03:四年目の女官は邂逅する
昨日のことを考えてぼうっとして、すぐにはっと気が付いて書類に向き合う。
シビルは朝からそんなことを繰り返していた。
向こうの方で新人の女官が二人、シビルにちらちらと視線をやりながら顔を見合わせてひそひそと話をしている。しかし今日のシビルはいつも以上にそれが気にならない。シビルの耳には彼女たちがひそひそと話す音すら聞こえていないのだ。
昨日はあまりのショックに考える気力も無かったが、結婚するということは当然女官の仕事も辞めるということだ。まさかこんな形で辞めるはめになるとは、と思うとやはり気分が落ち込んでしまう。
それに、元は父に請われて勤めた職だが、三年間も勤めているとシビルはこの職場に愛着も感じてしまっているのだ。
女官という仕事は案外忙しく、掃除などの雑用から官職が招いた客人の世話、議事録の作成に会計仕事など様々な役割を担っている。時には女官の方が美しい字を書く、という理由で書類仕事の助っ人を請われることもあった。そうした仕事に従事する時間は今振り返って見れば何にも代えがたく、きっとやりがいというものを感じていたのかもしれない。
何より、忙しく働いている間は色々な事を忘れられた。
その時間が今、失われようとしているのだ。そう思えば気分の落ち込みは更に著しいものになるのだった。
「シビル」
名前を呼ばれて、シビルは我に返った。また考え事をしてぼうっとしてしまっていたのだ。
「あ、はい、何でしょうか」
シビルが慌てて返事をしながら顔を上げると、そこに居たのは女官長だった。シビルがぼうっとしていたことを咎めるような表情は無く、いつも通りの余裕溢れる穏やかな笑みを浮かべている。そして、その手には何か紙の束を持っていた。
「お使いを頼みたいの、いいかしら?」
「はい、どちらへでしょう」
「これを、王太子補佐官室へ」
「えっ」
女官長がそう答えた途端、執務室に居た女官たちがざわめいた。小さな声で「うそお」「いいなあ」「うらやましい」などと囁くのは噂好きの新人二人だ。
そしてシビルは、思わず声をあげた。
「補佐官室に、わたしがですか?」
「ええそうよ、はいこれわたしの署名。至急という事だから、急いで行ってきてちょうだいね」
「あ……は、はい、わかりました、行ってまいります」
シビルは戸惑いながらも女官長に『至急』と言われてしまってはぐずぐずしているわけにはいかず、そう答えると女官長の手から資料を受け取ってすぐに女官室を出た。
こうした使い走りは、女官の仕事の一つだ。
王城の資料庫は女官長が管理していて、そこには過去の様々な記録や議事録など膨大な量の資料が保管されている。王城に勤める官職、特に文官はその資料を求めることが多い。彼らは過去のそれらを参考に、今起きている問題の解決策を話し合うのだ。そのため女官室には、日々王城の各部署から必要な資料の請求が来る。女官長が資料庫から出してきたそれを各部署へ届けるのが、女官の仕事だ。
その届け先がいつものように財務官室や外務官室などだったらシビルは戸惑ったりはしなかっただろう。
しかし、王太子補佐官室へとなると話が違う。
今までは王太子補佐官室への資料は、全て女官長が届けていた。王太子補佐官室は王城の中でも限られた人間しか立ち入ることのできない場所に存在しているからだ。そこへの入口には衛兵が立ち、許可を得た人間しか通ることを許されていない。女官長がシビルに自分の署名を渡したのはそのためだった。ただの女官は、女官長の名代という事で初めて通ることを許されるのだ。
そして、女官長が自分の署名を渡すのは初めての出来事だった。
王城の廊下を早足で歩きながらも、シビルは自分が緊張しているのがわかっていた。つまりそれだけ責任の重い仕事なのである。どうして緊張せずにいられるというのだろうか。
シビルは緊張したまま歩き続け、ついに王太子補佐官室へ続く廊下の入口にさしかかる。するとすぐに、そこに立っていた衛兵に止められた。
「用件は」
「女官長から、こちらの資料を王太子補佐官室へ届けるよう申しつけられました」
警戒の色を見せる衛兵に、シビルは女官長の署名を渡してそう言った。衛兵はそれを受け取るとしばし吟味する。やがて警戒を解くと、衛兵はシビルに「通ってよし」と告げた。
少し歩いていくと、両開きの大きな扉が見えた。その前に立って部屋のプレートを確認すると、そこには『王太子補佐官室』とある。ここだ。
シビルは扉の前で一度呼吸をすると、扉を叩いた。
「頼まれた資料をお持ちしました」
そう言うと、扉の向こうから「どうぞ」という返事が聞こえる。それを聞き、シビルは取っ手に手をかけて扉を開けた。
「失礼しま……」
す、の一音は言えなかった。その代わりにシビルの口から出たのは、小さく息をのむ音。
体が何かに包み込まれているのがわかる。じわりと温かさが伝わって、衣擦れの音が聞こえた。ああ、人だ、とわかる。
つまり、真正面から抱きしめられているのだ。
「……やっと、こうして触れることができた」
セクハラ。
その単語がシビルの頭に浮かぶ。
興味の無い人間に何を言われようとどうでもいいが、さすがに物理的接触にはどうでもいいなどとは言っていられない。シビルの頭の中で暗記した『城内セクハラ対処マニュアル』が開かれる。このケースは何だろう。偉い人に真正面から抱きつかれた場合? ええと、ひとまず声を出しましょう?
「あ、あの……」
随分と情けない声が出てしまった。しまった、マニュアルには毅然とした態度でと書いてあるのに。弱弱しいとかえって相手の加虐心を煽ることになってしまいます、とも書いてある。最悪のケースだ。
シビルのそんな不安とは裏腹に、「あっ」と言う声が聞こえたと思うとシビルの体は急にセクハラの魔の手から解放された。
そうして開けたシビルの視界に現れたのは、高位文官の衣服を身にまとった、高身長の男性。
後ろでゆるく束ねた銀色の長い髪が特徴的だ。整ったその顔は申し訳無げな表情に歪められている。シビルはその顔はよく知らなかったが、恐らく彼がそうなのだろうと確信していた。
王太子補佐官であり、王太子の右腕と名高いアルノー・インロウ侯爵令息その人だ、と。
「すみません、驚かせてしまいましたね」
「あっ……い、いいえ」
シビルは条件反射的にそんな言葉を返してしまう。実際驚いたし気にしていないわけでもない。幸いにもアルノーは言葉通りには受け取らなかったようで、申し訳無げに眉根を寄せた。
「本当にすみません、ようやくあなたに会えたと思うとつい手が……いや体が……。あなたに求婚を受けていただけたことに、正直浮かれているのです、どうかご容赦ください」
その言葉に、シビルはん?と思う。
(求婚? 受けた?)
その言葉が意味するところを考え、すぐに答えが出た。
そうだ、彼はアルノー・インロウ『侯爵令息』だ。父を通じてシビルに結婚を申し込んだという侯爵様の御令息とは、恐らく目の前のアルノーのことなのだろう。
ということは、真正面から抱きつかれたそれはセクハラには当たらないのだろうか……。一応、結婚する相手ということになるのだから、婚約者のスキンシップということになるのかもしれない。いやでも、城内だし……仕事中だし、いやでも……。
シビルはうーんと考えながら、ひとまず頭の中の『城内セクハラ対処マニュアル』をそっと閉じることにした。
「……あの、やはり、許してはいただけないのでしょうか」
アルノーの声が聞こえて、シビルはようやく自分が何も返事をしていないことに気が付く。
「言い訳にしかなりませんが、ようやくあなたに会えると思うと我慢が効かず……ああ、でもやはり、あなたの許可無くそうするべきではありませんでした、これからはそうします、ですからどうか」
「あ、いいえ、あの、驚いてしまっただけです、すみません」
シビルは慌ててそう返事をした。アルノーが言っていたことはよく理解ができなかったが、まあ、それについては特に考える必要は無いだろう。
「……あの、触れても?」
「え? あ、ええと、どうぞ」
シビルが特に考えずに返事をすると、アルノーはほっとしたように微笑む。それから、資料を持つシビルの手にそっと触れた。
感じた体温に、シビルの手が無意識にぴくりと動いた。それからシビルは、あれ、と思う。
もしかしてこれは、恥ずかしい事なのではないか?
そんなことを思うと、途端に心臓のあたりが苦しくなった。いや、もしかしなくてもこれは恥ずかしいことだ。そしてこれが恥ずかしい事なら、扉を開けた瞬間に抱きしめられたアレはだいぶ恥ずかしい。
そう気付いたシビルはじわりと体温が上がるのを感じた。ああ、恥ずかしいときはこうなるんだったっけ。わからない、恥ずかしいなんて、しばらく知らなかった感情だ。そんなものをどう扱っていいかわからず、シビルはただ目を伏せる事しか出来なかった。
「……ああ、そんな顔をされては、また我慢が……」
いつの間に距離を詰めたのか、すぐ近くでアルノーの声が聞こえた。それから触れた手に力が込められると、シビルは思わず息をのんだ。
「アルノー様、いい加減仕事に戻ってください」
突然響いたそれは、感情というものが抜け落ちているような声だった。途端にすぐ近くにあったアルノーの気配が無くなるのを感じて、シビルは肩の力が少し抜けた気がした。
シビルの頭に寄せていた顔を上げたアルノーは、不満そうな瞳を声の主に向ける。
「私は彼女との時間を邪魔されて怒るべきでしょうか、それともまた我慢が効かなくなりそうなのを止められて感謝すべきでしょうか……」
「アルノー様の葛藤はどうでもいいんで、さっさと仕事に戻ってください」
複雑な胸の内をこぼすアルノーに、声と同じく感情の乏しい目をアルノーに向けた若い男性が返す言葉は厳しい。その容赦のなさといったら、アルノーが返す言葉も無く黙ってしまう程である。
アルノーは男性から目を逸らして再びシビルに視線を向けると、悲しげに眉を下げた。
「それでは……名残惜しいですが、これで。二日後に会えるのを楽しみにしています」
そう言った言葉とは裏腹にシビルの手に触れたアルノーの手はなかなか離れていかなかったが、再度感情の無い声が「アルノー様」と呼ぶとようやくその手は名残惜しそうに離された。それからやっと資料を渡すことが叶うと、シビルは「失礼します」と言って逃げるように王太子補佐官室を出て行くのだった。
閉じた扉を背にしたシビルは、思わずはあっと息をつく。
「……何なんだ、あの人」
たまらずつぶやいた声は、広い廊下に空しく霧散した。