上げバスは入口すぐ側までつけてくれるんだろうな、ということは簡単に予想できて、今度から葬式の前の日はちゃんと学校に行こう、と考えを新たにした。
「そんならそれでいいけど」
と榛名が言って、歩き出す。僕はバスタオルを被ったまま、籠を片手に、もう一度東野さんにありがとう、と言って、それについていった。




