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06:四年目の女官は顔合わせに赴く

 青空に白い雲が筋を描いている。馬車の窓から見える爽やかな光景とは裏腹に、シビルの心は曇天だった。今日は、顔合わせの日だ。

 とはいえすでに初対面ではないのだから、もともと無いが、まだ見ぬ結婚相手に不安を募らせてそわそわするような気持ちは全く無かった。シビルがそわそわしているというなら、それは自身が慣れないドレスを着ている事に対してだろう。それと、キレイに結われた焦げ茶色の髪。鏡で自分の姿を見たときはあまりの違和感に、シビルは滑稽さすら感じた。

 けれどこれからは夫の体裁のために、そういうことにも気を配らなければいけないのだ。やはりまだ気は重いが、仕方がない。仕事だと思うようにしよう。

 この日のために借りた馬車の中で男爵と向かい合って座るシビルは、ただひたすら目を伏せてそんなことを考えていた。


 侯爵邸を訪れたシビルと男爵を迎えたのは、一人の紳士と、その隣に立つアルノーだった。



「ようこそおいでくださった、男爵」



 笑うとしわができる、少々くたびれたような目元。しかしその目元が醸すのは年齢ではなく、何とも言えない大人の色気だ。その口元にダンディな口髭を蓄えた彼こそが、インロウ侯爵その人だ。隣に立つ息子とは髪の色こそ違うが、背格好や顔のつくりがよく似ている。

 男爵は侯爵親子直々の出迎えに驚いたように息をのむが、すぐにはっとして礼をした。その隣で、シビルも礼をする。



「侯爵直々のお出迎えとは……恐れ入ります」

「いや……その、息子が部屋で待ってはいられないと言うのでね」



 そう言って侯爵はちらと息子に視線をやる。アルノーはまるでシビルしか見えていないというようにまっすぐシビルに視線を送っていた。当のシビルは目を伏せているので目が合うことは無いが、そんなことは構う様子も無くうっとりとした瞳で見つめ続ける。そんな息子を見る侯爵の目が複雑そうに揺れたことに気付く人間は、この場にはいなかった。


 侯爵はそれから「では部屋へ案内しよう」と言うと、自ら男爵親子を客間へと案内しようと歩き出した。

 侯爵邸の廊下は男爵家のそれとは広さも、そこに敷かれた絨毯も違う。壁にかかる絵画の額は艶めいていて、掃除が行き届いているのだろうというのがわかる。男爵家もまめな使用人によって掃除は行き届いているが、侯爵家のそれとは規模が違う。それでこれだけ掃除が行き届いているという事は、恐らく使用人の数も男爵家とは比較にならないのだ。

 シビルは広い廊下を歩きながらそんなことを考えていたわけではないが、侯爵家の大きさを思い知ったことで少々戸惑っていた。

 考えてみればインロウ家といえば、代々国政の重役を担う家のひとつである。現在の当主であり王補佐官でもあるインロウ侯爵は、今の王を王太子時代から支え続ける重臣だ。更にはその息子であるアルノーもまた現在の王太子補佐官、つまりは未来の王補佐官なのだ。

 押込めたのとは別種の不安が、シビルの中で鎌首をもたげる。



(さすがに、荷が重すぎはしないだろうか)



 侯爵家の嫁という仕事を与えられたのだと思えば、その仕事をこなす気はある。だがこれは、少々荷が重すぎる仕事なのではないか、と気づいてしまったのだ。

 その不安が拭えないまま、案内された客間に到着した。


 客間はやはり男爵家のそれとは雲泥の差とも言えるほどの豪華な空間だった。少々華美すぎると感じる家具は侯爵のセンスだろうか。それとも暖炉の上に肖像画の飾られた、彼の亡き奥方の趣味だったのだろうか。

 侯爵に促され、シビルと男爵はその少々華美なソファに腰を下ろした。

 それからすぐにメイドが入ってくると、侯爵たちの前に紅茶の注がれたカップを置いた。良い茶葉なのだろう、甘い香りがふわりと漂う。侯爵はシビルと男爵にそれを勧めつつ、話を切り出した。



「男爵、この度は申し入れを受けていただいて感謝する」



 そう言った侯爵の表情はどことなく険しいものだった。男爵が慌てて「いえ、感謝をするのはこちらのほうです」と返してもその表情は緩まない。



「いや本当に……受けていただけなければ私は大変なことになるところで……」



 それどころかそうつぶやくと眉間を指で押さえて俯いてしまうではないか。同情を誘うその姿にシビルも『いったい侯爵に何が……』と思ってしまうが、深くは考えないことにした。恐らくシビルが他人に興味津々な性格だったとしてもそうしただろう。それほどまでに侯爵の姿には聞いてはいけない感があふれているのだ。

 だから男爵が慌てたように、しかし慎重に「こ、侯爵」と呼びかけたのは、『いったい何があったのですか』と聞くものではなく、『落ち着いて』と呼びかけるものなのだった。



「あ、ああ……申し訳ない」



 男爵の呼びかけにはっとした侯爵は、それから気まずそうにアルノーにちらちらと視線をやる。



「ああ、その、何だ……男爵と二人で話がしたいから、アルノー、お前はシビル嬢を連れて、庭でも歩いてきなさい」

「ええ、私もさっさとそうしたいと思っていましたので、そうします」



 侯爵の言葉にアルノーは少しの迷いも無くそう言うと、さっさと立ち上がってシビルの傍に寄った。

 シビルがその顔を見上げると、アルノーの右手が差し出される。



「では、行きましょう」

「あ……はい」



 差し出されたそれにシビルは戸惑うが、その手を取らないわけにはいかない。差し出されたそれに自分の左手を重ねてソファから立ち上がった。







 侯爵邸の庭は広かったが、それだけだ。立派という程の豪華さは無く、花壇にはいくつかの花が咲いている程度の庭だった。



「何も無い庭ですみません、何しろ女性のいない家なもので。今日のために最低限の手入れだけはしてもらったんですが」



 申し訳無げに言うアルノーに、シビルが「いいえ」と答えたそれは本音だった。シビルにはガーデニングの趣味も無ければ、特別花を愛でる趣味も無い。案内された侯爵邸の庭がどんなものだろうが気にすることでは無いのだ。まあ庭の管理が妻の仕事だと言うのなら多少は気にするが。

 アルノーはシビルの答えを受けてほっとしたように微笑むと、「少し歩きましょうか」と言って何も無い庭に踏み出した。



「女官服姿のあなたを見慣れているので、こうしてドレスを纏うあなたを見るのは少し不思議な心地がします」



 アルノーは歩きながらそんなことを言った。シビルは『見慣れている』という言葉が気になったが、気にしないようにして曖昧な笑みで応えた。



「もちろんドレスを纏った姿も素敵なので気分が高揚するという意味で、不思議な心地がするんです。いつもと違う髪型もドレスに合わせたものなのだろうなとか、あまりドレスには慣れていないんだろうなとか、そんなことを考えてしまって、不思議な心地と言いましたが、本当は浮かれているのでしょうね」



 続いたアルノーの言葉に、シビルはやはり曖昧な笑みを返すことしかできなかった。

 素敵だのなんだの、そんなことを言われていったい何と返せばいいというのか。それにドレスに慣れていないことを見抜かれたのも居心地が悪い。しかもその言い方はまるで大人が赤子にかけるのに似たもので、悪意の欠片も無いのだ。

 シビルは悪意のやり過ごし方は知っていても、こういうもののやり過ごし方など知らない。だからひたすら戸惑う事しかできないのだった。



 それからアルノーは中庭をしばらく歩き、木陰に差し掛かったところで足を止めた。アルノーはすぐには口を開かずに、しばし黙り込んだ。その沈黙が少し長く感じられて、シビルは少し視線を上げてアルノーの顔を見た。

 ちらと一瞥したアルノーの表情には、それまであったであろうという笑みが無かった。



「……あの、一つ、お聞きしてもいいでしょうか」



 ようやくアルノーが発した声は、これまでとは明らかに声色が違う。シビルは曖昧な笑みは浮かべずに「はい」と答えた。



「あなたは、私が愛人の子だという事を知っていて、この申し出を受けてくださったのでしょうか」



 アルノーの質問に、シビルは浅く息を吸った。


 アルノー・インロウ侯爵令息は、愛人の子。

 それは、王城に勤める人間なら誰もが一度は聞いたことのある噂だろう。女官室で幾度となく語られるその噂は、興味は無くともシビルの頭に記憶されていた。

 いや、聞いたのは女官室でだけではない。書類を届けに訪れた様々な部屋で文官たちがその噂をしているのを、シビルは聞いていた。そして文官たちの話すそれはもれなく悪意を伴っていたことを、シビルの頭は勝手に記憶をしていた。



「噂話に興味はありませんが、そういう話は王城で働いていると嫌でも耳に入ってきます。ですからそのことは知っています」



 シビルは素直にそう答えた。小さく聞こえた音は、アルノーが息をのんだ音だろうか。



「ですが、それは関係の無い事です」

「関係無い?」

「そうだからといってこの婚約を躊躇する理由にはなりません。かといって、それでも構わないと思っているわけでもありません。わたしはただ望まれたから嫁ぐだけです、相手が何者かということは関係が……」



 無い事です、と言おうとしてシビルは言葉を止めた。だいぶ失礼なことを言っていると気付いたからだった。ただ望まれたから嫁ぐだけとは、一方的に婚約を押し付けられたと言っているようなものではないか。更には何者かなど関係ないとは、あなたには興味が無いと面と向かって言ってしまうようなものだ。本音だとしても、隠すべきことだった。



「す、すみません、失礼な事を言いました」



 慌てて謝罪をするが、シビルの耳に聞こえたのは「ふふ」という笑い声だ。シビルが驚いて顔を上げると、アルノーがにこりと微笑んだのが見える。



「いいえ、やはりあなたが変わっていないということを確認できて嬉しく思います」



 アルノーの言葉に、シビルは思わず目を丸くした。やはり、とは何だ。変わっていないとは。

 しかしシビルがそれを深く考える暇は無かった。アルノーがすぐに「触れても?」と問いかけてきたからだ。シビルが「どうぞ」と返すと、間も無くアルノーの手がシビルのそれに触れた。



「あなたがもともと結婚を望んでいなかったことも、この結婚を望んで受けたわけでは無い事もわかっています。ですから、私は結婚を急ぐつもりはありません。あなたの気持ちの整理がつくまでは婚約期間ということにしましょう。それにあなたが望むなら、仕事も必ずしも辞めていただく必要はありません」



 父から伝えられたことが、今度は本人の口からはっきりと伝えられた。シビルはやはりなぜそこまで、と思うが、すぐにそれは考えても仕方の無い事だと思い直した。しかしそこまでしてもらうのだとしたら礼を言うべきだろうか。シビルはそう考え、口を開こうとする。

 しかし声を出そうとした息は逆にシビルの口に飲み込まれてしまった。

 シビルがお礼の言葉を言うよりも早く、アルノーがシビルの手をくいと引いて口元に寄せたからだった。



「ただ、私はあなたを手放す気はありません、絶対に」



 熱い吐息が、シビルの指先に触れた。瞬間ぞくりと背中を駆け抜けた感情を、シビルは量ることができなかった。



「そのことだけは理解して、覚悟をしていただきたいと思います」



 いつの間にかシビルの視線はアルノーの真っ直ぐなそれに絡め取られていて、目を逸らすことを忘れてしまっていた。

 鼓動が大きい。そのせいか、胸も苦しい。こめかみのあたりがぎゅうとして、意識が飛びそうだ。

 自身の体を襲う異常に耐えるのに精いっぱいのシビルはただ浅い呼吸を繰り返すだけで、アルノーの言葉に返事をすることはできなかった。












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