2-1 都市間列車―――ナギの置かれた状況
がたがた、と通路に少し人の出入りがしだしたのを感じて、ユカリは目を覚ました。
巻いて寝ていた備え付けの毛布を外すと、少しばかり寝乱れた髪をかき上げる。おさまりの悪い黒い髪の毛は、自分と関わった女性達が皆、どうしてこうもまとまりが無いのかしらね、と苦笑してはなでつけるものだった。
だがしかし、この目の前で眠っている少女にそれは無かった。
もう、帝都を出てから一昼夜を越えていた。
ウドゥリシルツク行き都市間列車に乗ってから、それだけの時間が経っている。
都市間列車と言っても、この北行きの線は、決して帝都近辺を走るそれとは比べてはならない。むしろ、大陸横断列車とよく似ている。
この20両編成の列車を引く気動車は、帝国が担当する西行きの横断列車「翼嶺」を開発した時の設計者と会社が担当している。20両の車両の編成も、横断列車のそれをなぞったものだ。
彼らが乗る二等車は、ちょうど真ん中あたりに位置する。時々乗務員が回ってきて、ポットの湯が足りないかどうか聞いてくる。ナギはそのたびに、熱い湯を足してくれる様に聞いていたことを彼は思い出した。
窓の外には、ちょうど遠い山地から陽が上る所だった。今までに見たことの無い景色だった。
ふと熱い茶が欲しくなり、彼はポットを手に取る。すると、その拍子に彼女の毛布に触れ、バランスを崩したそれは彼女の肩から落ちた。
ああ風邪を引かせてはいけない、と彼は慌てて毛布をナギの肩へと掛けようとする。
だがその手は止まる。彼女の目が不意に開いた。
「…あ、こ、これは」
「…やあおはよう… ああ、茶を入れる? 私にも一杯もらえないか?」
彼女もまた、髪を気怠そうにかき上げた。
「さすがに丸一日乗り続けるというのは、少し疲れるな」
「だから一等にすれば寝台がついていたものを…」
「旅行というものは、疲れるものだ」
それより茶をくれ、と彼女は言うと、首を回したり肩を上下させたりして、身体をほぐす。
「…ユカリ、今、何処だ?」
「今ですか?」
湯気の立つ黒茶を入れたカップを手渡すと、彼はカバンの中から、学生の教科書くらいの冊子を取り出した。白地に赤や青で文字が華々しく書かれたそれをぱらぱらと繰る。中には数字が所狭しとばかりに印刷された―――鉄道の時刻表だった。
「今、何時?」
彼は訊ねる。それはかなり素っ気ない口調だろうな、と言いながらも彼は思う。
別に、もう少し馴れ馴れしく話せない訳ではない。だが、それ以上気安くすることは、彼にはためらわれた。
殊更に同年代の少女に使う言葉、ということは考えない様にしていた。同年代と言えば、幼なじみのアイノといういい例があるのだが、彼女と話すようにしろ、と言われてもそれは彼には困った。
アイノに関しては、長い時間を一緒に育った幼なじみだからそうできるのである。いきなり出会わされた相手に、敬語がどうのと言われたところで、いきなり馴れ馴れしい口調で話すということは、彼にはできない。
「五時半だ」
そしてそれに対するナギもまた、ひどく素っ気ない口調で帰す。
「では、次がトゥリスツク。今はまだその途中というところか」
「トゥリスツクか… そこは、大きな都市か?」
カップを持たない方の手で、彼女は窓に腕を乗せる。
「都市、ではない… な。都市に行きたいのか? …ナギさん」
「と言うか、そろそろこの辺りだろうな、というのがあるんだが、情報が足りない。情報を仕入れたい」
「情報?」
「そう、情報」
「何に関しての?」
「探さなくてはならないものがあるんだ。だけど、それがどうにも曖昧で…」
そう言って彼女はず、と茶をすすった。
「ちょっと湯をくれ。濃すぎる」
「濃すぎる? かな?」
色合いといい、温度といい、彼が普段皇宮の食堂で口にしているものに合わせたつもりだった。
「果樹ジャムとかあればあれでも美味いとは思うんだが…」
「ジャムを入れる?」
思わずユカリはそう声を立てていた。するとそれを見て彼女はくす、と笑った。
「邪道だ、と言いたそうだな」
「…いや、その…」
「帝都だったらそうだろうな。たぶん邪道だ。黒茶は黒いままに、が本筋だろうな。だが私が居た学都の第一中等は、今でも乳茶は好まれているし、北東の学生は、ジャム入りの茶をごちそうしてくれた。どっちも私は好きだ」
「…なるほど」
そう答えながらポットを渡す。そしてふと、彼はナギに問いたくなった。
「聞いてもいいかな?」
「どうぞ? あなたは仕事で、それが仕事に役立つと思うのだろう?」
「そうだけど」
「だったら聞けばいい」
何となくその言い方には少し棘を感じたが、関心はそれを上回った。
「帝立第一中等の生徒さんだったね?」
「ああ。本科の二年だ」
帝国の学制は、初等学校の予科本科の六年のみが義務教育である。
その上の中等学校・高等専門や大学校はそれだけの余裕が家庭にある者や、能力が優秀で、それなりの援助を国なり個人なりから受けられる者しか行くことはできない。
「では来年卒業ということか。高等専門には進むのかい?」
「や、どうだろう」
「しかしあの家だったら、その気があれば。あなたは首席なんだろう?」
「その気は無くは無いが、…ああ、そういえばユカリあなた、私のことを大して聞いていないのだったな。何で聞いていないんだ?」
「え?」
「あなたの仕事は、私の手助けをするということなのだろう? その相手のことを知らずして、どうして手助けなどできる?」
「それは、あなたが誰であっても」
「かもしれないが、それでは行き当たりばったりだろう。時には次の行動を読んで居るくらいの方が頼もしいが」
彼は思わず言葉を無くした。確かにそうだ。
「すみません」
「じゃなくてなあ」
彼女はカップを置くと、やや苛立たしげに言い放った。
「まあいいさ。そういう風にはしてこなかったんだ? だったらこれからすればいい。何か私に質問は他には?」
「質問」
「私と行くなら、私をもっと知れ、と言ってるんだ。でもそれは命令じゃないぞ。私はあなたの主人じゃない」
それはそうだ、と思う。手助けはしろ、と言われてはいるが、自分はあくまで皇太后の部下なのだ。この少女の部下ではない。
「でもそれだったら、私もあなたをもっと知る必要はあるな。先に聞こうか?」
「いえ」
それは困る、と思った。自分達はあくまで隠密の部下なのだ。あまり素性を知られるのは望ましくない、と彼は思う。
「…え… じゃあナギ、先ほどの話の続きでいいかな?」
「どうぞ」
「上の学校には行く気は無い?」
「私的には、無い」
「何故?」
「まあ別に… 勉強は何処でもできる。それに、私個人がどうこう言ったところで、資金を出すのは他人だ。その人がどうこう言うかによるな」
「あれはあなたの家ではなく?」
「あれがホロベシ男爵の家ということは聞かなかったか?」
聞いてはいた、と彼は思う。
「私はあそこの一人娘の勉強相手だ」
「ホロベシ男爵の… ああ、シラ嬢」
「そう」
彼女は不意ににっこりと笑った。
「アヤカ・シラ・ホロベシ男爵令嬢。彼女の勉強相手として、私はあの家に引き取られたことになっているんだがな」
「ああ… だから資金は、男爵家が…でも、ホロベシ男爵は、つい最近、亡くなったということじゃ」
彼女はうなづいた。
「死んださ」
そして彼は、驚いた。死んださ。これは雇用主に対してする言葉づかいではない。思わず彼は眉を寄せる。だが言った本人は涼しい顔で続けた。
「おかげで色々ややこしくなった。困ったものだ。おまけに当のシラさんときたら、捕まってしまうし…」
「捕まって?」
ますますユカリの眉間のしわは深くなった。
「そう。…って、本当に、あなた聞いてないのか?」
「聞いてって、何を」
ふう、とナギは首を横に振る。その仕草がまた彼をやや苛立たせる。
「だから何を」
「本当に、知らないんだな?」
「知らないも何も。あなたがホロベシ男爵の令嬢の友達だとは今知ったことじゃないか」
「もう一杯茶をくれないか?」
低い声で彼女は言った。言われるままに、彼は再び茶を注ぐ。同じ葉を使ったせいか、先程よりは色が淡い。
そしてそれを口にしながら、彼女は続けた。
「掴まえたのは、あなたのご主人じゃないか」
「は?」
「私が学校を留守にしているうちに、彼女を拉致したのは、あなた方じゃないか!」
彼女は両手でカップを持つと、声を張り上げた。思わず彼は身体を堅くする。
「拉致? …そんな、人聞きが悪い…」
「どう言いつくろっても、同じだ。彼女は捕まったんだ。あなた方に!」
ふと彼の頭の中に、出てくる前にアイノが言ったことが浮かび上がる。芙蓉館に居たのは、第一中等の少女だった。あれが、ナギの言う「シラさん」なのか、と彼は気付く。
「私はちょうど旅先で男爵に死なれてしまったので、その後の始末やら、連合で会わなくてはならない相手とか居たから、なかなか彼女と連絡が取れなかった。連合の辺境の街からやっと高速通信がつながったので、聞いてみたら、学校に居たはずの彼女がいつの間にか副帝都の本宅に居るし。何かよく判らない事態になっていて、今から帝都へ向かわなくてはならない、というからそのまま帝都の屋敷へ行ったら、彼女は来ていないと執事のコレファレスは言うし」
「旅先? あなたは帝都に来る前に旅行に出ていたのか? 男爵と」
「ああ。ちょっとした用事があってな。ホロベシ男爵は私を連れて、連合で人と会う約束をしていたんだ。ところが私は馬賊に拉致されるし、男爵はその後流れ弾に当たってな」
ぱっ、と彼女は手を広げた。
「亡くなられたと」
「おかげで連合でも、国境近い都市に約束は変更になったし、遺体を低温保存しなくてはならなかったし」
「―――大変だったね」
「大変は大変さ。それでいて、帝都にようやくやってきたら、シラさんは居ないし、そうなると、今度は葬儀は一体どうなる、という具合になる」
「シラ嬢が喪主ということに?」
「と、なって欲しいのはやまやまなんだが」
ちっ、とナギは舌打ちをする。
「男爵には、萩野井に囲っていた女性が居てな」
「は」
萩野井市は、帝都に出入りすることのできる人々の家族達が住む副帝都に対し、その別宅を置く場所として裏では囁かれている。
だがそれは、このまだほんの少女が、さらりと言うべき言葉ではない、とユカリは思う。
「いくらあなたが御令嬢じゃない、と言っても、そういうことはあまり口にすることじゃない、と俺は思うけど」
「私は事実を言ってるに過ぎないぞ。別にだから何ってことはない」
「だけど」
「それに、そんなこと言っている場合じゃないんだ」
「と、言うと?」
「向こうの女性には男の子が居るんだ」
あ、と彼は小さく声を立てた。それは、致命的だ。
「それにしても、さすがにお腹が空いたな… 次のトゥリスツクでひとまず降りよう。何かしら落ち着いて食べて、それから捜し物について考えたい」
そうだね、と彼は答えた。