第零話 道先
たゆたう意思は目覚めと眠りの狭間を漂う。
その中でまるで走馬灯のように駆け巡るは記憶の大波。
自分のようなそうでない記憶が古くて新しい記憶と混ざる。
一人の少女がいた。誰もいない森の中を一人彷徨う。
一人の女がいた。自身の力を羨まれ疎まれ、一人孤立する。――その側に近寄る者が一人。
二人の人間がいた。一人は血の海に沈み、一人は泣き叫ぶ。手にした血に濡れの懐中時計は時を刻まない。
だが、その時計の秒針が動き始めた。動かないはずだった秒針はぐるりと巻き戻り、時を遡る。
いつしか手元に同じ時計。だが、血に塗られていなくまだ輝きの失われていない綺麗な時計。その時計を持つ手は小さく幼い者であると分かる。
白い空間だと思っていた色は雪の色。
いつしか、雪積もる広い庭へと光景は変わっていた。
『誕生日おめでとうございます、殿下』
本日何回目になるか分からない祝いの言葉を聞いて、小さな少年は手に持っていた時計から目を上げる。そこには黒いローブを羽織った一人の女。たしか、父親が呼んだまじない師の者だったはず。
『殿下、一つ私からプレゼントをさせてください』
そういったまじない師の女は少年に目線を合わせるように屈みこむ。そして手を少年の頭に重ねるようにかざした。
しばらくして淡い光が少年の目の前で発せられる。
『……何をしたんだ?』
『時が来れば、いずれ分かりますよ』
まじない師の女はただ微笑んだ。
――そこで景色がブレた。
◆◆◆◆◆
ノイズが視界に走る中、そこに映るは終わりの世界。
この世から存在は抹消された者がいた。
終わりを迎えぬ存在と果てし者がいた。
真っ赤な地面が真っ白な空を映し込む中、一人残された者は夢を見る。
――この世界とは異なる結末を辿った世界を夢に見る……。
◇◇◇◇◇
「………………」
悲鳴を上げることなく黒髪の少年が静かに目を覚ました。
落ち着き払った様子で周りを静かに見渡す。
そこは寝る前と変わらぬ光景。少し豪華な調度品のあしらわれた寝室だった。
思わず左肩を見る。――左肩には傷も痛みもなく難なく動かすことができた。
ベッドから這い出ると姿見の方へと歩み寄る。鏡に写り自分を見返すのは二つの赤い瞳。
「…………あの俺は……」
この状況は理解できる。だが、どこか違和感があるが、しかしそれも気がつけば何処かへと消えていく。
「――失礼します、ハーロルド様」
その時扉を叩く音が聞こえてくる。その声に少年は驚く。昨日まで聞いていたはずなのに今はどこか懐かしく二度と聞くことはできなかったはずのその声に。
「……入れ」
思わず震える自分の声に苦笑しながら少年はその者の入室を許可した。
「いつまで寝ていやがる! もう出発の時間だぞ、ハル!」
入るなりそんな怒声が耳を通り抜ける。以前ならまだそんな時間じゃないとでも言い返していただろうが、今はただ現れた人物を見つめるだけで何も言えなかった。
「お、おい? どうしたんだ、ハル?」
そんな少年の姿におかしさを覚えたのか、銀灰の瞳に困惑の色を乗せた灰色の髪を持つ少年。あの時、最後にあったのは物言わぬ死体と成り果てた少年であった。
「――またお前に会えるとは思わなかったよ、ギル」
「えっ? 何言っているんだハル? というかなんで泣いているんだよ!?」
ギルに指摘され自分の頬を触る。確かに涙で濡れていた。死んだあの時のギルと違い、今の目の前のギルはまだ死んでもいない。生き返ったわけではなく、ただ時が巻き戻ったに過ぎない。
「な、なんでもない!!」
なんとなく急に恥ずかしくなって慌てて袖口で拭う。なんとか溢れ出てくる涙を抑えつつ、ついでに緩む口元も抑える。そんな表情をする少年――ハルが可笑しくてギルは笑いそうになるが、無言の視線を受けて慌てて咳払いをして誤魔化した。
「……まぁとにかくだ! 急いで支度しろよ。入学式の日程に間に合わなくな――」
「そのことだが俺は学園には行かないつもりだ」
「…………はぁ!?」
一瞬何を言われたのか分からず、ギルは驚きの表情を持ってハルを見る。
「聞こえなかったのか? 俺は学園には行かない」
「えっでも……行かないって、じゃあどうするんだよ?」
「そんなの、決まっているだろ?」
ハルはどこか威張るように胸を張って腕を組み、不敵にニヤリと笑う。
「――クソ親父をぶっ倒しに行くんだよ!」
その赤い瞳は以前の彼からは見られないような炎のような野心を宿していた。
(……こうして過去に戻った今、俺にはやらなければならない事ができた。それをやり終えるまで……どうか待っていて欲しい)
まずは慌てふためくギルの説得からだな、とハルは苦笑する。
◇◇◇◇◇
麗らかな初夏の風が吹き抜ける港町。停泊する船からは今朝捕れたばかりの新鮮な魚が次々と街に運びだされていく。
そんな光景が遠くに見える一軒家の窓の扉が開かれた。
「……いい天気ね!」
窓から顔を出して少女は嬉しそうに頬を緩ませる。海から吹き抜ける風が亜麻色の髪を揺らした。
「――あら、おはよう!」
「あ、おはようございます!」
窓の下から声が聞こえてそちらを見る。そこにはよく店に来てくれるおばさんがいた。
「待ってください、今開けますね!」
少女はスカートの裾を翻して窓を離れていく。そして自分の部屋を通りすぎて階段を下り、一階の店舗に繋がる扉を開けた。
部屋に入ると色とりどりの花が出迎え、そして花の優しく良い香りが彼女を包み込む。
「いらっしゃいませ! 本日はどのようなお花をお求めですか?」
少女は店の扉を開いて、客を花が咲いたような笑顔で出迎えた。
「ありがとうございました!」
朝一番にやってきた客を見送り、彼女はふぅと息をつく。そして頼まれている花束を作ろうとカウンターを通り過ぎた時、ふと目についた新聞。
今日の朝刊と思われるそれは父親がよく読んでいるものだ。彼女もたまには読む。それというのもここ最近の記事がとても気になるものが多いからだ。
「……えっとーおぉ! 北の食糧難は解決されつつあるのね――これも皇帝陛下のお陰なのでしょうか?」
彼女の住まう国を統べる現皇帝は国民からの支持が高い。即位した当初はとても不安がられたのも嘘のようだ。なにせ一年前に、前皇帝の父親から争いを持ってして皇座を奪い取ったのだから。
歴代の皇帝を見てもそして若い年齢からも、きっと良くない皇帝が即位したと国民は憂いていたが……蓋を開けてみれば歴代と比べることすら失礼なるくらいの良き王となってくれた。
彼女の地域は前皇帝の時代に戦争によって支配された元国であるが、その国民たちからも徐々に支持されつつある。
彼女が仕事を忘れそうになるくらいに新聞を読みふけっていると入口に取付けられたベルがカランカランと鳴り響く。
「あ、いらっしゃいませ!」
それによってこの花屋に客が訪れた事を知った彼女は出迎えるために表へと出た。
入ってきたのは一人の黒髪の少年。常連でなく顔は知らない。着ている服の仕立ての良さから貴族のようだ。
「あ、あの、何の……いえどういったご用件でしょうか!?」
まさかこのような一介の花屋に貴族が訪れるとは思いもしなかった。今まで貴族が訪れた事は両親からは聞かされていないし、彼女も覚えがない。どうしてこの貴族のぼっちゃんらしい少年はこの花屋に訪れたのだろうか?
緊張で固まる彼女であったが、しばらくして奇妙な感じに囚われる。それは現れた貴族の少年から返事が帰ってこないのだ。何か失礼な事をしただろうかと怯える彼女をその少年の赤い瞳が映した。
「…………やっと見付けた」
「はい?」
少年の言葉に彼女は首をかしげる。花屋を探していたのだろうか?
「いや、なんでもない。……えっとここは花屋……なのか?」
「はい、そうでございます」
どこか困ったように少年は頭をかく。花屋を探していたのではないのか?
「あの、誰かに贈る花束でもお探しですか?」
「えっ!? あーえっと俺はそういうつもりで来たんじゃなくて……あーいや、やっぱり花だ! 花束を買いに来たんだ!」
「はぁ……」
一体この貴族は何をしにきたのだろうか? 冷やかしにでも来たのであれば営業妨害である。なんだが相手するのもどこか面倒になってきつつある彼女はそれでも対応を続けた。なにせ相手は貴族だ、ここで間違いを起こせば自分はもちろんの事家族も危険にさらされることだろう。
「では、どういった花束を?」
「えっとー……人に贈る。女性に……」
「女性への花束ですね? どういった方ですか?」
「えっ?」
「…………だから、母親なのか恋人なのかですよ?」
「えっあぁ……その……両方作ってくれないか?」
歯切れの悪かった貴族の少年は何かを思い付いた表情をするとそう願いでた。
「両方ですか? 母親と恋人用?」
「あぁ。一つは亡くなった母にもう一つは――好きな人に」
その赤い瞳に熱の篭った視線を向けられ、その瞳に思わず見とれてしまう。しかしそれも一瞬の間、その視線に顔を赤くするも、自分ではないと頭をふって熱を冷ます。
「わ、分かりました! えっと、そうですね……そのお二人が好きな花をご存知ですか?」
「そうだなー確か母は……」
花の種類はよく知らないのか、色と特徴だけを伝えてくる。だがそれだけで彼女はその花が何の花なのかが分かった。中にはこの時期では咲かない花や知らない花もあったが言われた花を選んで花束に仕上げていく。
その間、ちらりと貴族の少年を盗み見た。良く見ればこの地域では見ない顔立ちの少年。黒い髪は確か北東の地域の者達の証。赤い瞳は――皇族の一族が多く持っていると聞くがまさかこの場所に皇族など来ないだろう。多分古い国であるシュネイデンの民の血を引いていると思われる。
少しばかりその横顔を見つめていると……どこか懐かしさを覚えた。なぜそんな気持ちになるのか分からない。気持ちを追求しようにも持っていた花の一つをへし折ってしまった為その気持ちはどこかへ消え去った。
「はい! できました!」
色とりどりの花が綺麗に纏められた一つの花束が仕上がった。亡くなったと言っていた為、墓に捧げる事を考慮した作りになっている。
「これは……凄いな」
受け取った貴族の少年も思わずといった風に賛称の言葉を口にした。
「ありがとう、母もきっと喜んでくれるだろう」
花束を手に少年は微笑んだ。その笑みに思わずまたしても見とれてしまうも、彼女は雑念を振り払うように言う。
「ありがとうございます。では、次に……恋人の方の用をお作りします」
そうだ、目の前のこの貴族の少年にはすでに心に決めた相手がいるはずだ。それ以前に庶民の自分とは身分が違うから無理な話である。
「恋人じゃない……片思いなんだ」
そう語る少年の頬は赤い。だがどこか寂しいそうにこちらを見ていた。どうしてそんな目でこちらを見るのか分からず、そんな目で見つめて欲しくない。思わず彼女は目を逸らす。
「そ、そうなんですか……失礼しました。……それでどういった花を送られますか?」
「……そうだな、お前の好きな花でいい」
「えっと……私のですか?」
思わず聞き返してしまった。ここは相手を思い、好きな花を知らなくとも彼自身が選ぶべきでは?
「あぁ、この花束を作れたお前だ。だから任せる」
「……分かりました!」
だが、そう言われてしまえば彼女は断れなかった。花束を作る花を選ぶ最中、再三彼女が好きな花を選ぶように言われたので彼女自身も好きでオススメする花を入れ込んだ。
「できました!」
こうして出来上がった花束は彼女が今まで作り上げたどの花束よりも美しい仕上がりとなった。自分が作ったというのに思わず自分が欲しくなってしまう。
「ありがとう、それでお代は?」
「はい、そうですねー」
二つ目の花束を渡して、代金を計算する。そして提示した値段に貴族の少年はすぐに頷いてお金を払った。
「あぁ、そうでした! メッセージカードはいりますか?」
「……そうだな。頼む」
彼女は貴族の少年にカードとペンを渡すと、受け取った代金からお釣りを取りにカウンターの向こうへと行く。
「はい、お釣りです」
彼女がちょうど戻ってくるとカードを書き終えた少年が待っていた。
お釣りを受け取り、そのまま帰っていくであろう少年を見送ろうとしたその時――少年は片方の花束を彼女に差し出す。
それは他でもない、想い人に送る花束だ。
「えっ……あの……」
「…………この花束はお前にだ」
突然の出来事に困惑する彼女にどこか押し付けるようにして花束を渡した。
「それじゃあな!」
どこか慌てるようにして貴族の少年は店を出て行く。
カランカランとベルが鳴り響く店内には、花束をもった一人の少女がぽつりと残された。
「えっ……えっ!?」
思わず自分の手に持つ花束に目が行く。彼はこれを片思いしている人に渡すと言っていたが……
「……ど、どういうことですか……これは……」
彼女は驚き、そして何かに気がつく。あの少年はどこか見覚えがあった。彼女は花束を持ったまま階段を駆け上がり、自室に戻る。そこから取り残しておいた新聞を漁った。
「あ、あった!!」
帝国新聞の一つの記事。その見出しには最新技術のカメラによって映しだされた一人の人物の写真が印刷されていた。
――我らが偉大なる皇帝、ハーロルド陛下。
その写真の上に、そうデカデカと文字が書かれている。その紙面に映る写真の少年は先程やってきた少年にそっくりだ。それに皇帝は黒髪と赤い瞳の持ち主と聞く。それだけでなく今朝の朝刊にはこのスルールの地で最近開発されている農業地域に近々視察に来るという情報が書かれていたはずだ。
「いや、まさか!? そんなまさか……!?」
新聞を持つ手が自然と震える。ありえない。こんな田舎にあの皇帝がこんな寂れた花屋に来るなどありえるわけがない。
そんな風に驚き固まっていた彼女の部屋が光に満たされる。
「な、何!?」
光は一瞬で収まり、彼女は振り返るとそこには――
「おい、サロモン! ハルの奴はどこだよ!?」
「えっ!? そんなまさかまた失敗ですか!? いやでもきちんと我が神の痕跡は辿ったのでこの近くに居るはずですよ、ギルバート様!」
そこには見知らぬ者たちがいた。どの者も仕立てのよい服やドレスを着ており普通の庶民などではないと思わせる。
「……あー悪いな、俺たち人を探しててここに転移してしまったみたいなんだ」
「な、なんなんですか貴方達は!?」
この者達を率いているのか、一人の男が進み出て彼女に近づいた。だが、急に現れた者たちを信用などできもしない。それに転移したということは邪悪な力と教えられているあの魔法の類を使ったのだろう。彼女は警戒心を強めて、その者を睨んだ。
「お、落ち着いてくださいませ! 私たちはけして怪しい者ではございませんわ! それよりここに私と同じような黒髪と赤い目を持った少年を見かけておりませんか?」
この者達の中で唯一の女性である黒髪と変わったドレスを着た背の低い少女が聞いてきた。その可愛らしい容姿に思わずと言った具合に彼女は答える。
「え、ええ。先程花束を買って行かれました……」
「何!? ならばこの近くにいるな! おい、シキ! お前は周辺の捜索に今すぐ行け!」
「了解いたしました、ギルバート様!」
集団の中の一人が素早い身のこなしで開け放たれた窓から飛び出していく。
「――いやもしかしたら魔法の効果があまり効かない体質なのかもしれません。僕の計算ではあの人の目の前に瞬間的に現れるはずなのに三回も失敗しております……あぁ、きっとそうに違いない! やはりあのお方は神と呼ぶに相応しい!」
「ほら、サロモン行くぞ!」
軍服を着込んだ少年がぶつぶつと何かを呟いている小さな魔法使いを引きずるようにして普通に部屋を出て行った。
「……お騒がせてして申し訳ありませんでした! 待ってくださいギル様! 私を、アカネを置いて行かないでくださいませ!」
その背を追いかけるようにして少女が飛び出していく。
「な、なんだったんでしょうか……」
またしても状況の把握が追いつけず、ぽつりと残された彼女は疲れたようにため息をつく。
しばらくして一階に戻った彼女。そこには誰も居ないと思ったが一人の女性がいた。客かと思ったがその姿には見覚えがある。彼女はほっとしながら声をかけた。
「お母さん。お帰りなさい」
「ただいま、モニカ。店番ありがとうね。……ねぇさっき入口ですれ違った人達ってお客さんだったの?」
「え? そ、そうだよ……急ぎの用事だったみたい……」
どう説明していいのか分からず彼女――モニカは言葉を濁す。
そして困ったように胸に抱く花束を見つめる。
「……あら?」
その花束には一つ、彼女が入れた覚えのない白い花。
それは本物の花でなく紙で作られた一輪の花が紛れ込んでいた。
その隣に添えられたメッセージカード。
――また来る。
少し荒っぽい字で短く、そう綴られていた。
◇◇◇◇◇
時は随分と過ぎ去った。グランツラント帝国は今では豊かな国になり、人々の笑顔が絶えない国へと発展したのだ。それは他でもない彼らの支持する皇帝のお陰だろう。
その皇帝がついに結婚するという。そのニュースに国民たちは心から祝福した。
皇帝の結婚はそれだけでかなりの話題があるのだが、結婚相手は港町の花屋の娘という庶民を娶った事にその話題に火がつくのは当然の流れだろう。
式には周辺諸国の代表者が参列したが……一際異彩をはなっていたのは隣の大国カルフォーレからの代表者――フィリップ王子だろう。王子自ら参列したのは最近、カルフォーレと共に魔法と機械を合わせた新たなる技術を生み出しているからか。皇帝とはそうした付き合いもあるが親しい間にもなったからだろう。
さて、その魔法機械を作り出すプロジェクトの責任者の一人、転移魔法の使い手として有名な大魔法使いサロモンも、もちろん参列していた。
ちなみにサロモンは王国の人間でなく、帝国の人間だ。
皇帝を魔法界に現れた現人神と崇め倒しているという。その理由は本人に直接聞くといい。転移魔法の素晴らしさと共に皇帝がいかに優れた神であるかを教えてくれるだろう。……しばらくして新たな宗教がこの世に誕生したのは余談である。
こうして沢山の者達に祝福を受けながら、結婚式は大盛況の内に終わりを告げた。
――なのだが。
「はい、チェックメイト」
月明かりの下で動いた駒はカタンといった音を上げてその場所に置かれた。
「……また負けました……」
残念そうに負けを認めるのは夜着に身を包んだ一人の女性。亜麻色の髪は乾かされているが少し湿っており、それが風呂あがりであると物語る。心なしかどこか良い香りがこちらにまで漂ってくる気がした。
「ま、まぁその、今回のはそこまで悪くなかったぞ」
そんな目の前に座る彼女から目を逸らすのは一人の青年。顔を赤らめて彼女を直視しないようにしながら青年は気まずそうに黒髪をかきあげた。
「……あのハルさん。いつまでチェスをするんですか?」
「えっ!?」
彼女の言葉にハルと呼ばれた青年が思わず咳き込む。一体どれくらい時間が経ったのか。手にした懐中時計を見てみるとすでに日付はとうに過ぎ去っていた。
「…………まぁ、そうだな。そろそろここまでにしておくか」
どこかぎこちなく彼はそう呟く。その言葉に自分から言い出したとはいえ、彼女は身を固くする。
「えっとその……一つ聞いてもいいですか?」
「……なんだ? モニカ」
「ハルさんはその……どうして私の事を好きになったんですか?」
どうしてこんな事を聞いてしまったのか。彼とは昼間に夫婦の誓いをしたというのになぜ?
いや、こんな時だから事聞いてしまったのかもしれない。彼女が――モニカが長年疑問に思っていた事を。
「……一目惚れって理由だけじゃダメか?」
「……もっと他にないんですか?」
こんな質問をしたのは初めてではない。しかしその度に彼は一目惚れと言い切る。だがモニカには分かっていた。どことなくハルは自分に話していない何かがあり、その何かを隠している事を……。
「はぁ……分かった。じゃあ話すよ」
どこか諦めたようにハルは顔を手で覆う。そして次にこちらを真剣な表情で見つめ、話し出した。
「――気がついたら悪役王子になっていたって言ったら信じるか?」
「………………はぁ?」
真剣な表情で、言い出したのはよく分からない事。
いきなり何を言っているんだといった具合にモニカは思わずそんな反応をしてしまう。
「モニカ、その反応は酷いぞ……この設定にしたのはお前だろうが……」
「いや、ハルさん何を言っているんですか? もしかして初夜を前に緊張しすぎて頭がおかしくなりましたか?」
「な、なわけあるか! 止めろ! ギルが言いそうな事をお前が言うんじゃない!」
顔を真っ赤にして反論するハル。そんな彼も愛おしく見えて、モニカはクスリと笑う。
「冗談ですよ。それで、このおかしな発言の説明はしてくれるんですよね?」
「……後で後悔しても知らないからな」
悔し紛れにそう言ってからハルは話し出した。
どこか昔を語るように、どこか自分ではない者の存在を語るようにして……。
それはとある世界で起こった出来事。
一人の少女の願いが生み出した幻想に囚われた少年のお話。
その道が行き着いた先は――神のみぞ知る。
気がついたら悪役王子になっていた。 完
最後まで読んでくださってありがとうございました!
あとがき的なものは活動報告にありますので興味のある方はそちらをお読みください。




