16:四年目の女官は思い出す
シモーヌを連れた一団が去っても、アルノーはシビルの体を抱きしめたままでいた。
「……すみません」
小さな謝罪の声が、シビルの鼓膜を震わせる。
「また、あなたに嫌な思いをさせてしまいました、本当に……すみません」
アルノーの手が、すがるようにシビルの肩を抱きしめる。アルノーの腕の中で、シビルは小さく「いえ……」と返した。条件反射で言った言葉では無かった。
不思議と鼓動は落ち着いている。この状況が恥ずかしいといえば恥ずかしい。それにアルノーの言った通り嫌な思いもした。
しかしそれよりも今は、落ち着く心地の方がシビルの心の大部分を占めているのだ。アルノーの腕の中にいると、他のことがどうでもいいような気になってくる。どうしてアルノーがこの場所に駆け付けたのかということ。それからカロー伯爵令嬢のことも、自分が激高してしまったことも。
また、シビルの頭の中にアーサラムの言葉がよみがえる。
『君は、君を甘やかしてくれる人に甘えていいし、頼っていいんだ』
でも、どうして、この人は。
「あ、あの、アルノー様……」
名前を呼ぶと、小さく息をのむ音が聞こえてシビルの体が解放された。見えたのは、申し訳無げに眉を下げるアルノーの顔。
「すみません、また勝手にあなたを、その、抱きしめてしまって」
「い、いえ、それは……」
むしろそのおかげで落ち着きを取り戻したのだが、言葉にするのは恥ずかしかった。シビルはきゅっと唇を結び、それからひとつ呼吸をするともう一度口を開いた。
「……あの、ひとつ、お聞きしたいことがあるのですが、いいでしょうか」
「はい、何でしょう」
「アルノー様はどうして、……どうして、私などに、ここまでしてくださるのでしょう」
この人は、どうして自分を甘やかしてくれるのだろうか。
ただ人形のように嫁ぐだけなのだから、それを知ることに意味など無い。意味など無いはずなのに。聞かずにはいられなかった。とはいえアルノーの顔を見る事はできない。恥ずかしいし、気まずいのだ。
「……すみません」
アルノーは、またその言葉を言った。
「私は、始めあなたに会ったときにこれを伝えるべきでした」
アルノーの手がシビルの頬に触れる。そうして下を向いていたシビルの顔を、優しく上へ上げた。
真っ直ぐなアルノーの瞳が、シビルの揺れるそれと交わる。
「……シビル」
初めて、名前を呼ばれた。
「私は、あなたを愛しています」
シビルの瞳が、驚きに見開かれる。
瞬間的に理解が追いつかない。何と言われただろうか。
頭で理解するよりも早く体を襲う症状にそれは現れた。心臓がどくんと跳ねて、頬がかっと熱くなる。それはアルノーに言われた言葉の中で、最も恥ずかしいものだ。それ以上は無い。
「あなたに救われたあの日から、ずっと」
「あ、あの日?」
シビルが繰り返すと、アルノーはにこりと笑いかけた。
「侯爵に引き取られてまもない頃です。まだ貴族の環境にも慣れず、通わされた学校でも愛人の子と噂され、時には面と向かってからかわれたり、罵られることもありました。それでも、家は逃げ場などではなくて。そんな中、私は一つの逃げ場を見つけました。それは、学校の敷地内にあった、人気の無い小屋です」
小屋、と聞いてシビルの記憶が刺激される。幼い頃、母を亡くしてまもない頃だ。シビルが学園の初等部だった頃。その敷地の片隅。長らく放っておかれたような、小さくて古びた物置小屋があった。
「放置された物置のような小屋の中で、誰からも隠れて泣いていました。けれどある日、一人の少女が扉を蹴破って入ってきたのです。慌てて謝って出て行こうとする私に、彼女はこう言いました。『ここは誰の場所でもないんだから、出て行く必要ない』……と」
シビルはこめかみのあたりがちかと光った気がした。聞いたことがある気がする。デジャヴだろうか。
「驚いて、私は出て行くことができずに、小さな小屋の中で彼女と二人きりになってしまいました。彼女は詰まれた木箱に腰掛けるとため息をついて……まるで、私のことなど気にしていないようでした。そんな扱いをされるのは初めてで、大抵の人間は私を見れば噂をするか、直接からかってくるかでしたから。不安になって、声をかけました。僕が愛人の子だって、ばかにしないのかと。彼女ははっきり答えました、『そんなの興味ない』、と」
アルノーの話を聞いて、シビルの頭には記憶がはっきりとした映像でよみがえっていた。
薄暗い小屋の中で、細い髪を後ろで束ねた気の弱そうな少年を見下ろしていた。不安げな瞳でこちらを見上げて、自意識過剰にも似たことを問いかけて勝手に怯えている少年。
きっと周囲に愛人の子だと噂され、好奇の目を向けられ、それに傷ついているのだろう。人の目を気にして、傷ついた、弱い姿。それはまるで心の奥に無理やり押し込めた自分の弱さそのもののようで、腹が立った自分は少年を睨み付けてこう言った。
「『あなたが何者だろうとわたしには関係無いし、他の誰にも関係ない』」
記憶と同じ言葉が、アルノーの口からつむがれる。
まさか、あの時の気の弱い少年がアルノーだったというのか。シビルの中で、また別の恥ずかしさがこみあげてくる。
「……す、すみません……」
たまらず、シビルは謝罪の言葉を言った。
あの時の自分を叱りつけたくてたまらない。侯爵令息にいったいどういう立場からものを言っているのか。しかも木箱の上から、偉そうに見下ろして。失礼にも程がある。
それに、ある意味酷く滑稽だ。
「いえ、私はあの言葉で、自分がどれだけ自意識が過剰になっていたか気が付くことができました。気が付いたからと言って、すぐに割り切る強さは私にはありませんでしたが……それでも、自分が何者かということは他の誰にも関係ない、そう言い切ることのできるあなたの姿を思い出して、強くあろうと努力をしてきました。あなたのおかげです」
アルノーがそう言うが、シビルには気休めのようにしか受け取れない。それどころかアルノーの言葉は、シビルを苦しめた。
「……わたしは、アルノー様のおっしゃるような人間では、ありません」
うつむいて、絞り出すように声を出す。
「人にはそんなことを言っておきながら、本当は、周囲を気にしていたんです。あの小屋にも、ただ逃げてきただけで。自分のことも、家族のことも、好き勝手に言う人間を関係ないからと一蹴もできず、けれど、だから、傷ついたような弱い姿をしていたくなくて、どうでもいいと、関係ないと、必死に思うようにして、何とか自分を保っていたんです」
そんな自分が偉そうに説教じみたことを言うなどと、何とも滑稽である。あるいは惨めと言おうか。一度だって強くなれた瞬間など、無かったのだ。
「わたしは、弱い、人間です」
これではカロー伯爵令嬢の言った通りだ。自分は、アルノーを騙していた。だって自分はアルノーが思っている様な、強い人間ではないのだから。
「あなたは、確かに強い人です」
この期に及んでもアルノーの声は、シビルの耳に優しく聞こえてしまう。
「私が何者かということは関係ないと言い切る姿も、私に自分を貫いていられるのならそれでいいと言ってくださった姿も、あの日と同じ、強い姿でした」
優しいからこそ、苦しくなるのだ。そんなのは、必死に取り繕った自分の姿でしかない。
「ですがあなたに求婚を受けていただいて、婚約してから、私はあなたの弱い面を見るようになりました」
シビルはえっと思うと、顔を上げた。そこにはやはり優しく微笑んだアルノーがいる。
「例えば手に触れただけで恥ずかしそうに視線を落とす顔。慣れないドレス、慣れない髪型に戸惑う姿。すぐに照れてしまうところ。それに、必死に強くあろうとする姿も。……不思議なものですね。あなたの強い姿に憧れて、恋い焦がれたと思っていたのに、今はどんなあなたでも愛おしいと、そう思います」
ぎゅうと胸が締め付けられた。
本当に、愛されているというのだろうか。こんな弱い自分が。強がっているだけの、惨めな自分が。信じられずにじっと見つめたアルノーの顔は柔らかい笑みが浮かべられている。
それは、シビルのある記憶を呼び起こした。
そろそろとシビルの腕が持ち上がる。そしてその手はアルノーの衣服を弱弱しく掴んだ。
胸が苦しい。目の奥が、なにかむずむずする。それから熱くなって、ぽろりと何かが零れ落ちた。
「う……うう、ああ……」
シビルは縋り付くように体をアルノーに寄せると、その胸に顔を埋めて、泣いた。
アルノーだけではない。
家族は、いつも自分を愛してくれていた。いつも心配してくれていた父。いつも帰りを待っていてくれた義母。長い髪が似合うと言ってくれた義弟。
そして、あの日自分を庇って死んだ母は、最上級の愛で自分を包んでくれた。
家族の全てが、ずっと、いつも、自分に優しく笑いかけてくれていたのだ。そんな家族を、自分も愛している。
けれど、愛されていることを自覚するというのは、弱くなることだ。守られてしまえば弱くなる。その弱さを受け入れたくなくて、甘えてはいけないと、自分の殻に閉じこもった。
それをこじ開けて、愛されていることを思い知らせたのはアルノーだった。自分や家族を悪く言う噂に今更どうして傷つくのかと思ったが、きっとそういうことだ。
愛してくれる人が、守ってくれる人が、いる。
それを、アルノーに思い知らされてしまっていたから。
今の自分は、酷く弱い存在だ。
あふれる涙は悔しさのためなのか、あるいは安堵か。わからないままシビルはアルノーの胸にすがって泣き続ける。そんなシビルを、アルノーはただ抱きしめてくれていた。