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09:ある貴族の屋敷にて

「この、役立たず!」



 甲高い声と共に、椅子の倒れる音が小部屋の壁に反響する。「ひっ」と上がった悲鳴は中年の男性のものだった。床に座り込んだ男性をさげすんだ目で見下ろすのは、一人の少女だ。可愛らしいドレスに身を包んだその姿は一見可憐なように見えるが、怒りに歪められた顔に可憐さは微塵も無い。



「すまない、シモーヌ……」



 はるか床から娘を見上げた男性は、カロー伯爵だった。



「謝って済むと思ってるの!」



 そして怒りの表情で彼を見下ろす少女は、娘のシモーヌだ。



「どうするのよ! このままじゃアルノー様は他の女と結婚してしまうわ! お父様、わたしとアルノー様を絶対結婚させるって約束したわよね!」

「すまない、すまないシモーヌ……インロウ侯爵に何度も何度も手紙を送り、直接お話もしたのだが、どうしても首を縦に振って下さらないんだ」

「どんな手を使ってでもって言ったじゃない! うちにはお金だってあるし、好色で有名なインロウ侯爵の弱みを握るくらいできないの!」

「いや……侯爵は金では動かないお方だし、なぜか侯爵の身辺を調べようとしても必ず邪魔が入ってできないんだ……」

「ああもう! お父様は言い訳ばかり!」



 シモーヌはそう叫ぶと伯爵の方へ歩み寄り、その目の前に立った。



「ねえお父様、役立たずなお父様の秘密、お母様に話してしまってもいいのよ」

「な、シモーヌそれは……!」



 伯爵が顔を上げると、シモーヌはにんまりと笑う。



「うふふ、困るわよねえ、お父様は所詮没落寸前だった男爵家からのお婿さんだもの、お母様が哀れんで男爵家ごと拾ってあげたんだわ、そんなお母様に、そう、お父様が側室様に懸想しているだなんてばれたら大変だもの」



 うふふと笑う娘に見下され、伯爵は顔面蒼白だった。



「あら、両想いの場合は懸想とは言わないのかしら? 不義とか、或いは姦通とか?」



 伯爵の顔面がいよいよ血の気を失ったのは、娘の口からはしたない言葉が出たことに対してではなかった。言われた言葉があまりにも彼を動揺させたからだ。



「あらあら……密会するだけの関係ではないのね、ふふ、ますますお母様にばれるわけにはいかないわね」

「シモーヌ……シモーヌすまない……た、頼むから……」



 すがる父に、シモーヌはすうと笑顔を無くしてその顔を見つめた。



「だったら何とかしなさいよ」

「な、何とか……しかし」

「アルノー様とあの女は、まだ婚約しているだけなのでしょう? だったらまだどうにでもなるはずよ」

「だ、だがインロウ侯爵は……」



 しかし、だの、だが、だのと。やはり言い訳の言葉ばかりだ。シモーヌは苛立ちを隠さずに表情をゆがめた。



「侯爵様が無理なら、あの女の家に圧力をかけたらどうなの? 王城の女官だもの、男爵か子爵に違いないわ、それぐらいの家どうにでもできるわよね」

「いや……インロウ侯爵が手を回されているようで、もはや、手出しは……」

「ああもう! 本当に役立たずのお父様ね!」



 苛立ったシモーヌが突然大声をあげると、伯爵はびくりと震えた。しかしシモーヌは情けない父の様子を気にするでもなく、少しの間考え込んだ。



「侯爵様の懐柔も無理、あの女の家への脅しも無理、そうなったら後は、もう……」



 そうして何か思いついたのか、一瞬真顔に戻り、それからすぐにその口元が弧を描いた。



「そうね、いじめるだなんてまどろっこしい方法よりも、その方がいいわ、だってそうすればあの女はいなくなって、アルノー様もわたしを見てくださる……」

「シモーヌ?」



 不安げに娘の名を呼ぶ伯爵に、シモーヌは笑顔を向けた。しかしそれは底冷えするほどに、寒々しい。



「ねえお父様」



 甘えた声。シモーヌが立場の弱い父におねだりをするときの声だ。



「何も打つ手が無いというのなら、あの女を殺して」

「なっ……! シモーヌ!」



 伯爵は娘の口から出た言葉に衝撃を受け、大声を出した。しかしシモーヌは気にすることなくぞっとする笑顔のままで言葉を続ける。



「もうお父様に打てる手は無いのでしょう? だったらそうするのが一番いいと思うの」

「いや、しかし……」

「あの女を陥れてアルノー様の前から消したって、あの女が生きてる限りわたしは不安でたまらないの。それに、アルノー様はあの女に騙されているなんて知ったらきっと酷く心を痛めてしまうに違いないわ。だからアルノー様の為にも、あの女との思い出は綺麗なままにしておいて差し上げるの。そしてあの女が死んだなら、落ち込むアルノー様をわたしが慰めて差し上げるのよ。そうすればきっと、ううん、絶対に、アルノー様はわたしを見てくださる」



 うっとりとした表情でそんなことを語る娘を、伯爵は信じられないといったような目で見てしまう。自分の娘のはずだというのに、自分の理解を超えたことを語るその姿は伯爵にとってただ恐怖でしかなかった。



「もちろんお父様が直接手を下す必要は無いわ、ちゃあんと足が付かないように何人もの人間を経由して殺しを依頼するの。それぐらいならお父様にも、できるでしょう?」

「だ、だがシモーヌ……」

「『だが』も『しかし』も聞きたくないわ」



 やはり言い訳をしようとする父の言葉をシモーヌはぴしゃりと遮った。口答えは許さないというように。はるか上の方から父を見下して。



「お父様は選ぶしかないの。わたしの()()()を聞いて側室様とのことを黙っていてもらうか、聞かないでお母様にばらされてしまうか」



 娘は究極の二択を父に投げかける。



「ねえ、お父様はどちらを選ぶの?」



 娘に催促され、伯爵はやっとのことで震える口を開いた。



「……わ、わかった、シモーヌのお願いを、聞こう……」



 答えを聞いて、シモーヌは満足そうに笑った。



「ふふ、今度こそ、絶対よ。お父様」



 そしてそう言い残すと、シモーヌは軽やかな足取りで部屋を出て行くのだった。

 小部屋に一人取り残された伯爵は、力なく項垂れてしまった。片手で頭を抱えると、整えられた髪をくしゃりと掴む。



「……そうだ、まだ、今ばれてしまうわけにはいかないんだ……だから、彼女も、そうしてしまうしかない……」



 伯爵がつぶやいた声は、小部屋の床に落ちて消えていった。









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