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晴れない不協和音

作者: 藤紫
掲載日:2026/07/22

『大型で強い台風8号と9号が日本へと接近中です。台風8号は今日の日付が変わる頃にはこの地方に最接近する見込みで……』


テレビでは新人アナウンサーが、強くなってきた風の音と共に、そんな内容をマイクに乗せて伝えていた。


台風は嫌いだ。閉じ込められるような閉塞感。それに、昔から気圧の変化で体調が悪くなることが多く、今も耳鳴りを伴った軽い頭痛が、気だるさを後押ししてくる。


特に今日は、耳鳴りというより、音の聞こえ方そのものが変だった。左右差というか、右耳と左耳で聞こえる音が違っている。左耳だけ、音痴が無理してハモっているような、不協和音というか……なんだかダブルで音が響いてくる。左耳が、居心地の悪い音を作り出す装置と化してしまったみたいだった。


オレはテレビを消し、窓の外を見やった。雨が強くなってきたようだ。


『ザー、ザー……』

(シャー、シャー……)


その後、部屋の中にある生活音……冷蔵庫のモーター音、自分の足音、左腕で鈍く時を刻む機械式時計の音……それらがダブルに、少しずつズレて聞こえ始めた。


『チッ、チッ、チッ……』

(チュ……ッ、チュ……ッ……)


そのズレた音の向こうに、意味のある言葉が聞こえたような気がした。 いやいや、気のせいだろう。 そう思ったそばから、また言葉が混ざり込んでくる。 気持ち悪くなって、耳を押さえる。自身の心音までもが、左耳からは言葉になって聞こえてくる。自分の知らない誰かの思い、晴らせなかった無念な気持ち……それらが言葉になって、溢れてくるようだった。


耳を塞いだところで、意味はない。むしろ自分の鼓動がすぐそばで、言葉に変換されて響いてくるだけだ。 トク、トク、という規則的な音のはずが、左耳の中でだけ、粘度を持った何かに変わる。


「……ぃッ…ぁ、ゅ……」

「……ぅっ…、ぁぇ、ぁら……」


オレは両手をきつく耳に押し当てたまま、その場にしゃがみこんだ。誰の声でもない。いや、誰かの声のはずなのに、輪郭がぼやけていて掴めない。


窓の外で、ひときわ強い風の唸りが窓ガラスを叩く。ミシ、と何かが軋む音。 どれくらいそうしていたのか。しゃがみこんだまま耳を押さえ続けているうちに、外の風の唸りが、少しずつ質を変えていくのが分かった。叩きつけるような音から、うねるような音へ。うねりから、ただの強い風へ。


耳の中の"ズレ"も、それに合わせて薄れていった。二重に響いていた音の輪郭が、じわじわとぼやけて、片方が遠のいていく。まるで、すれ違っていた二つの音が、ゆっくりと歩調を合わせ直していくみたいに。


気づけば、風の音はいつもの台風の音に戻っていた。それでも念のため、しばらく耳から手を離せずにいた。何十分か、あるいはもっと経った頃だろうか。おそるおそる手を離してみる。冷蔵庫のモーター音は、いつも通りの単調な唸りに戻っていた。


「……台風、抜けたか」


テレビをつけ直すと、さっきの新人アナウンサーが、少し安堵した声色で8号が北へ抜けたことを伝えていた。9号は依然として接近中だが、まだ半日以上の猶予がある。


オレは詰めていた息を吐いた。気圧のせいだ。それだけのことだ。昔からある持病みたいなものだと、自分に言い聞かせる。


翌朝、頭痛と気だるさは抜けきらず、会社には珍しく休みの連絡を入れた。忙しくしていたここ数年、こんな風に強制的に予定が空くことはほとんどなかった。


することもなく寝転がったまま、スマホの画面をぼんやりと眺める。指が惰性で古い写真フォルダをスクロールしていく。仕事関係の資料、去年の忘年会の写真……その合間に、見覚えのあるウェディングドレス姿が、ふと目に留まった。


保存した記憶はある。誰かが投稿していたのを、当時なんとなく、保存した。それだけだ。それだけの、はずだった。 写真の中の彼女は、笑っていた。


名前を思い浮かべた瞬間、何年も鍵をかけていた引き出しが、勝手に開く。

友人以上の感情を持て余していたこと。

言えないまま、彼女が別の男を選んだこと。

結婚式の二次会の招待状に、返信すらしなかったこと。


そして、低気圧が暴れていた、あの日の電話。


「久しぶり」……掠れた声。夫の事業が傾いている。援助と、口利きをお願いできないか。当時のオレなら、電話一本で済む話だった。


なのに、古い疼きが持ち上がった。

……お前が選んだのは、オレじゃなかったのに。


「あー、それはちょっと、今バタバタしてて。担当の者に聞いてみるよ」


担当の者、なんて存在しないのに。

彼女は疑いもせず、電話を切った。


それから先の記憶は、断片でしか蘇らない。

うっすら繋がったままのSNS。減っていく笑顔の投稿。「今日は少し疲れた」の一言に、知人の「頑張って」というコメント。風の噂で聞いた、事業の破綻。そして……彼女が開いたという同窓会。二次会とは温度の違う、最後のかき集めだったのではないか。


オレは、呼ばれなかった。あるいは、見過ごした。 ふと、指が止まる。


……あの同窓会に出てたやつらとは、その後、誰とも連絡取れてないな。


思考は、そこで止まった。ただの偶然だろう。

外では、テレビが台風9号の最接近予報を伝え始めていた。

思考が止まった、その隙を突くように。 左耳の奥で、何かが軋んだ。


「……え」


反射的に耳を押さえたが、もう遅かった。冷蔵庫のモーター音が、また二重に聞こえ始めている。8号の夜と同じ、ズレた響き。だが、何かが違う。あの夜は、ただ気持ちの悪いノイズだった。今は……輪郭が、ある。


『ザー、ザー……』

(…た…け、……)


窓の外では、9号の風が唸りを上げ始めていた。テレビの中の新人アナウンサーの声も、心なしか、ずれて二重に聞こえる。 オレはテレビを消した。消したところで、意味がないことは分かっていた。 足音。一歩、二歩。フローリングを踏む音のはずが、左耳にだけ、余計な"もう一つの音"が重なって届く。まるで、誰かが半歩遅れて、同じ場所を踏んでいるような。


(……たすけ、て……)


はっきりと、聞こえた。 体温が引いていくのが分かった。8号の夜は、ここまで明瞭じゃなかった。言葉と呼べるかどうかも怪しい、ただの不協和音だったはずだ。それが今は、意味を持って、こちらに届いてくる。


「気のせいだ」

(…ギノゼイダ……)


声に出して、自分に言い聞かせる。だが、その自分の声すら、左耳では二重に響いた。まるで、自分の言葉が、自分のものでないみたいに。


……たすけて。 ……なんで。 ……知ってたくせに。


耳鳴りに紛れて、それらの言葉が、少しずつ形を成していく。誰の声か、もう分かっていた。分かりたくなかった。


心臓が、耳の中で暴れる。トク、トク、という音が、また粘度を持った響きに変わっていく。今度は、はっきりと理解できた。


これは、彼女の声じゃない。 ……正確には、彼女の声だけじゃない。

これは、あの電話の夜、オレが彼女に返した言葉だ。


「今バタバタしてて」「担当の者に聞いてみるよ」


……あの軽い、逃げの言葉。それが今、彼女の声を纏って、こちらに返ってきている。


なぜ、彼女の声で。

考える暇はなかった。左耳の奥に、鈍い痛みが走ったからだ。虫歯のような疼きではない。もっと深く、耳の穴のずっと奥……鼓膜の、さらに向こう側で、何かが蠢いている感触があった。


指を耳に入れる。濡れていた。引き抜いた指先を見ると、透明な液体が糸を引いた。


耳の奥で、声が続く。地名だろうか、聞き覚えのない場所の名前。誰かへの呼びかけ。「ごめんね」という、誰に向けたかも分からない謝罪。


自分の呼吸の音にすら、もう一つの呼吸が重なっているのが分かった。吸って、吐いて……そのわずかな間隙に、自分のものではないタイミングで、もう一つの息継ぎの音が入り込んでくる。誰かが、すぐ耳元で、こちらの真似をしながら息をしているような。


……ああ。


理解、と呼べるほど明確なものではなかった。ただ、耳の奥の蠢きが、ぴたりと止まったのが分かった。何かが、聞くべきものを聞き終えて、満足したみたいに。


彼女が、あの後どうなったのか。同窓会で何があったのか。すべてを言葉にして知ったわけではない。それでも、"分かってしまった"という感覚だけが、確かに、体の奥に落ちてきた。



その瞬間だった。



左耳のズレが、ふっと"同期"した。 冷蔵庫のモーター音、風の唸り、自分の足音、心臓の鼓動……そのすべてが、一斉に、あの夜の音に上書きされていく。


『ザー、ザー……』という雨音は、いつからか、電話越しに聞いた彼女の掠れた声に変わっていた。


「久しぶり」


もう、テレビは点いていない。時計を見る余裕もない。今が何年の、何月の、何日の夜なのか、分からなくなっていく。 オレは、あの夜の部屋にいた。あの時と同じ姿勢で、同じ電話を、耳に当てている。


違う。今度は、違う言葉を言うんだ。 分かっている。分かっているはずだった。


「助けるよ」でいい。

「任せろ」でもいい。

何でもいいから、あの時と違う言葉を…… 顎を動かす。

舌を動かす。

喉の奥から、何かをせり上げようとする。


「た……」


助ける、と。そう言おうとしたはずだった。


「た、す……」


けど、続かない。

まるで喉に見えない手がかかっているみたいに、言葉が途中でせき止められる。

オレのはずなのに、オレの意思では動かせない。

もがけばもがくほど、喉はきつく締まっていく。


もう一度。今度こそ。


「た……す……」


だめだ。声にならない。

頭の中では叫んでいるのに、口からこぼれるのは、意味を成さない音の断片だけだ。

指先が震える。

電話を握る手に、力を込める。込めたところで、何も変わらない。

分かっているのに、言えない。

言おうとするたび、喉の奥から迫り上がってくるのは、結局同じ形をした言葉だった。


「あー、それはちょっと、今バタバタしてて」



雨の音は続いている。


時計の音は、



……聞こえなくなった。


最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

同じ「夏のホラー2026」企画で、もう一作『何かお手伝いしましょうか?』も書いています。同じ「音」というテーマでも、まったく違う怖さになったと思います。よろしければ、そちらもどうぞ。

またどこかで、お会いできますように。

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