6-3 爆薬材料を薬局で調達せよ
「ナギ荷物は…」
「だから、身軽な方がいい、って言っただろう! 最初に!」
それはそうだ、と彼も思う。
「後のことは、何とでもなる?」
「そうだ」
そうなのだろう、と彼は思う。実際、彼も、財布だけは服の内側に入れたままだったのだ。
「じゃあナギ、すぐに海岸の方へ?」
「いや、薬局へ行ってくれ」
あ、と彼は走りながら気づく。
「だけどそれだけで、大丈夫なのか?」
「大丈夫だ、と思う」
思うだけでは困るのではないか、と彼は背後から追いかけてくる気配を感じながら思った。
「こっちだ」
ナギは唐突に彼の手を引っ張ると、道を曲がった。
「こっちからだと、薬局のある方に近い」
「よく知っているな? ああいう所に居たんだろ?」
「ああいう所に居たからって、皆が皆、閉じこめられている訳じゃない。アージェンには前貸しがあったが、私はあくまで、あそこの部屋を借りて商売していたようなものだったからな」
そういう違いがあるのか、と彼はこんな場合なのに、感心した。
「ほら、あそこだ」
彼女は三階建ての建物が軒を並べる辺りに来ると、一軒の店を指した。
「改装したな。ずいぶんと明るくなったものだ」
立ち止まり、呼吸を整えてから、二人は扉を開く。中には、眼鏡を掛けた白い服の若い男が一人店番をしていた。
「いらっしゃい。何をお求めで?」
にっこりと男は笑い、突然入ってきたこの学生の格好をした少女に声を掛けた。ほら、とナギはユカリの腕をつつく。
「あ…、すまないが、硝酸と硫酸を二瓶づつもらいたいんだが」
「硝酸と硫酸? それは劇薬指定がされてますから、身分証明が必要ですがね」
彼女はそれを聞くと、商品台の向こう側の男の方へつかつかと近づいた。そして胸のポケットから、一枚の折り畳んだ紙を出して広げる。ん? という様な顔で、男は眼鏡の位置を直す。
「おやこれは」
ほう、という顔になり、男はようございます、と言って棚の木製の扉を開けた。
「ああ、それと、…何だったかな」
「グリセリン」
うながされ、ユカリはその薬品の名を上げる。
「ふうん? なかなか物騒な取り合わせだねえ? 心臓の薬だったら、ちゃんと医者へ行けばいいものを?」
ふふ、とナギはそれを聞いて笑った。
「何なら協力してくれないか?」
「嫌ですね。捕まるのは困ることだし。売るのはともかく、使うのだったら、私は通報致しますがね?」
「その証明書を見て、意味が判るようだったら、協力しないか?」
ナギはとん、と台の上に置いたそれを指さす。男はふうん、という顔でそれを見ていたが、それを手に取り、透かしたりひっくり返しているうちに、顔色が変わっていった。
「なるほど、なかなかとんでもないものを、お嬢ちゃん、お持ちだね」
「協力してくれないかな?」
ちょっとお待ち、と男は一度店の奥へと引っ込んだ。
「大丈夫なのか?」
ユカリはやや不安そうな声を立てる。
「大丈夫じゃなくても、いざとなったら脅してでも行くさ。ここの店主は、昔からちょっと変わり者で有名だったんだ」
なるほど、とユカリはうなづいた。
「しかし変わり者って」
「なあに、かつては化学の分野で連合に留学していた、ということなんだが」
「げ」
何でそんな人がこんなところに、とユカリは思わず歯をむき出しにする。
「と言っても本人がそうふれ回ってるだけだからな。実際のところは知らん」
「そんな人に協力させて、大丈夫なのか?」
「どうかな。まあ少なくとも爆発物の知識はありそうだと思わないか? 少なくとも私よりは」
にやり、とナギは笑う。確かに、硝酸と硫酸とグリセリン、という薬品名を出して、それが即、爆薬につながるというのは、少なくとも化学的知識か、何かしらの軍事的訓練を受けたことがあるということだろう。
「それでおかしなまねをする様だったら、その時はこいつを当局に突き出せばいい」
簡単に言うな、と彼は思った。しかし実際そうだろう、とも。そこでそんな大きな口を叩く奴が悪いのだ、と彼は自分に言い聞かせる。
「お待たせしたね。それで君たち、何処で花火を打ち上げようというのかい?」
男は白い服を脱ぎ、巡回の医師が持つような薬品入れのカバンを持つと、靴ひもを強く結んだ。
「本気でつき合うつもりなのか?」
「退屈していたんだ」
そう言って男はにっこりと笑う。ろくでもない奴だ、とユカリはあきれる。
「海だ」
ナギは男に向かって短く言い放つ。
「私達は海であるものを壊さなくてはならないのさ。ところであなたは名は何と言うのだ?」
「ケスト・コヴァン・モヌムレイト」
*
コヴァンという怪しい薬局の店員は、灯りを消し、鍵を掛けた。
「けれどあなた、何か待ち遠しそうな顔をしていたが、心当たりはあったのか?」
「なあに、ここ数日、警察局からこういう二人連れが居たら、局に通報する様に、言われてはいたんだ」
「何だって」
「なるほどな」
ナギはうなづいた。
「私達が向こうの草原で連中の雑魚を捕まえたんで、当局も私たちが向かう方向へと矛先を向けたんだろう」
「それを判っていて、あなたはどうして」
「言っただろう? 退屈だって」
「そんな不謹慎な」
「不謹慎かねえ? あいにく当局が気にくわないのは、官立の高等専門に居た頃からだし、留学して帰ってくりゃどういう訳か約束されたはずの仕事口も無いし」
「要するに、不平分子という訳だな」
ナギは楽しそうにコヴァンの言葉を要約する。そ、と彼はにやりと笑った。
「ああだけど、全ての政府にどうとかという訳じゃあないよ? お嬢ちゃんが持ってるのが、やんごとない方からの証明書じゃなかったら、私もこんなことしやしないって」
「抜け目の無い奴、ということでもあるんだな」
あはははは、とナギは今度は声を立てて笑った。だがそれは一瞬だった。彼女の表情は厳しいものに変わる。
「まあそんなこともあろうかと、わざわざ車を使ったのは正解だったかな?」
ユカリはふとつぶやく。
「車を使ったのか?」
コヴァンはその言葉に気づいて問いかけた。ああ、とユカリはうなづく。
「だとしたら、既にこの海南の車全てに情報は回っていると思っていいよ。ああいうのには、ああいうのの元締めとでもいうものがあって」
「判ってる」
ナギは今度はスカートのポケットから折り畳んだ地図を出した。
「だが我々はとにかく行くしかないだろう。そしてそれは早いに越したことはない」
「早く?」
「今夜から明日の朝に掛けて、かたを付けたい。ここからだったら、歩いてこの入り江に出ることは可能だろう」
「だけど歩きでは結構長いじゃないか?」
「だから、車を使おう」
「って車は」
「さて」
どうしたものかな、とナギはそのまま通りを歩き出した。どうするつもりだ、とユカリは思いながらも、その後をついていく。
やがて通りに灯りが一つ二つと灯り始める。おびただしい電線の向こう側の空が、赤く染まっていた。
その街灯の下に彼女は立ち、向こう側からやってくる車に向かって手を挙げた。何を、とユカリは思わず手を口に当てる。車はすっ、と彼女の前で止まり、扉を開けた。
「何をしてる。早く二人とも来い」
何を考えているのでしょう、とコヴァンは首を傾げつつも、それでも決してそれを深刻がっていないらしい。ユカリはその後について車の中に入る。
「おや、薬局の先生じゃないか」
「やあ。ははははは。えーと、君、行き先は何処だったかなあ」
コヴァンは軽く言い放ち、ナギの方を見た。
「海の方へ」
ナギは短く答えた。
「海の? ちょっとあるなあ」
「持ち合わせはあるんだ」
「夜だから、点灯料金も加算することになるがなあ」
「構わない」
「できればワシゃ構いたいがなあ」
ふうん、とナギはうなづいた。ユカリもその時には、どうやら乗車拒否の姿勢を見せているのだ、ということに気づいていた。
「なるほど。既に回っているのだな?」
何が、とは言わずにナギはそう言うと、袖のカフスを一つ二つと開けた。
「何…」
を、と言おうとして、ユカリは目を丸くした。鋭い刃が彼女の右手の指にはさまれていた。
そして彼女は左の腕を運転手の首にぐっと回すと、右手を運転手の首へと近づけた。
「動くな」
ひえ、と運転手の喉から悲鳴に似たものが漏れた。
「別にちゃんと動いてもらえば、何もしないさ。着いたら置いていけばいい」
「そ、それは」
「それとも、この場で首のすじ切られてせっかくのこの新車が汚れてしまうほうがいいか?」
汚れるとかそういう問題ではないと思うが、とユカリは思いながらも、その間にこの車内の様子を見渡していた。お、と彼は一つのものに目をつける。
「いやあ、物騒な方々ですねえ」
「先生おい! あんたもこいつらの仲間かい!」
「仲間じゃあないですがねえ。今さっき知り合ったばかりだし。でも車を出した方がいいようですよ」
判ったよ、と運転手は言って、だからその手を離してくれ、とナギに頼み込んだ。
「運ぶだけだよ!」
「もちろんだ」
ナギは刃を元の様にしまう。このあちこちがふくらんた服の中に、一体何が入っているのか、ユカリには見当がつかなかった。
「何をじろじろと見てる」
「いや、便利な服だなあ、と思って」
「そうだろう」
ナギはにやりと笑う。
「結構これも改良に改良を重ねたと聞いている」
「改良?」
「当初は、まだこの襟は襟としても、重ねそのものが違っていたんだ」
「あーあ、それは私も聞いたことがあるよ」
コヴァンが口をはさむ。
「それにしても懐かしいねえ。この形。さすがに私の知っているのは第一じゃあないから、えんじ色のタイだったし、濃紺の服だったけれど」
「えんじのタイに濃紺の服なら第八か。あそこは結構後にできた所だが、評判は悪くはないと聞いたが」
「なかなかに。高等専門の方が大学校予科よりも幅を利かせているところでねえ。おかげで私の様な奴でも留学することができたってわけで」
「留学は、最近は少なくなったって聞いてるけど…」
どうも共通の話題がこの二人にはあるようなのが、ユカリには何となく面白くなかった。
「うん、少なくなっているんだ。というか、もうほとんど、国では送っていないんじゃないかなあ。私かその後くらいの連中が最後じゃなかったかなあ」
へえ、とユカリはうなづく。
「それって、もう帝国の技術が、連合に負けないくらいのものになったということで?」
「いやいやとんでもない」
ひらひら、とコヴァンは狭い座席内で手を振る。
「下手な考えを身につけて帰って来られちゃたまらないからさ」
「下手な考え」
「そ。下手な考え。まあだいたい最初、留学した奴ってのは、向こうの常識とこっちの常識があまりにもかけ離れているのに衝撃を受けるんだよ」
「…って」
「ま、私があなたに言ったみたいなことだろうな」
おや、とコヴァンは面白そうに、頬杖をつく彼女の方を向いた。確かに、とユカリは顔をゆがめる。知らなければ知らないで済んだことだろう。
「昔だったら、まあ向こうの常識は向こうの常識、で済むだろうけれど、さーすがにこっちもこっちで、それなりに人々の間でも学問は広まっているし、技術も医学も進んで来ている訳じゃない。そんな時に、向こうの常識なんか下手に持ち込まれて広められてみなさいって」
「なるほどそれはまずいな」
下地の無い時代なら、別にどんな異端な思想が入ったところで、それを提唱する者が数名入り込んでも社会の体勢が崩れるということはない。だが、現在は、それなりに子供達は教育を受け、連合から入った技術で、こうやって自動車にだって乗っているのである。
そんな時代に、神話の様な存在を信じろ、と言い続けること自体、無理があるのだ。
だが、その「神話」が実在する以上、それを言い続けなくてはならない。
「まあ時間の問題さ。どう変わってくるかは知りませんがね。たださすがに希望を持って出かけて行って、帰ってみれば官職は無し~では、ちょっとばかり世界を呪いたくもなるでしょうに」
「呪ってなぞいないくせに」
しゃらっ、とナギは言う。
「おや、判りましたね、お嬢さん」
「だけど、退屈はしていたんだろう?」
「ご名答」
ナギはその返答を聞いて面白げに笑い―――
ユカリはその笑いを耳にして、思わずため息をついた。




