13:四年目の女官は誘拐される?
その日、シビルは王都の郊外へ向かう馬車の中に居た。
隣に座るのはアルノーだ。時々熱い視線を感じる。とはいえこれは婚前旅行とか、ましてハネムーンなどというものではない。むしろそれとは真逆である。
事の起こりは数日前だ。
「視察に同行、ですか」
女官長から告げられたのは、数日後に行われる視察へ同行してほしいということだった。
視察には通常記録係が同行するのだが、それは主に速記術に長けた文官が担当する。同じように速記術に長けた女官が担当するのは珍しくない。
だからシビルは特に驚いたりはしていなかった。
「殿下直々のご指名だから驚いちゃったわ」
女官長が笑って言ったこの言葉を聞くまでは。
「えっ、殿下の視察に同行するということですか?」
「ええそうよ、もちろんアルノー様も一緒にね」
咄嗟にシビルの頭に浮かんだ単語は、公私混同、だった。
しかしシビルは浮かんだそれを慌てて振り払う。女官長は『殿下直々』とおっしゃった。殿下はアルノーが公私混同するのを戒めるお方だ。自分を指名されたのはアルノーのためとかそういうことではなく、何か別のお考えがあってのことに違いない。
だいたい公私混同などと、そんなことを考えてしまうなんて、いったい自分はいつからそんな自意識が過剰な人間になったというのか。
「行先はダーウよ、建設中の新しい橋の様子を視察されることになっているわ」
「わかりました」
「あと、殿下からの言づてを預かっているの」
えっと驚くシビルに、女官長はにこりと笑ってアーサラムの言づてをそのまま伝えた。
「『ところでダーウは恋人たちの小旅行に人気の場所らしい。なんでも恋人のつり橋とか呼ばれる橋があるとか。いや、いや今回は仕事で行くのだから関係ないことだが』、ですって、ふふ」
やはり公私混同。
また咄嗟にそう考えて、慌ててその言葉を振り払う。いや、いや違う。殿下は『今回は仕事で行くのだから関係ない』とおっしゃったではないか。ダーウは恋人たちの小旅行に人気だとか、恋人のつり橋があるとかそういうことは一切関係の無い事だ。
……関係の無い事のはずなのだが、どうもアーサラムの言づてからは『いっそ恋人気分でダーウの視察を楽しんではどうか』といったメッセージが見え隠れしているように感じてしまう。
窓の外を流れる風景に目をやりながら、シビルはついそんなことを思いだしてしまっていた。
いや、いや違う。だから自分はいったいいつからこんな自意識過剰になったというのか。そもそも視察に同行するのは変わらないのだから考えるだけ無駄ではないか。
必死にそう考えるのだが、どうも気持ちの切り替えがうまくできない。
「もしかして、気分が優れませんか?」
「えっ?」
はっとして、シビルは声のした方に顔を向けた。見えたのは心配そうにこちらを見るアルノー。
「あ、いえ、そんなことはありません」
「そうですか、何か思いつめたように窓の外を見つめていたので心配したのですが」
「いえ……その、すみません」
シビルは謝罪をしつつ、己のうかつさを反省していた。アルノーにわかるほどに不安や苛立ちが表情に出てしまっていたとは。
「馬車に慣れていないと酔いやすいからな、無理はするなよ」
「は、はい……お気遣い、感謝します」
更には向かいの席に座るアーサラムにまでそう言われ、更に反省を深める。
視察先に向かう馬車の中にはシビルとアルノーの他に、アーサラムと、シモンというもう一人の王太子補佐官がいるのだ。うまく感情の制御をしなければ。
……いや、そもそも不安の根源たるアルノーとアーサラムがこの狭い空間に同居しているから気持ちの切り替えがうまくできないのではないか?ああいや、だからこういうことを考えてしまうからいけないのだ。
シビルは何か別のことを考えよう、と思って再び窓の外へ視線を向けた。
(そういえば、弟は結婚のことは知っているんだろうか)
そう考えて、はっとする。
(……結婚のこと以外で、何か別のことを考えよう)
心の中でそうつぶやいてからシビルがようやく考え出したのは、女官長の机の上片付けマニュアルについてのことだった。
何もすることがないから余計な事を考えていたのだ、とようやく分かったのは現地についてすぐのことだった。
記録係とは現地でアーサラムが行う会話を速記術を用いて書き取る役割である。アーサラムは役人の話すことをそうかそうかとただ聞いているだけの人間ではない。時に鋭い疑問を投げかけたりもすれば、橋の建設現場で働く人間に気軽に声をかけたりもするのだ。
シビルは記録係としてそんなアーサラムの一言一句を書き取っていかなくてはならない。他のことを考える暇など無いのだった。
そうしためまぐるしさの内に、視察は終了した。
いったいアーサラムの言づては何だったのかというほどに何も無かった。いや、何も無いならそれが一番いいのだが。
「シモン、馬車を止めてもらってくれ」
シビルがそう思いながら窓の外を見つめていると、アーサラムが隣に座るシモンにそう指示を出した。それを受けてシモンがすぐに御者に止まるよう指示をする。すると馬車はゆっくりと速度を落として止まった。
「少し河原を歩いてくる、ミス・スケサン」
「はい」
「君がついてきてくれ」
突然の指名にシビルが驚きつつまた「はい」と答える隣で、アルノーが複雑そうな表情をする。それに気付いたアーサラムは呆れたような顔をした。
「アルノー、そんな顔をするな」
「……すみません、頭では理解しているつもりなのですが、つい」
「まあ気持ちはわからないでもないが、顔に現れる感情をもう少し控えめに出来るよう努力はしろよ」
「……はい」
「……道のりは遠そうだが、仕方がないか。さてミス・スケサン、さっさと行こうか」
そう呼びかけられ、シビルはアーサラムとアルノーの会話の意味がわからないままにアーサラムと共に馬車を降りるのだった。
広い河原を歩けば、水がごうごうと流れる音が聞こえてくる。すぐ傍を流れる、広く、流れの穏やかな川はダーウから王都へと続く運河である。
「ダーウに視察に行くときは、必ず帰りにこの河原に寄るんだ。川の流れに、鳥の声……木の葉の揺れる音だけが聞こえるこの場所は、いつ来ても落ち着くな」
歩きながら、アーサラムはそんなことを言った。
運河はその流れの音が心地よく、水面を吹き抜けてくる風は都会のそれよりもずっと爽やかに感じられるようだ。だから落ち着くのだと、それはアーサラムの後ろを歩くシビルにも理解は出来た。
しかしシビルが風を感じて落ち着く気持ちになれるかといえば、それは出来ない話だった。なにせ前を歩くのは王太子殿下である。気持ちの良い自然にほうと肩の力を抜いている場合では無い。
シビルは気を引き締めてアーサラムの後をついていくのだった。
河原をしばらく歩いて行き、後方に馬車も見えなくなった頃。左手に林のある場所で、アーサラムは足を止めた。そして、後ろについていたシビルを振り返る。
「さて、実は、君をここに連れ出したのはワケがある」
アーサラムの言葉に、シビルは驚いた。いったい殿下が自分などを、どういった理由で。
「君を連れ出したのは他でもない、アルノーに邪魔されないところでゆっくり話がしたかったからなんだが……」
アーサラムはそこで言葉を途切れさせると、ゆっくりと周囲を見渡した。それが警戒の意だとシビルが気づいたのはすぐだった。
「それは、もう少し後になりそうかな」
いつの間にかアーサラムとシビルを囲む、数人の黒装束。その視線は好意的なものではないことは明らかだ。更には金属の擦れる音が聞こえると、一気に場の緊張感が増した。
剣を突きつけられて、シビルの体に緊張が走る。それは本能的な恐怖でもあった。それでもわずかに残る冷静さでアーサラムの様子をうかがう。いざという時、自分はこの方を庇わなければいけないのだ。
シビルが見たアーサラムは、剣を突きつけられてもなお冷静な様子に見えた。
「ついてきてもらうぞ」
ようやく黒装束が要求を述べる。どうやら、この場で命を狙うつもりではないようだ。声からして、男だ。
「予定が押してイラついてるのはわかるが、ここでそのうっぷんを晴らすのはやめてくれよ」
アーサラムはやはり冷静にそう答えた。いや、これは冷静というより、まるで知っている人間に話しかけるような口調ではないだろうか。
すぐに黒装束に「さっさと歩け」と急かされてしまったので、なんとなく覚えたそんな違和感を確かなものにする暇は無かった。