2-2 途中下車―――トゥリスツクにて朝食
しかし期待していた以上に、トゥリスツクの街は、小さく、そして乾いていた。それに加えて、朝の空気はひどく冷え込んでいる。午前六時半。未だ何処の食堂も空いてはいないのではないか、と改札を通るユカリは感じた。
だがナギは、そんな彼を後目にどんどん先へと歩いていく。
「何してる、行くぞ」
「少し中で待たないか? 風邪をひくよ?」
「時間が惜しい」
短く彼女は言うと、どんどん彼を置いて一人で歩いて行こうとする。ユカリは慌てて立ち上がると、小走りになって彼女に追いついた。
「でも何処の食堂もまだ」
すると、ナギはにやりと笑う。
「あなたは本当に大して何処にも行ったことが無いんだな。ここがどういう街かは知らない?」
「え」
「無論私も来たことがある訳じゃないが、ほら、見てみろ」
トランクを持っていない方の手で、彼女はやや遠くを指さす。
「…工場ですか」
「ああ。それも、結構大きなものだ」
そういえば、この地方には集団農場のようなものが作られている、と彼は以前学んだことを思い出す。
「こういった所へ通う人々は、決してここに昔から住んでいる人ばかりじゃない。ここに出稼ぎに来ている場合も多い。そういう人のための食堂くらい、あちこちにあるはずだ」
「って、ちょっと待ってくれよ」
「何だ?」
「ということは、あなたは、その格好で、工場の人々の中に?」
「悪いか?」
「悪いとかそういうのではなくて…」
悪いとか、そういうのではなく――― 確実に、浮く、と彼は思った。
ただでさえ、銀の人形の様なこの美貌である。作業服姿の人々の中へ入ったら、確実に浮くだろう。
「構わないさ」
だがあっさりと言って、彼女は再びどんどん歩みを速めていく。
仕方が無い、と彼はそれに付いていくしかなかった。それが自分に与えられた仕事なのだから。
駅から数分歩くと、少しばかり大きな通りに出る。朝早いだけあって、石畳のその通りには、自動車はもちろん、馬車も自転車の姿も無い。だがしばらく左右を見渡しながら歩いていると、不意に、良い香りが二人の鼻をついた。
「ほら言った通りだろう?」
これでもか、といわんがばかりの笑顔を、ナギは浮かべた。そしてユカリは、不覚にも自分がその顔に見とれてしまっていたことに気付いた。
心配していた程、その店には作業服の労働者が多いということは無かった。どちらかと言うと、この通りの店の売り子達が集まってくる様な場所だった。
だが混み合ってはいた。その辺りに開いている店が殆どないこともあるだろう。すいませんね学生さん達相席で、と銀色に光る盆を持った女性が、それでも容赦なく告げた。
「どうやら、あなたまでが学生に思われているようだ」
その店は、横に長い椅子が幾つも並べられ、そこに足を差し入れる様にして座る方式になっていた。彼らは隣に座ったが、前にも横にも、地元の人間ばかりである。
メニュウと言える程のものもなく、皆が皆、席を取ったら、店先に出向いて、幾つかの種類のある「朝食」を受け取りに行く形らしかった。
「取ってこようか?」
とユカリは訊ねた。「自分で行く」と断るか、と思ったら、彼女は案外あっさりと頼む、と言った。
「じゃあAを頼むわ、兄さん」
そして付け足す様に、そんな口調でナギは言った。何となくその口調は彼の背にはくすぐったい。なるほどきょうだい。その様に彼女が自分達という組み合わせを外に定義づけたのだ、と彼はその時初めて知った。明らかに、こんな若い二人連れ、しかも片方は中等学校の制服を露骨な程にまとっている。張り紙をしておかないことには、下手な好奇の目を引くな、と彼も納得をした。
余談だが、ナギがAとか言っているのは、彼らにとっての言葉のアルファベットであり、我々のアルファベットでは無いことを断っておく。ここで彼女が言っているのは、この帝国公用語におけるアルファベットの最初の文字のことであり、必ずしもそう発音するというものでは無い。
「お待たせ」
「ありがとう」
「何、きょうだいで旅行かい?」
湯気を立てる茶と、黒い、密度の高いパンにユカリが口をつけていると、差し向かいに座った若い男達が、声を掛けてきた。いきなり何だ、とユカリは思ったが、驚いたことに、ナギはそれに対し、にっこりと笑いかけている。
「ううん、旅行じゃないんだけど」
「へえ。じゃあ何かい? 学生さんだろ? 帰省か何か?」
「ええそう。ちょっと遠いものだから、兄さんが迎えに来てくれたの。そうよね」
「あ、ああ」
いきなり如何にも少女、という口調になったので、彼は慌てた。だが違和感は無い。むしろ、それまでの口調自体が違和感のあるもののはずだった。
「何じゃあ、ここいらの出なのかい?」
「それって、学都の学生さんの制服だろ?」
「何なに、学都の学生さんなの?」
更に斜め向こうの娘が、話に加わってくる。
「あったまいいんだね。だってさあ、ねえ、聞いたことあるよ。だいたいここいらだって、一年に一人か二人しか出ないじゃん。それともいいとこの娘さん?」
「やだそんなことないですよお」
わざとらしい程にナギは手をひらひらと振る。
「じゃああたまいいんじゃん。すごいよねえ」
そうそう、と今度はその横の娘がうなづく。ああやっぱり、とユカリは内心冷や汗をかく。
だがナギはと言えば、実に平然として、にこにこと食事を続けている。車中のあの仏頂面や、冷笑は何処へ行ったのだ、と何となく彼は割り切れないものを感じる。
「でも、ここの出じゃないんですよ。も少し北なんですけど」
「って、ずいぶん向こうだねえ」
「あんまり長い時間列車に揺られていて、お腹も空いたしって。だから、ここは初めてなんですけど」
「そーだよね」
そうだそうだ、と更に増えた人の輪がうなづきあう。
「でも、一度来てみたかったんですよ。だって、ここって今の皇家のかたがたの出た地だってことじゃないですか」
「ええ? そうだったかなあ?」
人の輪が少しばかりざわつく。その中から、「星虹新報」を四つに折って読みながら食事を取っていた、勤め人らしい男が穏やかに口をはさむ。
「残念ながらお嬢さん、それはやや見当違いじゃないかな」
「えー、そうですかあ?」
「確かに『このあたり』ではあるんだが、もう少し向こうだよ。ユグヌスルツク」
「あら」
そう言って、ナギは「お兄さん」の顔に唐突に視線を移した。
「どうしようお兄さん、間違えたみたい」
「どうしようって」
「行ってみたいなあ。ねえおにーさん、そこには何か、そんなしるしみたいなものってあるのかしら」
「しるし、ってものは無いけど…なあ」
ねえ、と辺りはうなづきあう。
「とにかく行ってみれば、判るんじゃないかな」
そうだね、そうだよ、という声が辺りで飛び交う。
そうなのかあ、と如何にも不思議そうに、ナギはうなづきながら、それでもパンをかじり、お茶に砂糖を入れ、腕に入った赤い野菜の煮込みをいつの間にかたいらげていた。
車中で食べたいから、と店主にいくらかの黒パンと、油紙に包んでもらったバタ、それにミルクを一瓶売ってもらうと、再び駅へと二人は戻り始めた。
「何だか浮かない顔だな」
低い声でナギはささやく。その声は、人気の無い通りでも、耳を澄ませなくては判らない様な類のものだった。
「…そういうつもりだったんだな」
「何が」
「俺は、あなたがその格好で行くのは浮くから困るだろう、と思ってたんだけど、あなたはどうやら、目立つためにその服を着てたんだ」
「何だ、今頃気付いたのか?」
「いいのか?」
「いいのかも何も無い。情報は自分で動かなくては手に入らない。こんな目立つ格好、使わなくては損だろう」
「しかし」
「ほら、それにもう一つ、釣り上がったものもある」
え、とユカリはちら、と辺りを見渡した。確かに、何かしらの気配がある。
「店を出てからずっとだ」
「…」
気付かなかった。言われるまで。不覚と言えば不覚。思わず彼の中で、気付かなかったことと、先に言われてしまった悔しさが湧き起こる。
「…次の列車が何時か判るか?」
「え?」
「次の列車だ。そう一日に何本も何本も来る訳じゃあない。すぐさま駅まで行って待っているなど、向こうに行き先を知らせる様なものじゃないか」
「…しかし、先程、あなたはユグヌスルツクへ行くということは口にしたじゃないか」
「それはそれだ。あいにく、私はいちいち監視されながら旅行を楽しむことはできない質なんだ」
そういう問題だろうか、と思いつつ、彼はそれとなく時刻表を出してみる。
「どうだ? ここからユグヌスルツクへ行ける列車は」
「近距離だから…ああ、今だったら、この街との行き来をする列車がちょうど出てる」
「あとどのくらい?」
「それでも、あと三十分は…」
ち、と彼女は舌打ちをする。
「じゃあ指定は要らない。どうせ大した距離じゃないからな」
「どうする気ですか」
「さて…」
ナギは歩きながら、トランクを持たない方の手で、口の横を軽く引っ掻く様にする。
「ここいらで高速通信が掛けられるところはあるだろうか?」
「駅にはあったが」
「どちらにせよ、駅か。ではもう撒くことは考えてる暇は無いな。駅へ行くぞ、ユカリ」
「駅へ」
一度そう繰り返してから、彼はああ、と返事をした。しかし返事はしたはいいが、決して納得している訳ではない。一体何を警戒しているというのか。
しかし疑問を持っている暇があったら、動くべきだ、とすぐに彼は頭を切り替えた。それまで同じ、ゆったりとした足取りで、二人は再び駅へと足を向ける。
駅の職員に、高速通信を使いたいの旨を話すと、職員は、料金がかかるよ、と二人に告げた。構わない、とナギは答えた。
「ほい、交換が出たよ」
「ありがとう」
ナギは受信機を耳に当てると、送信機に向かって、ユカリの耳にしたことの無い地名を口にする。少しの間、ナギは口をつぐみ、耳に当てた受信機の向こう側の音に意識を集中しているかの様だった。だがその表情がふっと変わる。相手が出たのだ、と彼は思った。彼女の耳に当てた内容が判る訳ではないが、そう思った。
「シャファ?」
と彼の耳には聞こえた。
「そう久しぶり。先日はありがとうと伝えて欲しい。それから、私たちは、ひとまずユグヌスルツクへ行く、と」
それだけだ、と言って彼女は受信機を置いた。それだけで済むのか、と彼はふと思う。
職員は乾いた声で、備え付けの時刻計を見ると、金額を無造作に口にする。ナギは自分の財布から数枚の銀貨を出しながら、待合室は何処か、と職員に訊ねた。
「では行きましょうか、兄さん」
そして再び、その芝居を繰り返すことを、彼女はどうやらユカリに強要するらしい。彼は苦笑しながら、再びああ、と答えた。
「ここで待ってていいのか?」
「いいだろう。どうせそろそろ通勤して来る人々が居る。人が集まったら、そうそう向こうも手を出しては来ない」
「向こう」
「気になるか?」
組んだ足の上に肘を乗せて、彼女は頬杖をつく。
ならないと言ったら、それはさすがに嘘になる。ユカリは正直言って、かなり気になっていた。
「聞きたいなら、聞いてしまった方がいいぞ? 気持ちが楽になる」
「だけどそれは、俺の」
「仕事の範囲じゃない? 全く、あの方はあなた等にどういう教育をしてきたんだ」
「…ナギ」
「怒ったか?」
つ、と彼女の白い手が伸びて、彼の眉間を指す。
「谷間ができてる」
「…それは…」
「正直に言ってみたらどうだ?」
「怒って… る。ああ、確かに」
「ふうん? 何でだ?」
「何でだ、って…」
あの方を侮辱する言葉など。彼は口の中でそう続ける。彼の主人、帝国で最も高貴な女性を、侮辱する言葉など、彼には許せることではなかった。
「ふうん、怒ることはできるんだ。では、ただの人形ではないということだな」
「どういう意味なんだ?」
胸の中が、ひどく熱くなる。いや胸だけではない。背中から、頬まで。すると、ナギはそんな彼を見て、ぷっと吹き出す。
「何がおかしい」
「い、いや… 何かひどく可愛らしいな、と」
「は?」
ますます彼は、言われていることが判らなくなってきた。
「あのなユカリ、私はあなたの主人じゃないんだから、疑問を持ったら、ぶつけりゃいいだろう!?」
苦笑いを浮かべたまま、ナギはとうとうそう吐き出す様に言った。
「しかし仕事の…」
「だから! それは、あなたの主人が、そうしろと言ったのか? 仕事以外のことには気を取られるな、と」
「え?」
ふと彼は問い返した。そういえば。
「私はあの方が、そんな馬鹿な命令を下すとは思ってはいないんだがな。それとも、あなたが育った場所では、そういうことを言うのか?」
「育った場所…」
確かにそうだ、と彼は思う。ずっと、そうだった。
「…ええ、そう。そうだった。我々は、そういう仕事につくために育てられるから、与えられた仕事には疑問を持つな、とは言われてきたけど」
「ふうん。それはだけど、そんなこと、あの方に直接、言われたことがあるのか?」
「…」
どうだろったろう。ユカリはとっさに記憶の箱をひっくり返す。今まであの方、皇太后カラシェイナに仕えてから二年というもの、何度も直接お会いして、御言葉をかけてもらうことはあったが…
そういえば。彼は思わず口に手を当てる。
「あったか?」
ナギは少しばかり前屈みになると、その金色の目で、のぞき込む様にして彼を見る。彼は黙って首を横に振った。
確かにそんなことは無かったのだ。
「ところでユカリ、落ち込んでないで、ちょっとあれを見てくれないか?」
「俺は何も、落ち込んでなんか…!」
「その元気があればいい。あっちだ」
彼女の金色の瞳は、斜め右を向いている。その視線の方向へと目を動かすと、丸い帽子をかぶり、新聞を広げている男が居た。寒さよけの襟巻きで、口元が隠れている。
「さっきから、私達の方をちらちらと見ている。実にうるさい」
「ではあれが?」
「だろうと思う。それに、おそらく一人じゃない」
「撒くのはあきらめたんだったかな」
「ああ」
「ではどうするつもりで」
「さてどうしようかな」
くすくす、とナギは笑った。