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05:四年目の女官はちょっと不安になる

 翌日、シビルは昨日よりは落ち着いて仕事ができていた。

 ようやく本当に腹をくくったからかもしれない。或いは、しばらくは女官の職を続けていられると知った安心感のせいか。恐らく後者だろう、とシビルは思っていた。あまり長い期間は無理だろうが、それでも猶予期間を得たことは間違いなくシビルに落ち着きを与えていた。

 そして落ち着いてくると、いろいろなことを考える余裕が出てくる。

 シビルがひとまず考えたことは、いつ上司である女官長に報告するか、ということだ。



(正式に婚約を結ぶのは明日の顔合わせだろうから、それが終わった後がいいのかもしれない)



 出来上がった書類をまとめつつ、シビルはそう結論付けた。



(でも、報告するときにいつまで婚約期間で、いつ結婚して、いつまで仕事を続けられるかわかっていないのは少し無責任だろうか)



 と同時にそんなことに思い至ると少し落ち込んでしまう。期間は決めた方がいい。わかるが、シビルはまだ決められそうには無かった。



「シビル」

「あ、はい」



 そんなところに声をかけられ、シビルは慌てて返事をする。そういえば昨日もこんな風に返事をした気がするな、と思ったシビルの視界に現れたのはまた女官長だった。昨日と同じように余裕溢れる穏やかな笑顔で、手には書類の束を持った女官長はシビルに微笑むと



「あなたの将来の旦那様のところへ、またお使いを頼みたいの」



 と言った。

 女官室にいた女官たちがどよめき、シビルが思わず「ぶっ」と吹きだす。



「もう、シビルったら水臭いんだから、わたしにはもっと早く言ってくれてもよかったでしょう?」



 女官長はそのどちらも気に留めた様子も無く笑顔でそう言うが、シビルは困惑のあまり「え、あの」としか言えない。

 なぜ、女官長は知っているのか。もっと早く報告しなければいけなかったのだろうか。



「す、すみません……」

「資料を届けるのに女官を指名するなんて、何かあると思ったのよ。だから聞いてみたらアルノー様が嬉しそうに答えてくれたわ」



 女官長の口から出た名前に、また女官たちがどよめいた。

 アルノー様?将来の旦那様?え、あの人とアルノー様が結婚するってこと?うそ、何で?だってあの人四年目でしょ?どうしてアルノー様と?

 しきりにひそひそと囁き合う声がする。その音に、シビルは次第に冷静さを取り戻していった。なるほど、女官長の情報源はあちらか。噂になっているわけではないらしい。もっとも、これで王城中の噂になるだろうが……まあ、それはいいか……。



「すみません、その、正式に婚約を結ぶのは恐らく明日なので、ご報告はそれからと思っていまして」

「あら、そうなの? まあ、そういうことなら報告が遅れたことは大目に見るけれど……」



 女官長の声にはわずかに不満といった色が残る。いったい何が不満なのか、とシビルは少々疑問に思うが気にしないことにした。そもそも女官長は普段から何を考えているのかよくわからない人だ。



「ああ、でもシビルが結婚だなんて、寂しいわ……シビルがいなくなってしまったらいったい誰がわたしの机の上を片付けてくれるのかしら」



 頬に手を当ててため息をつく女官長の姿に、シビルは少しだけ納得した。なるほど女官長が不満げな理由の一つには、それがあるのか。

 確かに、今年入ったばかりの新人の女官たちや二年目になる他の女官たちがあの混沌にも似た女官長の机の上を片付けられるかといえば、それはきっと出来ない事だろう。積み上がったモノの数々をどれをどこへ戻してどこへ移動させればいいのか、見当もつかないはずだ。



「女官長、これを機にご自分で整頓できるようにされては……」

「あら、嫌よ。すっかりシビルに甘やかされてしまったんだもの、そう簡単には自分でできないわ」

「……そう仰るとは、思いました」

「ふふ、シビルはわたしのことを良くわかってくれているのね」



 にこりと笑う女官長を見て、シビルは小さく息をついた。



「どうやら、わたしの最後の仕事は女官長の机上片づけ指南書の作成になりそうですね……」



 シビルが肩を落として言ったそれは、冗談ではなかった。とはいえ最後の仕事がこれとは、なんとも締まらない思いである。

 そう考えた時、シビルはふと頭が冴える感覚がした。


(最後の仕事)


 今まさに自分で言ったその言葉が頭によぎる。

 そうか、これを最後にしたらいい。この仕事が終われば、という区切りがあればわかりやすいではないか。猶予期間は有限だ。



「最後の仕事?」

「はい、幸いあちらからはすぐに仕事を辞める必要は無いとおっしゃっていただけているので、指南書を作成するまで仕事を続けさせていただこうと思います」

「あら、そうなの? よかったわあ、もうしばらくはシビルに片付けてもらえるのね」



 まったく自分で片付ける気の無いその笑顔に、シビルは肩の力が抜けていくような気がした。それは呆れてのことだったが、シビルはどこか安心したような心地がしていた。ここ数日、非日常が続いていたせいだろうか。女官長が笑うその顔は、いつも通りのものだった。









 二日続けて現れたシビルに、衛兵は怪訝そうな表情をした。しかし特に何も言わずに女官長の署名を受け取ると「通ってよし」と許可を出す。

 むしろ追い返されてしまった方が楽だったのかもしれない。

 シビルがそう思ったのは、王太子補佐官室の扉の前に立った時だった。その扉を目にした瞬間、昨日の記憶が蘇ったのだ。複雑な思いに胸が苦しくなって、少し頬が火照る。扉を叩いて中に入らなければいけないのに、シビルは手も足も動かすことができなかった。



(でも、入らないと。ひとまず落ち着こう……大丈夫、気にすることは無い……)



 深呼吸をして、気持ちを落ち着かせようとする。

 そんなシビルの肩に、突然何かがぽんと触れた。



「わっ」

「ああ、すまない」



 シビルが思わず声をあげると、すぐに謝罪の意を告げる声。すぐに声のした方を見て、シビルは息をのんだ。



「驚かせる気は無かったんだ、ただ声をかけようと思って。君が、アルノーの婚約者だろう?」



 なぜなら穏やかな笑みを浮かべてシビルにそう言ったのは、この国の王太子アーサラム・アクアドアその人であるからだった。

 本来ならば雲の上の存在であるはずの殿下に声をかけられた、という事実に戸惑うあまりシビルは思考を失いそうになる。しかしなんとか冷静さを保ったのは、アーサラムの『アルノーの婚約者だろう?』という問いかけがあったからだったかもしれない。何か聞かれたのだから、あまり待たせずに答えなければいけない。シビルの思考は瞬間、そう動いたのだった。



「は、はい、シビル・スケサンと申します」



 シビルは一瞬迷い、そう答えることにした。まだ正式に婚約を結んではいないが、もはや婚約は決まっている。肯定しても問題無いだろうと判断したのだ。

 答えを聞いたアーサラムは朗らかに笑った。



「あいつのことだから今日も何かと理由を付けて呼びつけるだろうと思ったが、正解だったな」



 シビルはアーサラムの言葉を冷静に聞いたつもりだったが、その意味を理解することができなかった。



「まったく、こんなたいして必要の無い書類を取り寄せて……公私混同もいいところだが、まあ、我慢させていたのは俺だしなあ……少しは大目に見てやるか」



 アーサラムは尚も理解できない言葉を続けるが、『ちょっと何を仰られているのか』などと口を挟むことなどシビルにはできるはずもない。シビルはただ体をこわばらせて、黙っているしかなかった。



「ああ、いやいや、こんな話を聞かせるために声をかけたんじゃないんだ」



 するとアーサラムがそう言うのが聞こえ、シビルはわずかに肩の力が抜けた気がした。よかった、さっきのよく理解できない言葉は本題ではなかったらしい。そう思えばシビルはほっと息をつける気さえした。



「ミス・スケサン」

「は、はい」

「どうか何があっても、アルノーの傍に居てやってくれ」



 しかしアーサラムがいよいよ話した本題はやはりよく理解できないもので、シビルの体は再び強張ってしまった。いや、意味はわかる。しかし、その意図がまったく理解できないのだ。

 シビルが何も答えられないでいると、アーサラムはにっこりと笑った。



「まあ、これは決して脅すわけじゃあないんだが、君にはそうしてもらわないと正直困るんだよ。だからできればいいえとか、約束できないとか、そういう返事は聞きたくないと思っている……いや、いや、強要しているわけじゃないんだ。王太子の言葉だからって絶対的な権威があるわけではないからな。ただ、まあ……黙ってうなずいてもらえると、非常に助かることは、事実だ」



 相変わらずその言葉が意味するところはわからなかったが、シビルはそう言ったアーサラムの声や笑顔が威圧感を携えたものだということを瞬間、本能的に理解した。


(パワハラ)


 そんな単語が頭に浮かび、すぐに相手が王太子であることを思いだしてかき消した。しかし消し損じた半濁音がシビルの心に一抹の不安を残す。



「……あの、お、お約束、致します……」



 その結果、シビルの返事は酷くぎこちないものになってしまった。



「ああ、その返事が聞けて安心した。さて、アルノーが中で待ちわびているだろうから早く届けてやってくれ」



 そんなことにはまったく構わず「それじゃあ」と言うと背を向けて去ってしまったアーサラムの姿に、シビルの不安は更に増すばかりであった。










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