表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/25

1-1 不本意なれどご命令とあらば

 まだ、戸惑っていた。

 何だって、今、自分なんだろう? 

 ユカリはやや早足で歩きながら、ついそんなことを考えてしまう。普段はこの皇宮の中では、もっとゆっくり歩きなさい、というのが彼の主の口癖だった。

 その主に朝もはよから呼ばれたにも関わらず、彼はその口癖をすっかりと忘れていた。むしろどんどん足取りは早くなっていく。それが普通の歩き方であればあるだけ、端から見れば奇妙なものであり、廊下ですれ違う朝食を運ぶ女官達は思わず立ち止まって、口を押さえていた。

 はっきり言って、注意力が低下していたと言ってもいい。非常に彼の職業から言ったら、けしからんことではある。

 ただ、彼にも言い分はある。何せ寝不足だったのだ。

 昨夜、幼なじみで同僚のアイノがいきなり同じ敷地内にある彼の部屋の扉を思い切り叩いて、こう言ったのだ。「お願いだから泊めて」。

 それがどういう意味か、彼もよく知ってはいたし、そんなことでどうこうする様な職場ではない。

 だがそれが自分のもとに降りかかってくるとは思わなかった。しかもこの幼なじみから。それにまだ自分達は、そんな年齢だとは思っていなかったのだ。

 泣きながらそう言ってきた友人をとにかく落ち着かせようと、何かした訳ではないが、結局夜通しそばに居てやった。

 一晩明けて、ようやく落ち着いた彼女が眠ってしまってからでは、もうまとまって眠る時間は期待できなかった。主からは彼女が来る前から朝一番に来るように、と言われていたのだ。主の命令は彼にとって絶対だった。

 しかし命令ではなく口癖だと、つい忘れがちになる。

 そしてつい、扉を叩いてしまった。


「…あなたは扉を叩くんではなくてよ、紫」


 彼ははっとして中からのその声に顔を上げた。そうだ、しまった。慌ててそのまま扉を開ける。

 そもそもその部屋に扉は無いはずなのだから、そんな動作をしてはいけない。

 無いはずの扉を開けると、無いはずの小部屋があり、そこには、彼の主が待っていた。


「かなりの注意力散漫よね」


 くすくすと笑いながら、窓の無い薄暗い部屋の中、主は掛けて待っていた椅子から立ち上がった。そしてすっと彼の前に立ち、頬に手を伸ばす。この様に差し向かいになると、主を見下ろす形になってしまうので、彼はふと目をそらす。


「顔色も良くないわね。寝不足でしょう? 嫌な子ね。これからお仕事だというのに」

「申し訳ございません」

「まあいいわ、あなたも若いのだから、色々あるのでしょうし」

「そ」

 

 んなこと無い、と言おうとしたが、主の視線にその言葉は遮られてしまう。


「別に構わないのよ? ちゃんと仕事さえきちんとしてくれればね。それがあなたの役目でしょう? 紫」

「は、はい」

「それにあなたはもう少し負けん気を持たなくては駄目よ。…っと、そんなことを言っている場合ではないわね」


 ぱん、と手を叩くと、彼を真名で呼ぶこの主は、小さな文机に乗せてあるものをひとまとめにして彼に手渡した。


「資料と、版図内査証よ」

「これは…?」


 彼の戸籍名が書かれた査証とは別にある、一枚の小さなカードを彼は手に取る。


「あら、見たこと無かったかしら。そうよね、あなたはまだこの周辺しか出たこと無かったし。鉄道全線の自由券よ」

「鉄道――― ですか?」

「ええそうよ、あなたそう言えば乗ったことは無かったかしら?」

「いえ、何度か、副帝都や、萩野衣あたりまでなら」

「それじゃあそれは都市間よね。今回は、あなたに大陸横断鉄道にも乗って欲しいのよ。ちょっと厄介かしら?」

「いいえ!」


 反射的には彼はそう答えていた。この主にそんな風に思われるのは心外だった。


「経験は無いけれど、一生懸命やります。仕事の内容をどうぞ教えて下さい」


 ふふ、と主は笑みを浮かべると、再び椅子にかけた。その椅子も決して、豪華なものではない。作り自体はしっかりしているが、その主の身分からしてみれば、それは非常に質素なものだった。しかも今の流行とはかけ離れた大きさ、非常に年代を感じさせる。

 そんな椅子に座ると、この決して大柄ではない主が、よけい小さく見えてしまう。その身分を聞かなかったら、ただもう「可愛らしい」という形容がぴったりなのだ。

 長い栗色の髪は、当世風とは無縁に長く伸ばし、編み込んで上にまとめてある。そこに銀か黒の髪飾りをつけることはあるのだが、決してそれは派手な形ではない。簡素なものである。好みとしている服は、当世風に近いものがある。と言っても、昨今の女性達が好む、膝までのスカートなどは決して履かない。いいところ、あの女子学生達が履く足割れスカート程度の長さ、膝下の半分というところである。それにそんな時には必ず靴下ばきをきっちりと履き込んでいる。それは正しい、と彼は思う。

 当世風とは程遠い。しかしそれが一番主にはよく似合っている、とユカリは思う。

 そしてそう思ってしまった後に、彼はいつでも思うのだ。この感情は不敬だ、と。

 何故なら。


「お仕事の内容そのものは単純なのよ」


 主はそんな彼の内心になど気付かない様子で、話を続ける。


「その資料を見てちょうだい」


 言われる通りに彼は「資料」を見る。そこには、幾枚もの写真をも挟まれている。大判のその写真は、何やら学校で一斉に撮影したもののようにも思われる。

 白い大きな襟と、蝶の様に大きく結ばれたふんわりとしたタイ。そして地の服は、それとは対照的に――― 黒い。


「黒、ですか」


 写真は色を映し出さない。光と影のみである。それでも、紺と黒では、微妙な色合いの差が現れる。薄暗いこの部屋でも、ユカリの目は、それを判断していた。


「ええ黒。第一中等の生徒なんだけど。ほら、そこに丸打ってあるでしょう? 彼女」


 彼は言われた通りにその丸をつけた少女を見る。ちょっと見る限り、当世風の短い髪の毛をしている様にも見える。色の薄い髪、色の薄い瞳。写真の中で、あまり大きな部分を占めている訳ではないからはっきりしないけれど、第一中等の制服の色が色であったので、奇妙なほどにそれは淡さを感じる。


「つまりね紫、あなたに今度、この子と一緒にしばらく行動してほしいの」

「行動、ですか――― その内容は」


 あまりにも漠然とした言葉が主の口から発せられたので、彼は何となく戸惑う。いつもなら、何かしら具体的な命令が出たものだ。なのに。


「内容は、彼女が知っているわ。私も彼女が具体的にどう動くのか判らないから。だから彼女の動きの手助けをしてほしい、それだけよ」


 すると。彼は思う。この少女がすること自体は主はご存じなのだろうか。

 しかしそれは彼の聞く範囲のことではない。何せ、この主は、現在この帝国で最も高貴な女性、皇太后なのだから。


「判ったかしら?」


 主である皇太后は、その可愛らしい顔に笑みを浮かべて、ユカリに答えをうながす。はい、と彼はうなづいた。



 その同行する少女を、翌朝迎えに行ってほしい、とユカリは言い渡された。慌てて部屋に戻り、旅行仕様の荷物をまとめ始める。

 着任以来、近場の職務であちこちに出向くことはあったが、大陸横断鉄道を使用して、などというのはさすがに初めてだった。これは大事だ、と彼は思った。だが、その「大事」が、一人の少女の手助け、というのが、少しばかり気抜けがしたのだが。

 いずれにせよ、それは彼の敬愛なる皇太后の命令なので、自分は全力を尽くさなくてはならない、と彼は内心、燃えていた。燃えて、荷造りをしていた時だった。


「…何してるの?」


 彼はぎょっとして声のする方を見る。それは自分の寝台の方からだった。


「アイノお前…まだ自分の部屋に戻ってなかったのか?」

「主さまが今日は休んでいいっておっしゃったわ。だから」

「主さまが?」

「でもその様子だと、あんた仕事のようね。今朝、呼ばれて、あたしのこと、何か言われなかった?」

「言われなかった、って… お前何かしたの? アイノ」


 そう彼が言うと、アイノは長い黒い、二つに分けたお下げ髪を大きく揺らせた。


「したの、じゃないのよ! されたの」

「されたって、何を」

「ああやだやだやだ。絶対あんたってそうなんだもの。あたしが昨夜何回、あんたに抱いて抱いてって頼んだのか、それでも意味判らないのよね? 言うんじゃなかったわ、こんな恥ずかしい言葉」


 ユカリは荷物をまとめる手を止めた。


「鈍感」

「…お前まさか、…その」

「されちゃったのよ。でも安心して。お相手は、男じゃないから」

「ちょっと待てよ」


 彼は立ち上がり、友人のそばに寄った。アイノは見上げるユカリからふいっと目を逸らす。


「待てよ、じゃないわよ」

「って、お前、それって…」

「あたしが最近主さまの命で、芙蓉館に出入りしていたことは知ってるでしょ?」

「ああ、確か後宮の、…客人専用の館だよな? たくさん館は敷地内にはあるけど…」

「最近、そこに女の子が一人連れられてきて、世話を命じられたんだけど」


 女の子? ユカリは軽く眉を寄せる。どうも最近お互いに女の子に縁があるらしい。


「何、その女の子ってのは、そういう類の娘なのか?」

「ううん、そうじゃないわ。だって第一中等の制服だったもの。あたしだって判るわよ。白い大きな襟に白いタイ。真っ黒な制服なんて、第一しかないわ」


 まただ、と彼は思う。そしてまさか自分の同行する相手がそれではないか、と思わず考えてしまう。


「第一中等で、何かいいとこのお嬢さんみたいだから、あたしも丁寧に相手していた… つもりなんだけど…」

「ちょっと待てお前、その『お嬢さん』に何かされたのか?」


 う、とアイノは喉から声を立てる。そして寝台に座る自分の前でしゃがみ込むユカリの首に腕を回した。よしよし、と彼は友人の背中に手を回すと、それがやがてぴくぴくと動き出すのに気付く。どうやら泣いているらしい。

 もっとも、彼らは声を立てて泣くこととは無縁だった。小さな頃から、そう訓練されているのだ。

 やがて一時の嵐が治まったのか、アイノはそれでも顔を伏せたまま、小さな声でつぶやく。


「…そりゃ、あたしだって残桜衆の一員だから、いつかそんなことが必要になったら、それはやるしかない、って思ってたわ。だってそれがあたし達の仕事じゃない… 主さま… 皇太后さまから最も信頼される、隠密の… 直属の部下なんだから… だけど、それでも、最初は、あたし、あんたとしたかったのよ」


 ユカリは回した手でぽんぽんと背を軽く叩く。確かにそのくらいだったらしてやっても良かった。彼女は友人だし、頼まれれば、それは。ただ昨夜の取り乱した様子では、さすがにそういう気にはなれなかったが。

 残桜衆、と彼らは呼ばれている。アイノが言う通り、彼らはこの帝国の皇宮において、皇太后から直接の命を受け取って動く、隠密だった。

 その成立は、既に百年程さかのぼることになる。

 元々「残桜衆」というのは、かつてこの帝国が統一を果たす三代の皇帝の御代において、最後まで抵抗を続けた藩国「桜」の残党だった。

 それは長い間に分裂と増殖を繰り返し、いつの間にか、本体は何処に行ったのか判らなくなっていたが、その一派が六代の皇帝の御代において、当時の皇后エファ・カラシェイナの元についた。

 それ以来約百年、彼らは皇后そして皇太后の直属の部下として、その手足となって働いている。

 もっとも、この帝国において、皇后および夫人が直属の部下を持ち、政治に参加することは禁じられているので、あくまで彼らは隠密である。普段は、この皇宮において、何かと別の仕事についている。

 そして、その必要に応じて、皇太后カラシェイナの直々の命令が下るのである。


「…ごめんね。仕事に出かける矢先に」

「いいよ、別に」

「ううんそうは行かないわよ。あたしはお休みをいただけたけど、あんたはそうじゃないわ、せっかくのお仕事なのよ。体調も万全にして行かなくちゃ。…ごめんね、何か目赤い」

「本当にいいって」


 そう言って、ユカリはもう一度、彼女の背を軽く叩いた。そして身体を離すと、今度は正面から向き合った。


「けどお前、その芙蓉館に居るお嬢さんって、誰なのか聞いているか?」

「ううん」


 アイノは首を横に振る。


「聞いていないわ。確かに第一中等の生徒さんだってことは確からしいんだけど…あたしが知るべきことではないし」

「そうだよな」


 その送られてきた「お嬢さん」の世話をするのはアイノの「仕事」。しかし、その「お嬢さん」の素性に関心を持つのはその範疇には無い。それ以上の関心をもつべきではない。それが二人の共通した考えだった。


「何か主さまにもお考えがあってそうなされているのだとは思うわ」

「そうだよな」


 彼はうなづく。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ