10:四年目の女官と小さな殿下
その日は久しぶりに王太子補佐官室への使いを頼まれた日だった。
婚約してからというもの、アルノーは毎日昼休憩になると女官室に現れてはシビルを昼食に誘ってくるようになった。シビルは初めこそ困惑したものの、今では自分で昼食を用意してアルノーを待つ日々である。それは待ち焦がれているとかそういうわけではなく、来るとわかっているのだからそうする他にないのだ。
一方でそれと比例して、アルノーが資料を請求してシビルを王太子補佐官室へ呼び出すことは少なくなったのだ。
廊下を歩きながら、シビルはいつも通りである。最早緊張しないのはアルノーという存在に慣れてきたせいかもしれない。相変わらず恥ずかしいことを言われると困るが、そうでない時は特に構えたりせず普通にいられるようになった気がする。冷静でいられる、と言ったほうがいいのか。
たどり着いた廊下で衛兵に女官長の署名を渡したシビルは、冷静なままで王太子補佐官室の扉の前に立った。
扉を叩いて用件を告げると「どうぞ」と聞こえたので、シビルは取っ手に手をかけて扉を開く。
「えっ?」
瞬間、シビルの前を何かが横ぎる。
その影はシビルが開いた扉の隙間から、するりと部屋の中へと滑り込んだ。
「あにうえー!」
拙い声が元気いっぱいに兄を呼ぶ。しかしその勢いはすぐに失速して、きょとんとした顔になったと思うと「あれ?」とつぶやいた。
「なんでアルノーがいるの? あにうえは?」
「ロラック様」
不思議そうに聞く男児の名前を呼んだのは、アルノーだった。アルノーは執務机から立ち上がると彼の傍まで歩いていき、その前に膝をつく。
「ここはアーサラム様のお部屋ではありませんよ、アルノー達の部屋です」
アルノーが諭すように言うとロラックはきょとんとした顔のままきょろきょろと部屋を見回し、またアルノーを見て
「まちがえちゃった」
と言った。
それからてへっと笑う彼を、シビルは知っている。アーサラム殿下の半分血がつながった弟であり、この国の第二王子であるロラック様だ。御年は七。当然社交界デビューはまだまだ先だが、式典ではアーサラムの隣に並んで立つ姿を国民に見せている。
他人にあまり関心を持たないシビルだが、さすがに幼い王子の顔はきちんと覚えているのだ。
「すみません、驚かせてしまいましたね。どうぞ中へ入ってください」
「あ、……はい」
シビルは扉を開けたままの状態で動けずにいたが、アルノーにそう言われようやく部屋の中へ入った。
アルノーとロラックは部屋の中央で向かい合っている。そして脇の方にある執務机ではちょうど男性が立ち上がったところだった。まったくの無表情である彼は何も言わずに部屋を出て行ってしまう。
「あー、アルノーしごとちゅうにじぶんのおんなをつれこんでるー」
彼の行方を気にする暇も無く、無邪気な声が聞こえた。
「……アーサラム様に吹き込まれましたか、ロラック様」
見えたのはこちらに向かって無邪気な笑みを見せるロラックと、その傍で渋い顔をしているアルノー。ロラックの言った『じぶんのおんな』が自分を指している事に気付くと、シビルは急に居心地が悪くなった。
「アルノーはいま、すごくうかれてるんだっていってた」
「……確かに、浮かれてはいますが、少しは落ち着いたと自分では思っています」
「おちついたの?」
「ええ、昼には二人きりになれますので、今は仕事中はある程度弁えてどうしても会いたくてたまらない時だけ……いえ、必要な時だけ資料を届けていただいています、ですから今も必要な資料を持ってきていただいただけですよ」
更には聞こえてくるそんな内容の会話にシビルはますます居心地が悪くなる。だからといってそれを解消するためにできることなどないのだから、シビルはただ耐えるしかなかった。
「本音が漏れてるあたり、まだまだ浮かれているぞ、アルノー」
声がして、部屋に居た三人は扉の方へ顔を向ける。
そこにいたのは少し呆れたような笑みを浮かべているアーサラム。その傍には、先ほど何も言わずに部屋を出て行った男性がいた。どうやら、アーサラムを呼びに行っていたらしい。
「あにうえ!」
ロラックがぱっと明るい表情になって兄を呼び、その傍に駆け寄っていく。
「ロラック、また勝手に後宮を抜け出してきたのか?」
それを優しく受け止めた兄の第一声は、そんな小言だった。ロラックは途端にうっという顔をすると、気まずそうに目を逸らしてしまう。
「かってにじゃないもん、……ちゃんと、あにうえのところにいってきますってかみにかいて、おいてきたもん」
そうして唇を尖らせながら言い訳をする姿にアーサラムは苦笑する。つまりそれは誰の了承も得ていないということで、勝手に抜け出してきたという事なのだが。しかし厳しく叱るのは自分の役目ではない。
「勉強は終わってから抜け出してきたんだな?」
「う、うん、ちゃんとべんきょうはしたもん! ほんとだよ!」
アーサラムが聞くと、ロラックは逸らしていた視線を兄へ戻してそう訴える。まっすぐにこちらを見つめる弟の瞳をじっと見つめ返して、アーサラムはふっと微笑んだ。
「そうか、じゃあ追い返したりはしない。後宮から迎えが来るまで、ここにいていいぞ」
アーサラムがその頭を撫でてそう言ってやれば、ロラックはぱっと顔を明るくした。嬉しそうに笑ったその頬は紅潮している。
「じゃあ、じゃああにうえ、このあいだのほんのつづきよんで!」
「うーん、今すぐに読んでやりたいのは山々なんだが、兄上は今やってる仕事を終わらせないといけないんだ」
「ええーっ」
ロラックの表情はアーサラムの言葉に合わせてころころと変わる。今度は不満げに口を尖らせたロラックに対し、アーサラムは膝を折ってその前にしゃがみこんだ。
「ロラックが勉強が終わってからここにきたように、兄上もロラックに本を読むには、やることをやってからじゃないといけないんだ」
「んー……うん、そう、だよね」
アーサラムが目線を合わせてそう諭すと、ロラックは兄の言ったことを理解はしたようだった。表情はまだ不満げだが、それは幼いゆえに仕方の無いことだろう。
アーサラムはそんなロラックを慈しむように頭を一度撫でると、すっくと立ち上がった。
「ミス・スケサン」
「は、はい」
アーサラムに呼ばれ、シビルの体に緊張が走る。
「悪いが、少しの間ロラックについてやっててくれないか」
シビルはその命令に、えっと驚いた。その役目は、ただの女官に過ぎない自分でいいのだろうか。
「ロラックはずっと後宮で暮らしているから、女性の方が慣れているんだ。いつもはアルノーかシモンに頼むんだが、今日は君がいるからちょうどいいと思って、頼めるかな?」
シビルが一瞬返事をためらうと、アーサラムが丁寧に理由を述べた。シビルは慌てて「承知しました」と返事をする。
「じゃあ手に持っている資料はアルノーに預けて、ロラックについていってくれ」
続いて言われた言葉に、シビルはあっと思う。そもそもシビルがこの場所に来たのは手の中にあるこの資料を届けるためだったはずだ。シビルは「はい」と返事をすると慌ててアルノーの方へと歩いていき、資料を差し出した。
「アルノー様、どうぞ」
「ありがとうございます」
アルノーに資料を渡した途端、シビルは思わず「わっ」と声をあげてしまう。
「はやくいこー」
腰元にしがみついてこちらを見上げる丸い目。ロラックが突進のような勢いでシビルに抱きついてきたのだ。
ロラックはそのままの状態でちらとアルノーを見ると、いたずらそうに笑った。
「アルノー、ちゃんとかえしてあげるから、しんぱいしないでいーよ」
ロラックの発言に、アーサラムが「ぶっ」と吹きだした。
「く……ははっ、ロラックはきちんとアルノーに気を遣えて偉いなあ」
「えへへー」
ロラックが笑う兄に笑顔を返す傍で、シビルは困惑していた。この王子兄弟の発言は揃いも揃って意図がわからない。
「……ロラック様」
「ん?」
「あまり長くはお貸しできませんよ、もしも遅くなれば私は、何を放り出してでも彼女を奪い返しに参ります」
更にはアルノーまでもがそんなことを言う。この上ない居心地の悪さを感じて、シビルはようやく気が付いた。この居心地の悪さは恐らく、人前でこんなことを言われたからだ。
「アルノーこわーい、こわいからはやくいこー」
そう気付いたシビルが改めて恥ずかしさに苛まれている間に、ロラックは笑ってそう言うとシビルの手を両手で握って引っ張った。不意の出来事だったためか、シビルの体は小さなロラックに引っ張られて動いた。
シビルが慌てて「失礼します」と言葉を出したころには、ロラックは彼のために開かれた扉から出て行くところであった。