御前試合3
オルスロットは2回戦も難なく勝ち、2日目の出場権を獲得していた。そして朝早くに出るオルスロットを見送った後、自身の準備を済ませたレイティーシアは想定外の事態に見舞われていた。
馬車が故障したというのだ。
オルスロットの屋敷は大貴族の邸宅とは異なり、馬車は1台しか所有していない。おかげで本来ならばもう出発している時間だが、居間で待機している状態だった。
身支度を整え、今日も共に御前試合へ行く予定のアンゼリィヤとソファに座っていたレイティーシアは、憂鬱そうに小さくため息を吐く。
「もういっそ、行くのを止めましょうか……」
「どうしたんだ、シア?」
「なんでもないわ、リィヤ姉様」
怪訝そうにレイティーシアの顔を覗き込んだアンゼリィヤは、不機嫌そうに顔を顰める。
「どう見ても、何でもないといった顔じゃないよ、シア。そんなに暗い顔をしてどうしたんだい?」
「その…………。御者を急かすのも、かわいそうと思って、ね」
憂鬱な気分の本当の理由を隠し、レイティーシアは先ほどの様子を思い出しながら苦笑する。
すぐに直します、と何度も頭を下げながら告げる御者は、真っ青な顔色で震えていたのだ。
元々オルスロットやレイティーシアは、そんなに使用人に対して厳しい態度を取る方ではない。だからそんなに気にしないで良い、と声を掛けたのだが、御者は深々と頭を下げて馬車を修理するために戻って行ってしまったのだ。
そんな様子を指して説明するが、アンゼリィヤは相変わらず納得していない表情でレイティーシアを見つめる。
そしてそっとレイティーシアの銀色の髪を撫でると、優しい声で問い掛ける。
「シア。副団長との結婚が苦痛なら、いつでも連れて逃げるよ?」
「リィヤ姉様……」
驚きに瞳を見開いたレイティーシアは、慌てて顔を横に振る。
「違うの! 苦痛とか、そういうのではなくて……」
「それじゃ、一体どうしたの?」
「ただ……」
「ただ?」
優しく髪を撫でながら問いかける従姉の声に、胸の底に沈めていた言葉が零れ出す。
「旦那様には釣り合わないなってことを思い出したの」
「シア……」
眉を下げて笑うレイティーシアの顔は、今にも泣き出しそうな表情だった。
しかしアンゼリィヤが声を掛ける前に、馬車が直った、と御者が呼びに来たのだった。
「さ、リィヤ姉様。行きましょう?」
「……そうだね」
何か言いたげなアンゼリィヤを残し、さっさとレイティーシアは馬車へと乗り込む。そして少々遅れてアンゼリィヤも乗り、馬車の扉を閉めようとした時だった。
「すみません、奥様!!」
「あ、こら! お前っ!」
「え?」
聞き覚えのある少年の声と、その声の主を咎めるような男性の声が屋敷の側で上がる。
普段とは違ってどこか焦った様な少年の声も気になり、馬車の外へと顔を出すと、コルジットが馬車へと走り寄る所だった。そしてコルジットの応対をしていたと思われる執事が彼を追い、レイティーシアへ頭を下げる。
「申し訳ございません、奥様。お時間が無い、と伝えていたのですが、どうしてもと」
「お呼び止めしてすみません。でも、どうしてもすぐに、奥様に伺いたいことがあるんです!! ランファンヴァイェンさんが……!」
ランファンヴァイェンの伴で訪れる際は、まだ拙くとも商人としての振舞いを押さえていた。しかし今日はそういったものは一切なく、金茶色の瞳には必死さが滲んでいた。
そばかすが散った頬は赤く染まり、荒い息を吐いている様子から、きっとこの屋敷までも走って来たのだろう。
あまりにも必死な様子でランファンヴァイェンの名を口にするコルジットに、レイティーシアの心に不安が過る。
しかし、時間がないというのも嘘ではないのだ。
少しの間考え込んだレイティーシアは、普段ではあり得ないことではあるが、馬車の扉を開けてコルジットへ声を掛ける。
「乗って頂戴。話は移動しながら聞かせて頂けるかしら?」
「はいっ……!」
ホッとしたように顔を綻ばせたコルジットが素早く馬車に乗り込むと、予定より大幅に遅れて屋敷から出発したのだった。
御者席と壁を隔てて背中合わせとなる、進行方向とは逆向きの席にコルジット、その向かい側の席にレイティーシアとアンゼリィヤが座る。
若い女性が、まだ少年とはいえ他人の男を馬車に同乗させたということで、座る位置に軽く揉めたが、その形で落ち着くとようやく本題へと入る。
「それで、一体どうしたの? こんなにも慌てて?」
「あっ、その、あの……」
「ちょっと待て」
コルジット慌てて説明を始めようとすると、アンゼリィヤが鋭く制止する。そして厳しい表情をしたアンゼリィヤは、少し腰を浮かせて御者席側の壁を叩く。
「おい、一体どこへ向かっている!」
「えっ?」
「ちっ」
アンゼリィヤの言葉にレイティーシアが疑問の声を上げるのと、コルジットが舌打ちをするのは同時だった。
そしてそこからは、レイティーシアには理解することが出来なかった。
「これだから、優秀な騎士サマは嫌だね」
「貴様っ!」
そんな言葉と共にコルジットがいつの間にか右手に握っていた大振りのナイフを振るったのだった。
アンゼリィヤは咄嗟に身を引き、そのナイフを避けようとしたが、体勢が悪すぎた。無理な動きにバランスを保てず、馬車の扉へと激突する。そしてさらに運の悪いことに、その衝撃で扉が開いてしまう。
「姉さまっ!!」
「っ……」
ぐらり、と扉と共に外へと投げ出されていくアンゼリィヤへ、レイティーシアは必死に手を伸ばそうとするが、あっさりとコルジットに押さえ込まれる。
そしてそのまま馬車から落ちていくアンゼリィヤは、苦痛に顔を歪め、傷口を押さえる手が真っ赤に染まっていた。
「リィヤ姉様っ!! 姉さまっ!!」
「うるさいなぁ!」
「っ……!」
開いていた扉を閉めたコルジットは、暴れるレイティーシアに苛立たしげに怒鳴る。そして血に濡れたナイフを見せつけて、にっこりと笑う。
「貴女は大人しくしていてね? レイト・イアット」
「コルジット、君……!」
「ははは、すっごい顔。そんな怖い顔しないでよ。貴女にはヒドイこと、しないよ?」
にっこりと笑いながら、コルジットは左手に持ったビンをレイティーシアの鼻先で開ける。
「ま、大人しく寝ててよ」
「一体……」
ビンからツン、とした刺激臭が立ち上ると共に、体の力が抜けていく。ずるり、と体が傾いていくのを感じながら、レイティーシアは意識を失ったのだった。




