第十九話 波乱
言われた言葉に驚き真っ赤な顔をして口をパクパクとさせながら、モニカは後ろに後ずさった。
「……そんなキスだなんて!? やっぱりハルさんは私の体目当てだったんですか!?」
「いやそんな訳ないだろ!! ちょっと待て、キスだけどキスじゃなくて……」
慌てて誤解を解こうとするのだが、モニカはぶつぶつと独り言を言い始める。
「……そうですよね、ハルさんはそんなことしませんよね? なら、き、キスくらい……だってそれをしないと死んでしまうかもしれないんですよね……なら、なら……」
「おい、モニカ!? 話を聞けよ! キスとは言ったがな――」
続きを言う前に彼女の両手が伸びてきて、ハルの頬を包み込むように掴む。
「だ、大丈夫ですハルさん! だ、だから……」
「いやだから待てって、モニカ!!」
ハルは慌てて、顔を近づけようとしたモニカの口を塞いで押しやる。
「キスとは言ったが頬だ、頬。しかも俺がするほうだ!」
「……むぐ!?」
口を塞がれたまま、モニカは驚くようにハルを見る。抑えていた手を退けてやると、顔を真っ赤にさせてモニカは俯く。
「……あ、あ、あ、あの、それはすみませんでした……」
「はぁ……」
しばらく気まずい沈黙が流れ、ハルは疲れたように肘掛けに頬杖をしながらため息をつく。
「あの……」
「言っとくがしないからな」
「でも……」
「いいんだ。どうせしたって意味ないだろうし。それに好きでもない男にされるのは嫌だろ?」
たとえ頬だとしても嫌だろうし、ただの情けでそれをする程でもないはずだ。それに今やったとしても、やはり無駄だろう。あのイベントの再現を無理にする必要はない。
「…………でも、頬なら」
「なんだよ、しないって言ってるだろ? それともされたいとか? やっぱり俺を誑し込みに来たとかか?」
そういえばとモニカが『記憶』持ちなのかもしれないと思い出すが、モニカの今までの様子からそれはありえないと思う。しかし、断っても食い下がろうとしない彼女に思わずキツくそう言ってしまった。
「ち、違います! ……分かりました、ハルさんがいいと言うならもう何も言いません……」
どこか落ち込むようにモニカは呟く。ハルの力になれない事と、自分が貞操のない女性と見られた事で少し落ち込んでしまったようだ。そんな彼女を見かねたのか、ハルは目は合わすことなく頬杖をついたまま話しかける。
「……王国だとさ、男女で手を繋いだり、頬にキスくらいなら友人同士でもしてるだろ? 挨拶とかでさ」
「ええまぁ……頬にキスに関しては最近は仕草をするだけの形式が多いですけど……」
そう答えた時、モニカは何かを思い出したような表情する。どうやらハルと出会った日を思い出したようだ。その日にハルがしようとした事とそして今やろうとした事が結びついたのか、目を見開いてハルを見る。だが、ハルはモニカを見ていないため、そんなモニカの様子に気づくことなく話を続ける。
「そのさ……あー故郷じゃないんだっけ? まぁそういう王国で育ったことには変わりないか。そういうのが一般的に行われているから、そう簡単に言えるんだろ?」
どこか謝るようにハルは言う。モニカはその言葉を静かに聞いていた。
「だが、ここは帝国だ。帝国では男女の接触はあまり良く思われないんだ。たとえ恋人同士でも夫婦であっても人前ではベタベタするなとかよく言われるな。だから帝国の仕来りに従ってくれ」
ハルは手元に持った懐中時計で時間を確かめる。
「もうこんな時間だ。これ以上はまぁその……何もしてなくても疑われるし、モニカは部屋に帰れ」
「は、はい!」
また顔を赤くしたモニカを見ながら少し苦笑いをしつつ、ハルは立ち上がった。
「部屋までは送っていくよ」
扉まで歩いて行こうとしながら手に持った懐中時計をポケットに仕舞おうとするが、モニカがその時計を見ているのに気づく。
「……気になるか?」
「ええまぁ……王国ではあまり見かけませんから……」
「そういえばそうだったな……」
王国の人間は時間に拘らないのか、一定の時間に鳴る鐘の音以外では時間を把握しない。それゆえ、このような懐中時計を使う人間は居なかったことを思い出す。
「……これさ、母親の形見なんだ」
「……お母様のですか?」
ハルの母親といえば、あのヒナタ皇妃のことだ。ここへ来る前にカンナに話を聞いていたモニカは、その時計を感傷深く見つめる。
ハルも同じくどこか感傷深く、そして複雑そうに時計を眺めていた。
(……母さんを悪く言うつもりはないが、あんな最後を見せられたら死にたくないと思えるよ)
ヒナタ皇妃の最後は、病に侵され意識も曖昧なままに、呻き叫び続きながら死んでいくものであった。それを間近で見ていた幼いハルにとって、トラウマを植え付けてしまうほどに強く記憶に残ってしまった。
(母さんは病に侵されていたからああいう風に死んでいったと分かっているけど……)
「……死にたくないのは、母のせいなのかもな」
死にたくない――そう思うのはあの影響が強いだろう。母のようには死にたくない、苦しんで死にたくない、あの最低な父親のせいで巻き込まれて死にたくない、――あの『記憶』のように死にたくはない。
「ハルさん……」
「悪い、なんでもないよ」
懐中時計を仕舞ったハルは今度こそ歩き始めるのだが、またその歩みを止める声が聞こえてくる。
「……そんなに死にたくないのに、どうするというのですか? 一体どうやって死亡を回避するというのですか?」
――そんな方法、一つしか無い。
足を止めたまま、彼女に背を向けたまま、答える。
「……戦争に勝つ、それだけだ。お前の手を借りずとも、そうすれば俺は死なないはずなんだ」
「戦争……」
複雑そうに呟く彼女の声を聞きながら、ハルは扉を開けた。
◆◆◆◆◆
モニカは扱いとしては捕虜という事になっている。だが、牢屋に入れておくというのは可哀そうなので、城の中にある客室の一つを与えることとなった。 たとえ、何かをしようにも女性ということがある、たった一人で何ができるというのか。まぁ、聖女と予言された者なので油断をするつもりはないが。
監視役兼世話役をカンナに頼んであるし、普段は部屋からは出さないつもりである。
そんなモニカに用意された部屋へと向かう途中。隣を歩くモニカとはハルの部屋を出たきり会話はなかった。静かに、ただ二人の足音が響く。
「なぁ……」
そんな空気が気になったのか、ハルはモニカに話しかけた。いや、彼女には一つ聞かなければならないことがあったからだ。
「はい、なんでしょうか?」
こちらを不思議そうに見るモニカは多分この『世界』のことも、『記憶』も持っていないのだろう。
だが、ただ何も知らないという訳ではない。ハルが死ぬ夢を見たと言っていた。それに――
「……月の宴の時さ、お前は言ったよな? 当日は晴れると。なんだかやけに自信を持って言っていたから、気になってたんだ。あの口ぶりからまるで本当に晴れると分かっていたんじゃないかって思って……」
そう、モニカはあの時言ったのだ。宴の日は晴れると、それもはっきりと断言した。それがハルの中ではすごく引っかかっており、それにより彼女を誤解していたのだ。
質問をされたモニカは、あぁと思い出したような表情をしながら、少し困ったように答える。
「その……なんと言っていいのでしょうか? 私は昔からなんとなく天気が分かるんですよ」
「天気が分かる?」
「はい。晴れなのか雨なのか、なんとなくです。たまに外れる事もありますよ。だけど、宴の日は絶対に晴れるだろうなーって思っていたので、はっきりと言ってしまったんだと思います」
そういって彼女は立ち止まると、廊下の窓の向こうに見える空を見上げた。窓の外はすっかり日が落ち、暗い。だが、三日月と無数の星の光が輝いている。
「そうですね、明日は…………雨、ですね」
そんな雲一つ無い綺麗な夜空に向かって、モニカはそう呟いた。
◆◆◆◆◆
薄暗い部屋を照らすのはロウソクの頼りない明かりのみである。この世界ではまだ明かりといえばロウソクぐらいしかないのだ。
そんな部屋で執務机に座り込み、ハルは紙にインクを走らせていた。時間は先程よりも遅く、すでに日付は越えている。この砦を守る指揮官としての仕事は明日ももちろんあり、寝なければと思うものの、走るペンを止めることは中々できないでいた。
またしばらく時間が立ち、やっと一段落した所で、扉を叩く音が聞こえてくる。こんな時間に自分の部屋を訪ねてくるものなど数が限られてくるものだ。
「……ハーロルド様、まだ起きていらっしゃったんですね」
その声はどこか自分を咎めるものであった。
「……やっぱりお前か。入れ」
ハルはその者の入室を許可する。静かに扉を開けて入ってきたのは渋い顔をしたギルバート――ギルであった。
「……まったくこんな時間まで何をしているんだ?」
「それはお前もだろ?」
「俺は見回りだ。……まぁいい、起きているのは好都合だったよ」
執務机の前に立ったギルは、その銀灰色の瞳で椅子に座るハルを見ている。ハルはその視線に動じること無く、残っていたコーヒーを飲み干すと空になったカップを机に置いた。
「報告がある。という訳で話をしましょうか、ハーロルド様?」
「……いいだろう。俺もお前には話すことがあったんだ」
ハルもそんなギルを静かに見返す。二人の間に流れる空気はどこか張り詰めていた……。
◆◆◆◆◆
城の廊下に何かが割れる音が響く。それはこの静まり返った城内隅々にまで響くかのようだった。
「な、なんだ!?」
警備をしていた兵士二人が慌てる。その割れる音が聞こえて来たのは彼らの後ろ――彼らが守る部屋から聞こえて来たのだ。しかも、その部屋はただの部屋ではない。この城砦で後方支援の指揮を取っている、国の王子ハーロルド殿下の部屋なのだ。
「で、殿下! 今の音は――!?」
自体が自体なだけに、殿下に許可を取ることを忘れて慌てて部屋へと入り込む。
「この……腰抜け王子が! 寝言は寝て言いやがれ!!」
そこに広がっていた光景に、警備をしていた兵士達は驚き固まった。部屋の地面に割れたカップが落ちている。それが音の原因だろう。だが、そんなことなどどうでもいい。
入った部屋では、ハーロルド王子の腹心でもある近衛兵のギルバートが、彼に殴りかかっているという場面であったのだ。
「何を……何をするギルバート!」
殴られた勢いで倒れこんだハーロルドは、真っ赤な左頬を痛そうに手で擦りながら今まさに殴ってきた相手を睨む。
「……もう俺はお前には付いていけねーよ、ハーロルド殿下! もうお前の我儘に付き合うのはうんざりなんだよ!!」
そう怒鳴り散らすギルバートはもう一発ハーロルドに食らわせようとするが、動き出した兵士達に取り押さえられた。
「この野郎! 離せ!」
「し、しかし!」
「そいつを離すんじゃないぞ!」
ハーロルドは左頬に手を当てたまま立ち上がると、拘束されたギルバートを憎々しく見る。
「……残念だ。お前なら分かってくれると思ったんだがな。――この不届き者を牢に連れて行け!」
「は……ハッ了解いたしました!」
この事態に動揺していた兵士達であったが、ハーロルドの言う通りにギルバートと連行していく。何かを喚きながら藻掻くギルバートの離れていく背を、ハーロルドは静かに見つめていた。
「……クソッ、ギルの奴め!」
誰も居なくなった部屋で頬を擦りながら、一人佇むハーロルドのそんな悪態が響く。
窓の外をから差し込んでいた月光はどこからかやってきた黒い雲に隠れ、真の暗闇に包まれたヴォルケブルク城に雨を降り注いだ……。




