3-2 襲撃、そしてホノヘツ族と
ナギはそう言うと、トランクを掴み、駈けだした。細い銀に近い金の三つ編みが、揺れる。
彼もまた、荷物を握ると、その場から駆け出す。ちら、と後ろに視線をやると、確かに、居た。三人だった。
ああそうだ、と彼は思う。確かに、あの時店に居た、作業服を着た者がその中には混じっている。
彼は足を早め、ナギの横に並ぶと、呼吸を乱さない様に注意しながら声を掛ける。
「…居た」
「ああ」
「何処まで走るつもり?」
ナギは時々呼吸を整えながら、そうだな、と言葉を入れる。
「上手く行けば、もうじき…」
彼女がそう言った時だった。ユカリははっとして彼女の腕を強く下に引いた。
「伏せろ!」
ひゅん、と頭上を、何かが通っていく。
気配を感じて、ユカリはとっさに彼女を避けさせた。砂ぼこりが舞う。ぷ、と彼女は口の中に入ったらしい砂と一緒に、大地に唾を吐く。すぐに体勢を立て直す。それはユカリも同様だった。幾らかか離れている相手は、銃を手にしている。
「…あの銃は」
「見たことがあるのか?」
ナギは彼に問いかけた。ああ、とユカリはつぶやく。そういう訓練は、されているのだ。現在帝国内で使われている携帯兵器の種類は、一瞬で見極めることはできる。
「応戦は可能か?」
ナギは短く、かつ重要なことを問いかける。どうだろう、とユカリは思う。向こうの意図が、自分達をどうしたいのか、どうにもよく判らないのだ。
「心配するな。殺しはしないだろう」
「そうなのか?」
「たぶん」
彼女にしては歯切れの悪い言葉に、ユカリはやや不安を覚える。だが、かと言って立ち止まっている訳にもいかない。この広い、ただ広いばかりの大地の上で、逃げも隠れもできないとなれば。
三人。若すぎもせず、歳をとってもいない。作業服は動きやすいだろう。何よりも、銃を持っている。しかも、それは拳銃だ。
しかし、それは決して遠距離における精度を目的としたものではない。実弾をそのまま輪胴に込める方式のものだ。この方式は、素早く連続して発射することを目的としているので、精度は二の次となる。そして、込められている弾丸数もそう多くはないはずだった。少なくとも、正規軍の新型よりは。
となると。
帝国内で銃はまず滅多に出回ることが無い。武器として決してそれは一般的ではないのだ。内乱を抑える意味で成立しているこの国の正規軍には、あまり必要も開発も行われないものだった。
「むしろ、あれは…」
軍よりは。
「警察機関?」
彼はつぶやいてみる。もしくは、それに近いもの。内務省の管轄の… 可能性はある。
しかし殺さないと言ったところで、そういった機関に、何故追われて、そして反撃するのかの理由を問われるとまた厄介である。彼の主にとって、決してそれは良い事態ではない。
「どうする!」
「どうするって!」
問われたナギの方も、どうしたものか、という表情をしている。隠れる所も無いこの場所で。
ち、と舌打ちをすると、ユカリは自分の服のボタンを素早く二つ三つと引きちぎる。そして指でそれを鋭くはじき出した。
お、という声が上がり、一人が手を押さえる。そしてもう一人が顔を。
そしてそのスキをつくように、彼は三人の方へと駈けだした。
ナギは大きく辺りを見渡す。そして何かを探す様に、ぐるりと首を動かした。
ユカリは迷わずに顔を押さえている方の男に駆け寄る。
そして鋭い一撃を、その押さえた手の上からくらわせた。
ふらり、と男はその場に砂ぼこりを立てて倒れた。
だが。
「動くな」
重い、冷たい金属の感触が首に当たっているのを彼は感じた。押し付けられているものが何なのか、それはすぐに判った。
しかし次の瞬間、背後の男はおっと目を広げた。
身をかがめ、ユカリは足を後ろにぐるりと回す。頭を下げる。頭上で、大きな音が響いた。うわ、と声がした。目の前に赤が弾けた。
そして、そのままその銃を持った手を空に勢いよく向けさせ、手を開かせた。ぽろり、と銃が落ちる。何だ、案外筋肉が無い、と彼は思う。
「ナギ!」
彼は離れた場所に居た彼女に合図を送った。トランクを置いて、彼女は近づいてくる。そして落ちた銃を拾うと、慣れた手つきで、ユカリが手を押さえている男に向かって突き付けた。
「強いな、ユカリ」
「どういたしまして」
彼はあっさりと答える。こういうことだったら、と彼は思うのだ。こういうことなら、自分は何も考えずに、ただ、相手を倒すことだけを頭に置いて動けるのだ。
そして気絶している一人、間違って肩を打たれた一人の両方に視線をやりながら、ナギはうなづく。
「あなた達にはちょっとつきあってもらおう」
え、と手を掴まれている男とユカリが同時に彼女の方を向いた。
「このひとの傷の手当もせんといかんしな。ほら」
彼女はぐるり、と先の見えない平地の方へとあごをしゃくる。あ、とユカリは思わず声を立てた。
いつの間にだろう。ずらり、と馬に乗った人々がその平地にちは並んでいた。
「何とか、間に合ったようだ」
ナギはそう言って、空に向けて拳銃を一発、打った。
*
「どうもありがとうございます、ホノヘツの族長、サイ・ウェナンシ・ツェプシ」
大きな傘型の屋根を張った天幕の中で、ナギは足を折り畳んで座ると、丁寧に前に座る白い髭の長い老人に頭を下げた。
「頭を上げなさい、イラ・ナギ。我らが里の、目印の屋根の下にも高速通信があった甲斐があったというものだ」
レンガ色の、厚手の上下を身に付け、太い皮のベルトを締めたこの「族長」は片手を上げ、彼女にそう言った。やはり足を組んでいるのだが、ナギとは違い、胡座をかく形となっている。
真ん中には炉があり、そこには火が一日中焚かれているらしく、既に陽が沈んだというのに、天幕の中は暖かだった。
族長の側には、青年が一人控えている。馬でずらりと並んだこのホノヘツの者達が馬で駆けつけてくれた時に、真ん中に居た男だ、とユカリは記憶をひっくり返す。族長の補佐役か何かだろうか、と何となく足に嫌な感覚を覚えながら、彼は考えていた。
「古い知己のファイ・シャファ・マーイェ、それに彼女の夫である、族長ディ・カドゥン・マーイェを信じてはおりましたものの、この様に急な相談を、受けて下さるとは思ってもみなかったものです。本当に感謝致します。…ん、どうした?」
ナギはふと、隣に同じ様な体勢で座っているユカリを見た。そしてその神妙な顔つきにははん、という様に顔を緩めた。
「ツェプシ族長、少し足を緩めてもよろしいでしょうか」
「ほ?」
「どうやら彼は慣れない姿勢に足がしびれた様です」
すると族長は高笑いとともに、良いとも良いとも、と足を崩すことを勧めた。
「も、申し訳ございません」
そう言いつつもユカリはゆっくりと足を緩める。だがしかし、足を地面についた瞬間、彼はあ、とその場に転んでいた。まるで足の感覚が無いのだ。
「…大丈夫か、しっかりしろ」
ナギは中腰になると、彼に手を貸す。
「しばらくは伸ばしていた方がいい。挨拶は済んだ。楽にできるぞ」
「は、はあ…」
するとその様子を見ていた族長は、髭を撫でながらいっそうの高笑いを立てた。
「ゆっくりと滞在なさるがいい。いや、イラ・ナギ、それともお急ぎかな?」
「はい。色々として頂いて、申し訳ないのですが、先を急ぎたいのです。できれば、明日には、再び列車に乗れたら、と思います。それにゆっくりしているとまた、この様な輩がここにもやって来ますし」
ナギはちら、と天幕の開いた外の方へと視線を移す。その向こう側で、手当を受けた男を含めた三人が、拘束されている。
「我々は別に構わないがな。今更帝都の警察機関が手を伸ばしたところで、この大地そのものを全て捜索する訳にもいくまい。ここが我らの土地、どれだけ広くとも、空と風と大地その存在が我々の地図。彼らが幾ら来たところで、我々の居場所は突き止められまいよ」
「判りますが、できるだけ、乱は起こさぬよう、というのが、私を一時的に拘束している相手の申し分ですので。無論私もそれを好みます」
「そうであろうな。さて、では本論に入ろうかな。イラ・ナギ… 彼はいいのかね、この話においては」
族長はちら、とユカリの方を見た。
「はい」
「本当に? 大丈夫かね」
「おそらく、だからこそ、あの方も彼を付かせたのだと、思うのですが」
ユカリはしばらく足のことが気になっていたが、さすがにこんな会話をされては、耳をそばだてぬ訳にはいかなかった。どういう意味だろう、と彼はふと思う。
「なら良かろう。まあ中身とはともかく、長い話ではない」
「そうなのですか?」
族長はそうだ、と言うと、側についていた青年に、何ごとかを囁いた。はい、と青年は言うと、天幕を出る。ややあって戻ってきた彼の手には、馬乳酒と乳茶の壷がそれぞれ一つづつあった。
「どちらが好みかね、イラ・ナギ」
「乳茶をいただきましょう。本場のものが久しぶりに呑みたいと思っていました」
「そちらには?」
青年がユカリを見て問いかける。
「彼は…」
「見たところ、既に成人はしていそうだが? そう、やはりこっちであろう?」
族長はほほほ、と笑いながら、杯の中に、馬乳酒を注いだ。
さすがにそこで酒は呑んだことが無い、などとは彼には言えなかった。
「『落ちてきた場所』」
「はい」
ナギは馬乳酒を手に問い返す族長に対しうなづいた。
「建国の際に、初代の皇帝が、遭遇したという」
遭遇「した」。
その言い方に、何となくユカリは奇妙なものを感じる。そもそもここで彼女が初代の皇帝に対し、敬称をつけないことだけでも、彼としてはつい口を出したくなるのだが、今までの堂々巡りから、それは避けていた。
つまりはナギは、皇帝にも皇室にも、何の敬意も持っていないのだ、ということを彼はようやく理解し始めたのだ。
もっともそれを認めるにはなかなか彼の中でも葛藤はあった。今まで彼が出会って来た人間は、それが皇室の敵であろうが、それでも敬意は存在していた。いや、敬意があるからこそ、彼らは帝国政府に、皇室に対して反抗をしてきたと言ってもいい。
だがナギは。この見たところ、少し風変わりな格好をした女子学生は、違っている。はっきり言って、敬意どころか、興味が無い。
彼は皇太后カラシュから依頼され、彼女のために動くことに対し、誇りと喜びを持ってきた。それが自分の特権なのだ、と思ってきた。ところがナギは言った。こんなことはさっさと済ませて自分の場所へ戻りたい、と。
こんなこと。
なのに、彼女が皇太后に「お願い」されたことは、どうやら自分が今まで関わってきたこととは、何やら規模が違いそうなのだ。そして自分はその「手助け」に過ぎない。
そして現在、ナギは、と言えば、このほとんど初対面であろう北西の部族の長と、対等に話している。
誰なのだろう?
彼は今更の様に、自分の斜め前に座る彼女が判らなくなっていた。
自分の考えにまとまりが無くなってきつつあるのを彼は感じていた。それが初めて口をつけた酒のせいでもあることには、気付いていなかったが。案外口当たりの良いこの飲み物に、ついつい彼は、少しづつだが、杯の中身を空けつつあったのである。
「そのことか。それで、わざわざここに」
「こればかりは、地元の人々に聞かないと、判りません。地元の人々に直接聞いた方が早く、確実だと思いましたから。何せ学都でもこの話は一度も聞いたことは無かった訳ですから」
「それは当然であろう。イラ・ナギ。我々もそれを書き記すことは無い。書き記し残すことが危険となることもあり得る。いや、実際に、遠い昔において、我々の先祖は、それで多くの者が命を落とした。三代の陛下の代において、それはひどく激しく、そして、徹底していた」
「それも、学校という中では隠された歴史ですね」
ナギは苦笑する。
「それ故我々は、移動する民となった。かつてはあの男も、我々の部族とひどく近しい所から出たというのに、皇帝という地位についたことで、それまでの自分を消そうとしたのか、それとも、自分が皇帝となった経緯を消そうとでもするのか」
記憶とも歴史ともつかない口調で族長は言う。ナギはそれに黙ってうなづいた。
「単刀直入に言ってしまうのなら、イラ・ナギ、この辺りにはそなたの探している『落ちてきた場所』は既に無い」
「…だろうと思っていました」
腕を組み、重々しく答える族長の声に、ナギは乳茶を口にしながら答える。
「あの平地を見た時、そうであるとは思っていました。そう、かつてはあそこにあったのでしょう?」
「かつては。我々の世代がこの地に戻った時には、既にその姿は無かった」
「ではいつ頃消えてしまったのでしょう」
「イラ・ナギ、そなたこの地に鉄道が通り、駅舎が出来たのはいつの時代と思う?」
「六代の方の頃でしょう。ですから、せいぜいがところ、百年かそこらでは」
「そう。それまでは、確かにそこに居ったのだ」
居った。
その言葉はユカリの中でぼんやりと響いた。それはまるで、何かしら生きたものに対してつかう言葉ではないか。
「我々もずっとここに居る訳ではなく、時々思い出した様に、この祖先の地に引き返す、という習慣であったから、正確な時は判らないが。先々代の族長が、まだ若い頃であったか。子供の頃はあったはずだった『それ』が、長じて後戻ってみると、あの平地を残して跡形も無かったことに衝撃を受けた、という話は聞いておる」
「…」
ナギは黙って杯を床に置いた。
「あんなものが、どう移動したのか、など我々には想像もできないのだ」
「なるほど」
「しかしイラ・ナギ、今その存在を確かめて、あの方は一体何をなさろうとするのだ? そなたは聞いているのか?」
「聞いてはいます」
彼女は目を伏せた。
「しかし、それをどうするか、は私の判断に委ねられたのです。それを現在その身体でもって探すのも意志を確かめるのも、今となっては、私とあの方しかできないことなのです。本当は私の様な者を使うよりは、ご自分で探したかったのでしょう、あの方は」
ちょっと待て、とユカリは思わずナギの方を向いた。だがその言葉は、族長の側に控える青年の鋭い視線によって遮られた。そしてその男は、穏やかに笑みを浮かべると、彼の半ば空になっている杯を見ると、つぼを取り、近づいた。
「おや、もう無くなっているではないですか」
「いや、私は…」
「そうは言わずに」
青年はユカリの手に杯を取らせると、その中に馬乳酒をなみなみと注ぎ込んだ。
「今年は、結構な草の地が多かったせいか、馬の乳も濃いものが採れたことですし」
だからと言って。ユカリは再びゆっくりと口をつける。次第に身体が暖かくなって来るのが判るのだが、何故なのか彼にはさっぱり判らない。
「無くなった訳では、ないだろう。何処かには居るはずだ。イラ・ナギ、探すのかね?」
「仕方ないでしょう」
彼女は本当に仕方なさそうに答える。
「それを何とかしないことには、私は私を待つ人の所へは戻れないのですから」
「それは、あのカラ・ハンの人々の所かね?」
カラ・ハン?
ユカリはかなりぼんやりとしてきた頭で、それでも記憶をひっくり返す。確かそれは、かなり国境も近い草原に住む部族だ。やはりこのホノヘツ同様、草原を遊牧によって移動し、生活する部族の一つだった。
「いえ」
彼女は首を横に振る。
「あれはもう、昔のこと。それにあそこでは、私は私ではないでしょう。私は、私を私としてだけ見てくれるひとの所へ帰りたいだけです」
「そういう人が、居るのかね?」
低い声で、族長は訊ねた。ナギはうなづいた。
「ごくたまには、居るのですね。信じてはなかったけど」
あ、と杯を置いて、ユカリは思わず目を見張っていた。ひどく穏やかな表情が、そう言うナギの顔の上にはあった。
「だからさっさと私はこの『お願い』を片付けなくてはならないのです」
「と言うことは、結末を、そなたは知っているのだな?」
「…」
ナギは何も言わず、目を伏せた。族長はまあいいだろう、とつぶやいた。
「どんな道をこの帝国が進もうと、それはいつかそうなるべきものなのだ。そなたが何を選び、何をするか、我々には判らぬが、我々に出来ることは、その時その時の風を読み、空を読み、星を読み、それで生きていくことのみ。そなたがどんな道を選ぼうと、この時の中で生きていくのみの我々が何も言う筋合いはあるまい」
「ありがとうございます」
「それにしても。何故にそなたたった一人に、そんな役を天は負わせるのであろうな」
「さて」
ナギは口元を上げた。
「それもまた、世界の面白きということ」
「なるほどな」
はっはっは、と声を立てて、族長は笑った。
しかしその声も既に、ユカリの耳には遠かった。杯は置いていたが、既に回った酒のせいで、ひどい眠気が迫っていた―――