07:四年目の女官の最も長い昼休み
シビルが朝一番に女官長に報告をすると、女官長はにっこりと笑って「おめでとう」と言った。
正直めでたいという実感は皆無であるしそう言われても全く嬉しくないのだが、社交辞令としてシビルは「ありがとうございます」と返す。この際言葉にまったく感情が乗っていないのはいいだろう、仕方がない。幸いにも女官長はシビルのまるでめでたい感じの無い姿には何も言わずに笑うだけだった。
「それで、私の机上片付けの指南書を作り上げるまでは仕事を続けていられるのよね?」
「はい、恐らく半月ほどでしょうか」
「あら、ひと月くらいかけてゆっくり作ったらどう? きっとアルノー様も許して下さるわよ」
女官長の言葉に、シビルは曖昧に笑って返した。恐らくは女官長の言うとおりひと月ほど待たせてしまってもアルノーは急かしたりはしないだろう。きっと、嫌な顔もしない。ただそう考えてしまう自分が複雑なのだ。そうなると『そうですね』などとは言えるはずもなかった。
「さてと、それじゃあ残り少ない機会は有効に活用しないとね。シビル、さっそくで悪いけれど机の上を片付けてくれるかしら」
幸い女官長はアルノーについての話題はそれ以上続けず、椅子から立ち上がるとにこりと笑った顔でシビルにそう言った。気を遣われたのか、或いはマイペースな女官長がただ自分のペースで話を切り上げただけなのか。
シビルの経験則からいえば、答えは後者だった。
だからこそいつもと変わらないその姿に、シビルは安心した心地がするのだ。
「はい、承りました」
女官長にそう返したシビルの表情には、わずかに笑みが浮かべられていた。
それは昼にやってきた。
「ぜひ昼食をご一緒したいのですが、どうでしょうか」
突如として女官室に現れたアルノーはそう言ってシビルを昼食に誘った。
アルノーがわざわざ女官室まで来たことや昼食に誘われたことにシビルは驚くが、ひとまず「はい」と返事をした。
「よかった、では家令に二人分の昼食を持って来てもらうことになっているので、それを受け取って中庭へ行きましょう」
アルノーが嬉しそうに笑うのを見てシビルは多少不安になるが、仕方がない。断る選択肢など無いのだ。
シビルは一言「恐縮です」と返して、歩き始めたアルノーの後ろをついていくのだった。
王城の中庭は、隠れた人気のスポットである。
ひがな一日部屋に閉じこもって仕事をしている文官たちにとっては太陽の光と木々の緑に体と目が癒される場所だ。そして、一部の浮かれた男女たちにとっては生い茂る緑に隠れて密かに会うことのできる嬉しい場所だった。
シビルはかつて同僚だった女官たちが浮かれた様子で中庭についてそう談笑しているのを聞いたことがある。だから正直足が重いという気はしていた。浮かれた気持ちは断じてないが、この場に男性と二人で足を踏み入れるということは自分も浮かれた男女たちの仲間入りを果たしてしまったような気がしているからだ。
だが、まあ、これも婚約者の仕事と割り切るべきか……。そう自分を諭しつつ、シビルはアルノーの隣に添って歩いていく。
やがてアルノーが足を止めたのは、木陰がかかるベンチの前だった。促されてシビルが先にベンチに座ると、すぐに隣にアルノーが座る。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
シビルに差し出されたのは、バスケットだ。ここに来る前に裏口を訪れたアルノーが家令から受け取った二つの内の一つだった。
隣でアルノーが蓋を開けたのに倣ってバスケットの蓋を開けると、目に付いたのは鮮やかなオレンジ色。それから、それと対比するような黒色。黒パンのサンドイッチのようだ。具材は千切りの人参だった。酢に漬けてあるのだろうか、艶やかで、色も鮮やかだ。
「これも、どうぞ。熱いので気を付けてください」
「え、あ、ありがとうございます」
次いで手渡されたのは湯気の立つ紅茶が入ったカップだった。どうやらアルノーのバスケットにはポットとカップも入っていたらしい。
言われた通り熱いそれを、シビルは慎重に受け取る。それからアルノーが自分のカップをずずとすすったのを見ると、シビルもそれに倣って紅茶を飲もうとカップに口を近づけた。ふう、ふうと息を吹きかけてから一口すする。
「あつっ……」
「ああっ、大丈夫ですか」
シビルが小さく悲鳴を上げた瞬間、すかさずアルノーが焦ったように声をかけた。
「すみません、熱すぎましたか」
「い、いえ、平気です、すみません」
眉を下げた表情のアルノーにシビルはそう返した。
そもそも原因は紅茶の熱さを見誤った自分にあるのだ。冷ましたつもりだったが、全く足りなかった。そう思えばシビルは心配そうなアルノーの表情に申し訳なさを感じていた。
「もしかして、熱いものは苦手なんでしょうか」
「ああ、はい……」
アルノーの問いかけに、シビルは素直にそう答えた。熱いものが苦手なことは自覚している。義弟が平気で飲めるものを、シビルは飲めない。今もそうだ。アルノーが平気な熱さを、自分は平気では無かった。
ただ事実を認めるだけなのに、シビルはなぜだか気恥ずかしさを感じていた。それをさらに煽るようにアルノーが少し笑うのが見える。
「すみません、不謹慎ですが、あなたのことを一つ知ることができて、嬉しいと思ってしまいました」
案の定、アルノーの言葉はシビルの羞恥心を余計に煽り立てた。そんなことを言われて、いったいどう返せばいいというのか。その答えは出すことができず、シビルはひとまず『不謹慎ですが』と言ったアルノーに気を遣うために「いえ……」と返した。
幸いアルノーはそれ以上シビルの猫舌について話題を広げることはなく、シビルはそれに少し安堵しつつ次に勧められたサンドイッチを手でつまんだ。固い黒パンは、シビルには馴染みのものだった。
「侯爵家ともあろう人間が黒パンを選んで食べるなんて、酔狂だと思われるでしょうか」
シビルが黒パンのサンドイッチを一切れ食べきったところで、アルノーがそう言った声が聞こえた。シビルは一瞬戸惑うが、ひとまず「いえ、そんなことは……」と返した。
「ああ……そうですね、すみません、あなたが気にしないのは分かっているのですが、自分ではどうしても気にしてしまって」
そう答えるアルノーの表情には笑みはあるものの、どこか悲しげだ。もしかすると、先ほどのようなことを言われたことがあるのかもしれない。
そんなことを考えると、シビルの頭には昨日見たアルノーの表情が浮かんでくる。自分が愛人の子だということを知っていてこの申し出を受けてくれたのかと、シビルにそう聞いたアルノーの表情は、酷く暗いものだった。
「……それでも、黒パンを選んでらっしゃいます」
アルノーがえっという顔をする。
「周囲の声が気になったとしても、自分を貫いていられるのなら、それでいいのではないでしょうか」
シビルがそう言えば、アルノーは驚いたような表情でシビルを見つめた。
はっと気が付くのはシビルの方が先だった。
「あ、す、すみません、余計な事を言いました」
「ああ、いえ……」
シビルは思わず目を伏せ、謝罪する。アルノーがいいえと言う声が聞こえたが、反射的に出た言葉に違いない。それをそのままの意で受け取れるはずなどなかった。
本当に、余計な事を言ってしまった。考えてみれば、昨日もそうではないか。自分が愛人の子だということを知っていてこの申し出を受けてくれたのかと言ったアルノーに、そんなことは関係の無い事だと、余計な事を言った。ただ、はい、と答えるだけでよかったのに。
自分のうかつさに、シビルは唇を噛んだ。
「……あの、どうか顔を上げてください」
そうしていると、アルノーがそう言う声が聞こえた。シビルがゆっくり顔を上げると、アルノーは少しぎこちない笑みを浮かべている。
「あなたが言ってくださったことは、決して余計な事ではありません。むしろ、嬉しいと思っています」
言われた言葉に、シビルは驚いてわずかに目を見開いた。
「少し、私の話をしてもよろしいでしょうか」
シビルは戸惑いながらも、「はい」と答えた。
「私の母は、私を産んですぐに家を出ました。商店に住み込みで働いて、私を育ててくれたんです。その母を亡くして、侯爵に引き取られましたが、貴族の世界は慣れない事ばかりで……。その中で黒パンは、母との生活を思い出せる唯一のものだったのかもしれません。だからきっと、何か言われることを気にしながらも、これだけは貫けたのだと。……あなたの言葉で、そう思うことができました」
いつの間にか真剣みを帯びた瞳にじっと見つめられ、シビルは息が詰まる感じがした。なんとか「いえ……」と声を絞り出したが、その後に何を言えばいいのかもわからない。ああ、頭が上手く回らない。
「やはり私は、あなたの言葉に救われる運命にあるようです。ああ……そう思うと、余計に嬉しくなってきました」
また、やはり、と言った。しかしそれを深く考えることはまた出来なかった。アルノーの嬉しそうな笑みを見て、ようやく自らの体を襲う症状が『恥ずかしい』という感情のせいだと気付いたからだ。
なんとなく顔が熱い。ああやっぱり、余計な事を言った。
シビルがそんな後悔と恥ずかしさに苛まれながらもう一度口に含んだ紅茶は、すっかりぬるくなっていた。