現在
それは、唐突だった。
大手銀行に勤めていた父さんが早期退職をし、その退職金で遠く離れた知らない土地へ母さんと僕を連れ、引っ越す事となった。
相談なんてものは一切無かった、と思う。
決断してからの父さんの行動は早かった。
物を持たない生活、と言えば聞こえは良いが手当たり次第ひたすら身の回りの物を処分していった。
家族共用の物、父さん自身の物、母さんの物、勿論僕の物も。
あるものはゴミ袋に、あるものは段ボール箱に放り込まれ、広い筈のリビングは不要物と化したそれらであっという間に埋っていった。
元々、物に執着の無かった人達だったから生活に困らない程度の品物しか無かったが、作業着を羽織った業者がやってきて大型の家財道具を運び出し始めた時には流石に只事では無い、と思った。
これは本当に引っ越し、なのか?
しかし、中学を卒業したばかりの子供である僕に出来る事など何も無かった。
ただ、青白い顔で何かに急き立てられる様に動き回る父さんの背中を見詰めるだけだった。
山深い小さな村の平屋建ての古ぼけた一軒家。
舗装などされていない石ころだらけの道を辿り、何とか家の前まで車を入れる事が出来るが、すれ違う事は不可能。
しかし、そんな事態になる事は無いだろうから然して問題にはならないだろう。
この辺りで家はこの一軒きり。
隣の家に行こうとしても、歩きで10分程山を下らなければならなかった。
見渡しても木々の緑と、茶色い山肌しか見えない。
そんな周りから孤立した家に僕達は引き籠るかの様に引っ越したのだった。
家の庭に大きな桜の木が有る。
鬱蒼と茂る草木の間からゴツゴツとした樹皮を覗かせ、両の腕をいっぱいに伸ばす様な見事な枝振りの木だった。
幾本にも分かれた枝の先に薄ピンクの花が付いている。
この家に有るごく僅かな色彩。
満開まで、もう少し掛かるだろう。
父さんは仕事に行かなくなった今も、ワイシャツ姿になり続けていた。
もしかしたら、他の服装を忘れてしまったのかもしれない。
そんな不安が脳裏を過ぎる。
家に居ても特別する事の無い父さんは台所に立ち、慣れない手付きで3度の食事を作り、天気の良い日には細やかな縁側に座布団を持ち出して、その桜の木を見ながら食事を摂っていた。
しかし、それも長くは続かなかった。
着替えはするものの、その食事が質素なものになり、回数も減っていった。
それは桜が、一分が二分、三分と花開くのに逆らうかの様な変化だった。
縁側に座り、指紋だらけの曇った眼鏡のレンズ越しに、ぼんやりとした眼差しで桜の木を見上げる。
「サクラ・・・」
時折、ふと思い出したかの様に父さんは呟く。