02:四年目の女官は敗北する
シビルが男爵邸に帰宅すると、一人の女性が出迎えた。
「お帰りなさいシビル、遅くまでご苦労様でした」
シビルを気遣うような笑顔でそう言ったのはシビルの母、スケサン夫人である。ただしシビルにとっては父親の再婚相手であり、血のつながらない義理の母だ。
とはいえ継母という言葉に付きまとう邪悪なイメージは彼女には無い。その尊顔に常に穏やかな笑みを湛えた彼女は、おっとりとしたしとやかな女性である。そのおっとりさたるや、周囲の人間すらおっとりさせてしまうほどだ。そこに計算などというものは存在しない。
老齢の執事に任せずこうして自らシビルの帰宅を出迎えるのも、血のつながらない娘に媚を売るようなものではなく、本当にシビルを労わる気持ちからだとその笑顔から伝わってくる。
シビルはそれを理解しているし、夫人の事はいい人だと思っている。しかしそれだけだ。
「ただいま帰りました、遅くなってすみません」
「いいえ、いいのよ。でも、あなたが遅くなる日は心配だわ、仕事が忙しいという事でしょう? どうか無理はしないでね」
「……はい、すみません」
シビルは特に表情も無く、始終夫人に目を合わせないままでそう答えた。夫人がこの館にやってきた日から、シビルは一度も彼女と目を合わせたことは無い。
そんなシビルの反応に夫人は一瞬悲しげな表情をするが、それをシビルには見せないようまたすぐに笑みを浮かべた。
「疲れているでしょう、すぐに温かい夕食を用意してもらうわ」
「……はい」
いつものやり取りを終え、夫人はシビルの帰宅を知らせるために食堂の方へと去って行くはずだった。しかし夫人がそこに留まっている気配を感じて、シビルは少し視線を上げた。
シビルがその気配を感じたとおり、夫人がまだそこに留まっている。腹部のあたりで手を組んで目を伏せた夫人は、ためらいがちにその口を開いた。
「……あの、それとねシビル、疲れているだろうけど、食事を終えたら旦那様のお部屋に行ってちょうだい、旦那様からあなたにお話があるの」
夫人が言ったことに、シビルは少し驚いた。父から話があると呼び出されるのは珍しいことだ。シビルは何だろうと考えるが、すぐに考えても仕方が無い事かと思い直して考えるのをやめた。
シビルがやはり夫人に目を合わせないまま「わかりました」とだけ答えると、夫人は一拍置いたのちに「それじゃあ、すぐに夕食を用意してもらうわ」と言って今度こそ食堂の方へと去って行くのだった。
食事を終えると、シビルはそのまま父の部屋へ向かった。
父の部屋につながる扉を叩く。すると、すぐに「入ってくれ」と返事が返ってくる。シビルが「失礼します」と言いながら扉を開けて中に入ると、父であるスケサン男爵が書斎机の前に立ったままで待っていた。
「来たかシビル、まあ、その、とりあえず、座りなさい」
そう言った男爵は、どこか落ち着かない様子だった。シビルは父のそんな様子を不思議に思いながらも何も言わず、父が座るのを確認してからその向かいに置かれた一人掛けのソファに座る。
男爵は何かためらっているのか、しばらく黙っていた。正直疲れているのでさっさと話を聞いて部屋に戻りたいとは思うが、シビルは催促したりはせずにじっと父の言葉を待つ。
やがて、男爵はその重たい口を開いた。
「……シビル、お前に、結婚を申し込みたいという方がいらっしゃる」
衝撃的な告白に、シビルは一瞬息が止まる。
一拍置いてはっと息を吐くと、「え?」という声がもれた。男爵はシビルのそういう反応を予測していたのか「ショックを受けるのも無理はない」と言葉をかけつつ、話を続けた。
「お前が結婚を望んでいないことはわかっている。だから私はお前に王城の女官になるよう懇願はしたが、お前の縁談を探したりはしなかった。そしてお前が女官になって三年が経ち、四年が経とうとしている今、もはやお前の結婚したくないという意志を認めてやらなければいけないと思っていたんだ。だがシビル、侯爵様の御令息は、どうしてもとお前を望んでくださっているんだ、必ずお前を大切にしてくださる。だからシビル……」
男爵の話を聞きながら、シビルはだんだんと冷静さを取り戻していた。
なるほど、相手は侯爵様の御令息。
つまりこの結婚の申し出を受けたなら、スケサン家は侯爵家とつながりができるのだ。相手がどういう意図かは知らないが、スケサン家にとってまたとない機会であることは間違いない。そこまで出世欲や野心のある父ではないが、いざ好機を目の前にしては掴み取らずにいられないのだろう。それはもはや、貴族の当主として生まれた人間の本能だ。
いや、そもそも父に出世欲や野心が無いというのは自分が勝手に思っていただけで、本当はこうした好機を待っていたのだろうか。家を出て働きたいと言った自分に、十九歳までは王城の女官として勤めてくれと頼み込んできた父。あれは、万が一にもこうしたことを見込んで娘を王都に縛り付けておくためだったのだろう。
(わたしの負けだ)
その”こうしたこと”が起きたのなら、もはやシビルの負けだ。受け入れるほかに、道は無い。
「わかりました、その結婚の申し出をお受けします」
努めて冷静に答えようと思ったら、酷く平坦な声になってしまった。男爵はそれを聞いて何故だか悲しげに眉を下げたが、シビルは俯いて男爵の顔を見ていないので気が付かない。
そもそもシビルはこの部屋に入ってきてから一度も男爵と目を合わせていなかった。だから男爵がずっと心配そうな目でシビルを見ていたことにも気が付いていないのだ。
「ですが、今日は少し疲れているので、詳細はまた明日に聞かせていただけますか」
「あ、ああ……そうだな、今日は帰りが遅かったのだったな。ゆっくり休んでくれ」
シビルは男爵の了承を得るとソファから立ち上がり、やはり男爵に目を合わせないまま部屋を後にした。
自分の部屋に戻ったシビルは、ベッドに倒れ込んだ。
心臓のあたりがぎゅうと締め付けられる。苦しい。どうして、こうなってしまったのだろう。
うまくいくと思っていた。
見た目も平凡で、全く愛想の無い男爵令嬢を相手にする人間などいない。事実この三年間そうだった。仕事上でかかわる文官や武官はシビルのことなど全く関心が無いか、或いはシビルのある噂を知っていて好奇の目を向けてくるかのどちらかだったのだ。
それに四年目の行き遅れという悪評だって、どうでもいいと思う反面これで結婚は絶望的だと内心喜んでいたのだ。浮かれていた自分を思い出して、シビルはますます胸が苦しくなる。
ぎゅうと、毛布を掴んだ。
「う……うう……」
涙なんて、枯れたと思っていた。
しかし今シビルの目の奥からこみ上げてくるそれは紛れも無く、涙だ。悔しさのせいだろうか。それとも逃げられない結婚への不安か。
母を亡くし、父が後妻を迎えたあの日から、誰にも頼らずに生きていきたいと思った。
だから結婚をして、結婚相手に頼って生きていくことなど、したくはなかったのだ。
けれどシビルは父に”負けた”。負けた以上は、もはや父に従うしかない。そんなわがままなど、言っていられないのだ。わかっている。わかっているのだが。
ぽたりと落ちてシーツに染みたそれは、母を亡くした日以来シビルが初めて流す涙だった。