3-1 神話と歴史の違いとすり替え
「…ま、歩こうか」
ナギはすっとかがむと、トランクを手にした。
「話が…」
「歩きながらの方が都合がいい」
そしてさっさと一人で歩き出した。ユカリはその後に慌てて続いた。
実際、ずっと調子が狂いっぱなしなのだ。確かに相手は、彼の主人の命じた、手助けのための相手だ。しかし、これほどに、自分が振り回される羽目になるとは、彼は考えてもいなかった。
「おそらく、次の列車で、さっきの奴らはやってくる。その前になるべくこの地を見ておきたい」
「何故」
「探しているものの手がかりが何か掴めるかもしれない」
「ではその探しているものとは、何なんだ? あなたはああ言ったけれど…」
「どう言った?」
「どうって…」
彼は口ごもる。言えない。どうしても言えない。彼女が言った、「帝国を終わらせる」なんて言葉、彼には決して言えない言葉だった。
「帝国を終わらせる、ということか?」
ユカリはその言葉に反射的に目を細めた。それは、自分にとってありえない、あってはならないことなのだ。返事をすることもためらわれる。彼は首を縦に振ることだけでようやく答えた。
「本当だ。あれが私の目的だ。…と言うか、あなたの主人の、『お願い』だ」
「あの方が――― 何故」
「さあ。そこまでは私からしたら、推測の域を出ない。あの方が本当に何を考えているかなんて、私にはさっぱり判らない。考えてみろ、私があの方に直接出会ったのは、ついこの間、いや、ほんの五日かそこらの前だ。長いつきあいというなら、あなたとの方が長い訳だ」
つき合い、だなんて。彼はその言葉に戸惑う。
「そんな… だって俺達は」
「あの方が、どんなお考えであろうが、従うのが使命、か?」
「…」
そのナギの口調には、明らかに嫌悪感が混じっている。彼は感じる。
「別にいいけどな。ただとにかく、今回の件については、あなたも色々知っていないと、はっきり言って、私の動きが取りにくいんだ。だから聞かれれば私も話す。だが、あなたが聞かない限り、私はいちいち説明するのは嫌なんだ」
「じゃあ聞いていいですか」
「何」
「ナギあなたは、何を、具体的に探そうとしているんだ?」
ふうん、と言う様に、ナギは彼の方を仰ぎ見た。
「いきなり核心をついてきたな」
「だって、それが一番の問題でしょう」
「確かに。…ユカリ、『落ちてきた場所』のことを聞いたことがあるか?」
「『落ちてきた場所』…?」
「ここは建国の地。あなたはこの帝国の建国の由来を聞いているか?」
「一応。歴史も一応初等学校では学んだことだし」
「どうだった?」
「…初代、イリヤ大帝は、元々北西の一部族の出身だったけど、ある時、天からこの国土の統一を命じられて…」
「そう、そういう奴」
あっさりと彼女は済ませる。建国の崇高な歴史も彼女の口にはひとたまりもない。
「では聞く。あなたはそれを信じている?」
「信じるも信じていないも、それが歴史だろう?」
「まあ普通、連合の奴に言わせれば、十中八九は冗談だと笑うと思うぞ」
「は?」
ユカリは思わず立ち止まった。数歩前を歩きそうになったナギはくるりと振り返る。その拍子に、長い三つ編みがざらり、と揺れた。
「立ち止まるなよ」
「どういう意味ですか?」
「だから、そんなことは、向こうの感覚では、『ありえない』んだよ」
ナギは首を大きく回す。
「何が… ありえないんですか?」
「だから、天から命じられて、とかそういうくんだりは、向こうの感覚で言えば『歴史』じゃあない。それはおとぎ話か、いいところ伝説だ。少なくとも、事実の積み重ねの『歴史』じゃあない」
「しかし」
「もっとも、国史としてはそれでいい。と私の師は言ったがな」
「師? それは第一中等の?」
「いや、あそこは官立だからな。そういうことは教えない。とにかく歩こう。その方が話しいい。ほら、だんだん景色が変わってきた」
確かにそうだった。ずっと駅舎から、枯れた草がさわさわと音を立てる野原に一本伸びた道を彼らは歩いていたのだが、その時いきなり、視界は開けた。
「確かに、行けば判る、とはこの通りだな」
道はそこで終わっていた。そして、そこには平地がただ大きく広がっていた。
しかも、その平地には、それまではあった草が一本も生えていない。
「…」
思わずユカリは言葉を無くした。
「…向こう側が、見えない…」
「全くだ。見える範囲に木の一本も見えない。いや、生えないのか…」
ナギはその乾いた大地に足を踏み入れる。彼女の編み上げ靴がざっ、とその土を確かめるかのように、横に動いた。乾いた土は、細かく、さっと灰色のほこりを立てる。
「死んでるな」
「死んでる?」
ナギはそれには答えずに、しばらくその平地の上をふらふらと歩く。そして時々立ち止まり、やはり先程の様に、足先やら踵やらで、その乾いた土を確かめる。
そしていきなりその場にうずくまった。ユカリはそれを見て、慌てて彼女のそばへと近づいた。
「気分でも…」
「いや」
彼女は短く答える。その目は、彼の方を見ることはなく、じっと真っ直ぐ、向こう側の見えない平地を見つめていた。
「ほら」
言われて、彼はえ、と声を立てる。彼女はまっすぐ、そのふくらんだ大きな袖にくるまれた手を伸ばしていた。ひじより先は、白い、カフスだらけの長い袖口にくるまれたそれが、真っ直ぐ先を指す。
「何ですか?」
「向こうが見えないだろう?」
「ああ…」
それがどうしたのだろう、と彼は思う。
「だけど、今まで歩いてきた道の脇は、草原だ。この違いは何だと思う?」
「違い?」
「究理学は学ばなかったのか?」
「一応のところは。でも、一体?」
「不自然だと、思わないか? ここいらだけが、こんなに広がって、何も無い。線でも引いた様に、何も無い。例えば、最新鋭の機械を使って、ここいらに住宅地を作ろうとでもするなら、これも判る。何となくこれは、山を切り崩した時の姿によく似ている」
「見たことがあるのか?」
「通ったくらいだがな。結構長い間、あちこちを回ったから、色々見ることはしてきた」
「そんなに長い間、男爵はあなたを連れ回していた?」
「何でそこに男爵が出てくる」
「旅行でしょう?」
「誰が旅行だと言った? ただ私が回っていた時のことだ」
何となく合点がいかないが、ユカリはそれ以上は聞かなかった。いや、後で聞こう、と思った。とにかく聞かれたことには答える、とこの少女は言ったのだ。
「山を切り崩して、機械でもって一様にならした時の、草や木の根をはらんだ土が全部掘り返されて、その下の遠い昔の土だけが剥き出しになった時の様だ。根も何も残っていないから、次の草が生えようもない。それだけじゃない。ひどく乾ききって、ここいらの雨の少ない地方では、水を留めておくことすらできなくて、それからずっとこうなっているという感じだ…」
「どういうことだ?」
「先程私は『落ちてきた場所』のことを話したな、ユカリ」
「ええ。それが?」
「それがかつてはここだった、と言ってもいいということかもな」
「え? 一体何が」
「さてそこで、さっきの話の続きに戻るんだが」
彼女は立ち上がる。そして足割れのスカートの裾についたほこりをぱっぱっ、と払った。
「逆に、天からの何とやらが、実際に歴史上にあったこと、と考えてみる」
「おとぎ話じゃなかったんじゃ?」
「おや、あなたも少しは返す様になったんだな」
はっとして彼は口を塞ぐ。するとナギは実に楽しそうにあはは、と笑った。
「私は、そういう性格の悪さが好きだよ」
「せ、性格の悪さ?」
「ああ。まあそれはいい。さてここからは私の師の受け売りだ。私の師はな、イヴ・カナーシュと言うんだが、知っているか?」
「イヴ・カナーシュ? と言うと、もしやあの…」
「そう、A級の国家不敬罪でしばらく指名手配されていたが、この程、連合にめでたく亡命なさった、あの歴史学者だ」
名前くらいは、さすがに彼も知っていた。しかし、彼が知っているくらいである。その名前は、帝国中に響いていたと言ってもいい。
「私はホロベシ男爵のおかげで、運がいいことに、彼から歴史学を学ぶことができた」
「運がいいって」
「男爵は正規の教育を受けていない私をシラさんと同じ第一中等に編入させるために、一年ほど別宅で猛特訓をやらかしたのさ。まあ私にも多少の基礎はあったが… さすがにちょっとあの時期には参ったね」
その割には口調が楽しそうだ、と彼は思う。
「そこで彼が連れてきたのが、一流だが、指名手配される様な、職にあぶれた学者達だった。かくまうことを条件に、ほとんどただで私に学問を一気に押し込んでくれた。そればかりは奴に感謝しているがな」
「…ってあなた、ナギ、まさか、学校に普通に行っていなかった?」
「ああ」
彼女はあっさりとうなづく。
「そんな余裕は無かったかな。何せ私には父姓が無い」
「え? だって…」
「今持ってるこれも、男爵が金で買ったものだ」
「だけど、勉強相手に、それだけのことをわざわざ、してやるというのは… 男爵はそんなに立派な人だったのか…」
皇宮で、見た時の印象をユカリは思い返す。しかしそれは決して良いものでは無かったはずだ。ホロベシ企業体の社主として、一代で貴族の位を手にした男は、決して彼の目にはそんな善良なことをする様には見えなかった。
するとナギは声を立てて笑った。
「―――無論そんな訳が無い。奴には奴で、それなりに計算があった」
「計算? しかし頭のいい少女を育てることで」
「いや、あいにく私は頭がいいだけじゃない。顔もいいのだ」
平然と彼女はそう言いのける。ユカリは思わず顔を歪めた。
「ついでに言うなら、ちょっとした特異体質なんでな。奴はそれを知って私をとりあえず捕獲しておいたのさ」
「捕獲、ってあなた、人間に使う言葉じゃないよ」
「まあ仕方なかろう。私は人間じゃないからな」
またそう言ってからかうのか、と彼はふとむっとする自分を感じる。
「また話がずれたな。とにかく、その私の歴史学の師が言っていたのだが、その建国の歴史が本当だったらどうする、ということなんだ」
「本当じゃないんですか」
「連合の常識で考えれば、それは嘘だ。でっちあげだ、ということになる」
「何故」
「帝国の皇帝、は神でなくちゃならないだろう。だから、その神であるためには、何かしらのしるしが無くてはならない。そこで、伝説をでっちあげ、この人は特別ですと言い伝えていく。それは昔、連合が連合としてまとまる前の国々では、あちこちに『伝説』として残されていたものだ。だが、我が国では、それが『歴史』として残されている。それは何故だろう?」
「本当じゃ、無いのか?」
「だから、常識では、本当ではない。嘘だ。だが、それが常識をひっくり返すような事実だったら、どうするか、ということなんだ」
何となくユカリは訳が判らなくなってきた。
「例えば、我々の皇帝陛下、それにあの方、は、どうだろう?」
「どう、って…」
「不思議だと、思ったことは無いのか? 一度でも無いのか? 無かったなどと言わせない。あれこそが、我が国が連合と相対した時に、最も向こうの常識から言ったら奇妙なことなのだから」
そして少し考えてから、彼女は付け足す。
「いや『奇妙』どころじゃないな。『異常』だ」
「そんな言い方は!」
思わず彼はナギの白い襟を掴んでいた。
だが、ナギは一瞬驚いた様に口を開けたが、やがて口元をきゅっと上げた。
そして、こうはっきりと発音した。
「やめろ」
はっ、と彼は手を離した。
離してから、思わず自分の手を見た。離そうとは思っていなかった。ここまで不敬なことを言い並べている相手など、自分は決して許しておける訳ではないのに。
なのに、その声に曳かれたように。
彼は自分の手と彼女の顔を何度か目で往復する。
「あなたの感覚では、不敬ということは判っている。だがそういきり立つな。例えば向こうの、連合の連中にしてみれば、そんなことは、普通のことだ。不敬なんて言葉は向こうではまず使わない。使う必要が無いんだ」
「しかし異常、とは」
「異常だから、異常だ。そう言っているだけだ」
「けど…」
「けど? …ああ、でもそんなことを言っている場合ではなさそうだな」
はっとして彼は、ナギの言葉の意味を取る。耳を澄ます。さわさわ、と音が飛び込んでくる。
「どうする」
「すぐに危害を加えられることは無いとは思うが… 走れ!」