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8-2 ナギ、皇帝と再会

「お久しぶりです」

「十日と少しぶりじゃあなくて?」


 外見は同じ年頃の女性二人は向き合う。ナギは臆せず、相手の前に進み出る。

 そこはひどく静まり返っていた。二、三人の女官も、何処かひどく重苦しい表情のまま、立ちつくしていた。


「どうやら、私のお願いを、ちゃんと叶えてくれたようね」

「できることは、しました。それ以上でもそれ以下でもありません」

「充分よ」


 皇太后は、つと立ち上がる。女官達の表情がやや変わったが、ナギがそれに向かって冷ややかな視線を送ると、はじかれたように元に戻った。


「海が次々に霧が晴れて、遠い水平線が見える様になったということよ。内務大臣は、すぐにでも、海上海底の調査を行う、と私に報告してきたわ」

「晴れましたか」

「それを予想していたのでしょう?」

「ええ」


 そのつもりで、男爵はナギの正体を皇太后に話したのだ。


「お約束は、果たされるのでしょうか?」

「私のできる範囲ではね。でも、あの娘は、私がどうこう言うまでもなく、それを掴みとるでしょう?」

「無論そうですが」


 ナギは当然の様に答える。


「ですが、どんなことでも、保証があると無いでは、大きな違いでしょう?」


 そんな口の利きようを、と女官達の表情がひどく渋くなるのにナギは気づく。しかしそんなことは彼女の知ったことではない。彼女にしては、かなりの譲歩をしているのだ。


「そうよね」


 皇太后は、ふっと笑った。


「それに、あなたにはそれを私に要求するだけの権利はあるわ」

「ええ」

「私のできる範囲で、保証は与えましょう。元々男爵から陛下に提出はされていたわ」

「ありがとうございます」


 ナギは頭を下げる。皇太后は彼女に近づくと、顔を上げる様に言った。


「でも呼んだのは、そのことじゃあないのよ」


 こちらへ、と皇太后はナギを手招きした。そして自ら扉を開けると、中へ、とナギを導いた。女官達にはついて来ないように、と皇太后は命じる。


「ここは…」


 高い天井、広い部屋。その天井にまで届く窓には、カーテンが引かれている。全く光が入らない訳ではないが、外の鮮やかな明るい光はずいぶんと弱められている。

 その部屋の奥に、天蓋のついた大きな寝台が置かれている。


「皆、外で控えていてちょうだい」


 皇太后はその部屋に居た者達に、そう命じた。白衣を来た医師と、看護婦と、そしてその部屋付きの従者と内務大臣が、皇太后の言葉で、一斉に向こう側の扉の向こうに消えた。

 皇太后は寝台に近づく。そしてそばに寄ると、そこに眠る一人の人物に向かって、ささやく様に話しかける。


「―――目を覚ましてちょうだい」


 優しい声だった。それはあくまで、母親が子供に対して掛ける、そんな言葉だった。

 そして皇太后の子供は、一人しかいない。


「最後の皇后が、やってきたのですよ」

「さいごの…」 


 弱々しい声が、広い部屋の中に、揺らいだ。


「いらっしゃい」


 皇太后はナギに向かって言う。ナギは軽く目を細めると、それども言われた通りに、近づいて行った。


「お前は…」


 皇帝は、ほとんど消えそうな声で、二人にしてくれないか、と母親に告げた。皇太后は判りました、とうなづいた。


「何かあったら、次の間にいるから…」


 何か。何かとは何だろう。その疑問は既に意味を持たない。皇帝が明日をも知れない命であるのは、一目瞭然だった。

 ナギは一歩――― 二歩――― ようやく首を自分の方へ向けることができるだけの皇帝の側へと近寄る。


「私を、覚えていたか?」

「…ああ」


 皇帝は弱々しい笑顔を浮かべる。ナギは腰をかがめて、男と同じ位置に視線を落とした。

 皇帝は、若い男だった。少なくとも、外見はそうだった。ナギが、皇太后がそうであるように。時間の中から取り残された様に、その姿は即位した時のままだった。


「…お前のことは、忘れたことが無い」

「私は、そんなに印象深かったか?」

「お前は… 彼女によく似ていると思った。その髪、その瞳、あの時、そう思った… だけど、違った」

「…」

「お前は、私を思いきりにらみつけただろう?」

「ああ」


 ナギは短く答える。


「お前だけだ。私をその様な目で見たのは」

「私はあなたが皇帝だなんて、知らなかった。知っていたら、もう少し、違った道をたどってきただろう」

「そうだろう」


 そして軽く、皇帝はせき込む。大丈夫か、とナギはその背を軽くさすった。


「長くはないのだな」

「そのようだ。母上は上手く、私の願いを聞いてくだすったのだな」


 ナギは手を止める。


「あの岩石を壊したかったのは、あなただったのだな」


 そうだ、と皇帝は微かにうなづく。


「もはやこの時代、人間を越えた存在の皇帝など、必要は無い。それによって、あの連合との格差が開いていくことの方が、どんなに怖いことなのか、誰も気づかない。…いや、気づいているはずなのに、それが、私の名でいつの間にか、縛られている。私の知らないところで」

「私は、あなたがそれを命令していると思っていた。唯一無二の皇帝陛下」

「確かにそうだ。だが私には父上の様な、行動力は無かった… 言い訳がましいと思うだろう。情けないとも思う。だが、私はできればこの様な地位にはつきたくなかった。政治が嫌であるとかそういうことではない。私は、ただの人間で居たかったのだ」

「それで、政治から逃げたのか?」


 ナギは静かに、だが容赦なく問いかける。そうだ、と皇帝はうなづいた。


「私は逃げたのだ。父の代からの有能な閣僚が、私が即位した時にはまだ多数居た… 任せておくべきだ、と思った。…私には、父上の様な、支配者の器はなかった」

「そして皇太后さまの様にも」

「そうだ… 母上の様に、現状を変えて行こうとする意志も、何も…」

「情けないことだな」

「お前だけだ、そんな風に、言ったのは」

「そうだったかな」

「そうだ。あの春の家で、忍びで行った私に、お前は容赦なく罵詈雑言を投げつけたではないか」

「そうだったかな」

「そうだ。そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。だから、私は、ナジャの母である彼女に似ていたことより、お前のことをよく覚えていた」

「愚痴る男は、私は嫌いなんだ。確かにあの時あなたは最愛の奥方を亡くして悲しかったのだろうが、それを悲しむのに何故他の女を抱かなくてはならないのかとな。それに私も気が立っていた」


 乾いた声で、ナギは言った。


「私を、恨んでいるだろうな?」


 皇帝は目を開いて、ナギを見上げる。


「恨んでは、いた。それは間違いない」


 そうだろうな、と皇帝はつぶやく。そして軽く目を伏せる。


「だが、今となっては、どうでもいいことだ」

「そう思ってくれるのか?」

「あなたを恨んだところで、この身体が元に戻る訳ではない。無論あなたのせいでは無いとは言わない。あなたのせいであるのは、確かなんだ。私が延々あちこちを彷徨わなくてはならなかったのも」

「今からでも、私はお前に何かできるだろうか」

「いや…」


 ナギは首を横に振った。


「それでも、こうなってしまったから、会えた人もいる。…もしもこうならなかったら、私はあの町で、ずっと春の家に閉じこめられ、飼い殺しにされていただろう。それよりは、ずっとましだ」


 そしてもう一つのあったかもしれない未来を。


「あの時もしも、あなたが私をそのままここへ連れてきたら――― 私はそれはそれで、閉じこめられ、いつか逃げ出すことばかりを考えたろう。一所に長い間居られなくなったのは、確かに辛いが…」


 ナギは笑みを浮かべる。


「そう悪い、人生でもないだろう」

「そう言って、くれるのか?」

「あなたのために言うのではない。私が、そう思うのだ」


 そうか、と皇帝はうなづいた。


「…しかし何か、私にできることはないか?」

「要らない。この身体があれば、何とでも生きていけるだろう」

「お前は、強いな」

「強い訳ではないが」


 ナギは言葉を止める。そしてほんの少し、何か考えていたが、やがて口を開いた。


「私は、私でしかないからな。誰のためでもない。私のために私は生きたいだけなのだから」


 なるほど、と皇帝はかすれた声でつぶやく。


「お前の様に生きられたら、誰も不幸にせずには済んだろうな」

「不幸になるのは、その者の勝手だ。誰かを陥れられる程に強い力など、実際、誰も持ってる訳ではない。そうなりたい奴だけが不幸になるだけだ」


 皇帝は、それを聞いて苦笑した。


「…この後はどうするのだ?」 

「この後…?」

「あなたには、まだしなくてはならないことがあるだろう。あの石が壊されて、あなたのその身体を維持していく物は無くなった。だからもう時間の無いのは判る。だがその前に、皇帝陛下、あなたはあなたとして、しなくてはならないことがあるはずだ」

「…」

「あなたの後は、どうするつもりだ」

「…考えては、いる」

「ではなるべく早く、そうするべきだな。遅すぎたと悔いるのは、何度もすることではない」


 そうだろうな、と皇帝は微かに笑った。


「…ナジャを、私の元へ呼ぶ様に母上に言ってくれないか」  


 判った、とナギは言うと次の間へ続く扉を開けた。


「話は終わりました。ナジャ皇女を呼ばれるように、とのことです」

「ナジャを?」


 皇太后は微かに目を細めた。


「私が言われたのはそれだけです。用は終わりました」

「待って」


 何か、とそのまま立ち去ろうとしたナギを、皇太后は呼び止める。


「用は、終わったと思います」

「それだけ、なの?」

「それだけ、です」


 それだけを口にすると、ナギはまだ何か言いたげな皇太后の前を通り過ぎる様にして、その部屋からも出て行った。皇太后は女官に、ナジャ皇女を呼ぶ様にと命じた。

 黒い短い髪の、男装の皇女が入ってきた時には、ナギがこの部屋に居たという名残は何処にも見られなかった。

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