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1-2 ユカリ、銀色の少女に引きあわせられる

 タキ・ユカリ・センジュがこの皇宮に勤める様になったのは、彼が帝都に入ることのできる十六歳になった時だった。

 この「帝国」において、帝都は政治の都。子供の入るべき場所ではない。

 皇室の人間ですら、それは同様であり、皇太子以外の、十六にならない子供は、その都市に足を踏み入れることはできない。

 皇帝陛下の幾人か居られる夫人かたがたから誕生した皇女がたもそれは厳しく守られる。彼女達は、十六の誕生日を帝都で祝われるが、それまでは副帝都の離宮でそれぞれ過ごされる。

 子供の声は在る時ですら、たった一人。しかし現在はそのたった一人も、この都には存在しない。

 現在の皇帝陛下には、男子がお生まれにならない。

 皇太子の母たる皇后陛下も、それ故にこの「帝国」には現在存在しない。

 それだけに、現在この帝都において、最も高貴な女性は、ユカリの主たるカラシェイナ皇太后となる。

 最初にこの新しい主に会った日のことを、彼は忘れられない。

 おさまりの悪い黒い髪の毛を、それでも必死でなでつけて、新しい服で身を固めて、同じ里の出身である彼らの若き長に連れられ、その部屋へとやってきた。

 それがあの部屋だった。皇宮の長い長い廊下の、後宮よりのある場所の壁を押すことによって現れる、小さく薄暗い。

 さすがに、そこに皇太后が御自らやってくるとは、まだ子供だった彼は、思ってもみなかった。

 明らかにそこは隠し部屋だった。そしてひどく質素な部屋だった。古い家具と、古い絵が、古い燭台のぼんやりとした灯りによってのみその輪郭を明らかにされる、そんな場所だった。

 ユカリはその場所に親しみを感じた。いや、彼の育ってきた里には、そんな場所があちこちにあった。一瞬彼は、自分が何処に居るのかと戸惑った。若き長であるモエギがどうしたのだ、と声をかけ、肩に手を置いてくれるまで、その錯覚は続いた。

 そんな場所に、わざわざこの帝都で、いや帝国中で最も高貴な女性が姿を見せるとは思いもしなかったのだ。

 しかし、それは現実だった。


「待たせたわね」


と明るい声を響かせて、彼らの入ってきた側とは逆の扉を開けて入ってきたのは。栗色の長い髪を編み込んで上でまとめ、穏やかな色合いの、飾り気の無い服を身に付けた、そのひとは。

 そして彼は目を疑う。

 これが、皇太后さまなのか、と。

 確かにそれは聞いていた。知ってはいた。

 だが、聞いている知っていることと、目の前に現れたものを現実として受け止めることができるか、は別問題である。

 とりあえずその時、ユカリは目の前に現れた女性が皇太后であるということを、すぐには信じられなかった。

 だって。

 彼は自分自身に言い聞かす。

 だって皇太后さまは、現在の皇帝陛下の母君ではないのか?

 現在の皇帝陛下には、たくさんの皇女がたが居る。一人をのぞいたその全てが既にそれぞれの地位に似合った名家と婚儀を執り行い、既に家庭に納まり、子供も居るというのに。

 なのに。

 彼はやはり目を疑った。

 なのに何で、こんなにこの方はお若いのだ?

 現在未婚の皇女は、末のマオファ・ナジャ一人だったが、その皇女と同じくらいの年齢に、この目の前の女性は、彼の目には映った。


「こら、ご挨拶をしないか」

「あら、いいのよ、萌葱」


 あ、と彼はその時気付く。この方は長を真名で呼ぶのだ。


「いいえカラシュ様、最初が肝心なのです」

「あら」


 楽しそうな声がそう跳ねた。


「そういえば、その昔あなたもそうだったわね、萌葱」

「またどのようでも良いことをよく覚えておられる」

「あらどうして? 今の代の残桜衆の小隊長にも、そんな時代があったことは変わりないことよ? いつかこの子がそうなるかもしれないでしょう?」

「は」

「よろしくね、紫」


 そして、彼女はユカリに向かってその真名を呼んだ。

 皇太后さまを名前、しかも愛称で呼んでいる。その事実に驚きながらも、彼はその時は、とにかく教えられた通りの礼をした、という記憶はある。

 何せその時の新たな自分の主に対する印象が強すぎて、自分が何をその時言ったのか、どう頭を下げたのか、何も記憶に残っていないのだ。

 後でモエギに聞いた話によると、代々のこの残桜衆の小隊長だけが、彼女を愛称で呼ぶことが義務づけられているのだという。


「『義務』なんですか?」


 ふと気になって、その時ユカリは聞いていた。並んで歩くと、まだ、長の顔を見上げなくてはならなかった。

 すると当時の自分の倍の年月を生きてきた男は、ふう、とため息をつきながら言ったのだ。


「…『義務』なんだよ、これは」


 彼は首を傾げた。するとモエギは少しばかり苦笑を浮かべると、自分と同じ黒い髪をくしゃ、とかき回した。


「私のことは愛称で呼びなさい。できるだけ自分の思うことを言いなさい。それがあなた、私の残桜衆の長の義務です」


 モエギはそう彼女の口まねをした。


「不思議な方だろう?」

「はあ…」


 曖昧に、彼はうなづいた。


「俺がここにお前くらいの歳にやってきた頃と、あの方は全く変わらない。俺の前の代も、その前の代も、そうだったろう」

「…」

「それが、皇后だった方、ということなんだ。よく覚えておけよ、ユカリ。そして、その方にこの様にお仕えできるのは、我々しかないんだ、ということもな」

「はい」


 そして今度は、はっきりと彼は返事をした。



 二年前のことだった。なのにまだはっきりと思い出せる。

 それからは、皇宮内で庭番の一人として勤めながら、時々その様に呼び出されるのを待つ身となった。

 呼び出され、その姿を前にし、仕事を受け、それをやり遂げるのが、彼の何よりの喜びだった。

 実際彼は皇太后の覚えめでたく、仲間内でも有望株と噂されるようになっていた。幼なじみで、少し遅れて皇宮に入り、表向き後宮の女官として仕えているアイノも、そう口にすることがあった。

 もっとも、当のユカリにしてみれば、そんなことはどうでもよかった。

 ただ、いつか長になれたらな、と思うことはあった。

 そうすれば。

 彼はそのたび最初の日にモエギに言われたことを思い出す。

 そうすれば自分はあの方を愛称でお呼びすることができるのだろうか。

 既に彼の背は長と同じくらいにまで伸びていた。


   *


 翌朝、彼は指定された時刻に、その第一中等の少女を迎えに出かけた。

 行き先はその少女が知っているから、自分はそれをひたすら警護し、彼女のすることを手助けするだけ。

 それはひどく単純な命令であり、そしてひどく難しい命令でもあった。

 曖昧すぎる程、曖昧なこの命令には、どんな場所であれ、自分の一番良い判断を要求される。一体その少女が何をするために、自分はついていくのか、それすらも判っていない。無論それは聞くべきことではない、と思ったから聞かなかったが、なかなかそうしてみると、多少の不安が彼の中には生まれていた。

 時計を見て、彼はその少女の滞在しているという屋敷の前に、小型の乗合自動車を呼び止め、それから呼び鈴を引っ張った。からからから、と良い音が響き、すぐに一人の男が、扉を開けた。三十の半ば、と言ったところであろうか。良い服を着た男は、お待ちしておりました、とユカリに向かって礼をする。


「おいでになりましたよ、ナギさん」


 そして声を張り上げて、中の誰かを呼ぶ。ナギ。そうナギマエナ、という名だった。ユカリは資料の中身を思い出す。

 イラ・ナギマエナ・ミナミ、という名だった。

 この国の人間の正式名称は、三つの部分に分かれる。真ん中が名前であり、その上につくのが母姓であり、下につくのが父姓であった。生まれてくる子供はその両方を持つのが常とされ、結婚後も、男子は父姓を、女子は母姓を変えることはない。

 それにしても。ユカリは思う。ナギマエナ、というのは何かおさまりの悪い名前だ、と彼は感じていた。かと言って、今この男が呼んだ様に、ナギ、という名だけだったら、それはそれで何やら軽々しすぎる様な気もする。

 短い名前でも優雅さを感じさせるようなものもあるのだが、どう聞いても、この名はこの屋敷に住む少女には似つかわしくはない、と彼は思った。


「早く。お待ちですよ」

「わかってる」


 編み上げ靴特有の足音が邸内の廊下に響く。そしてその足音に混じって、やや低めの少女の声が、彼の耳に飛び込んできた。


「いい加減お切りになったらどうですか? あなたには当世風の方がお似合いでしょう」

「これが好きなんだ」


 そして声と共に、扉が大きく開かれた。

 あ。彼は思わず目を瞬かせた。

 銀の、人形だ。


「あなたが、あの方の言われた私の同行者か?」


 彼ははっとして慌ててはい、とうなづく。


「イラ・ナギマエナ・ミナミだ。しばらく頼む」


 言われてあらためて彼は目の前の少女を眺めた。

 背が高い。無論自分よりは低いが、この制服を着ている様な少女にしては高い方ではないだろうか。銀に近い金の、細い髪。当世風に耳の下あたりで切られ、ウエーブはついていないが、全体的にふわふわとしている。

 整った顔立ち。そして金色の目。大きくも小さくもないが、すんなりと涼しげな印象を与える。

 肌の色も、北西の人間の血でも混じっているのだろうか、実に白い。

 黒と白だけの色を持つ第一中等の制服に、その姿はひどく映えた。闇に浮かび上がる銀の人形。そんな印象さえ、瞬間的にユカリの中には浮かんだくらいである。

 だがそんな風に見惚れてしまったせいで、彼は差し出された彼女の手に気付くのが一瞬遅れた。


「車が待っているのだろう?」


 ふふ、とナギマエナは笑った。差し出された右手を握り返しながら、彼はええ、とうなづいた。


「行き先はあなたがご存じとお聞きしました。とりあえずご用意しましたが」

「中央駅へ。それではコレファレスさん、後は頼む。時々居場所を伝えるから、その時々に様子を伝えて欲しい」

「かしこまりました。お待ちしております」


 そして彼女はすっとユカリの前を横切って、止められていた小型の乗合自動車の中へと入って行った。

 あ。

 そしてその時、彼はその髪の毛が当世風などではないことに気付いた。

 確かに耳よりやや下でその髪は切られている。しかし、それは上だけのこと。彼女は背中にたてがみを持っている。後ろの一房だけを、長く伸ばし、細く編んでいるのだ。

 その髪が、彼の前を横切っていく時に、一瞬宙に舞った。

 目が、離せなかった。

 だがすぐに彼は我に返り、コレファレスと呼ばれた男に一礼する。そして慣れた調子で車へと乗り込んだ。少女は頬杖をついて、右側の窓から外をのぞいていた。


「…お荷物は」

「これだけだ」


 彼女は手にしていた中型の革のトランクを後部座席の自分とユカリの間に置いていた。それは確かに彼女の様な女子学生がよく持つようなものではあった。しかし少女が片手で持ち運びできる程度である。大した量は入る訳では無い。


「これだけ? …ですか?」

「ああ。遠距離の移動には、大量の荷物は要らない。あなたこそ、荷物は?」

「私は後ろの荷物入れに」


 ふうん? と彼女はちらりとユカリの方を見る。そしてくす、と微かに笑う。

 何となく彼は、嫌な気分がした。


「出してくれ」


 ナギマエナは運転手に命じた。


「はい。何処まで参りますか? お嬢さん」

「中央駅だ」

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