破り捨てられた原稿の雪
一条零士は、かつて娯楽小説の旗手と呼ばれた男だった。
デビュー作から三作まで、どれもが読者の心を鷲掴みにした。軽快な筆致で描かれる人間模様は、笑いと涙を同時に誘い、書店に並ぶや否や売り切れ続出。誰もが「これが一条零士だ」と頷いた。
四作目の執筆を前に、彼は一通のメールを受け取った。
「一条先生の作品には、娯楽を超えた深みがある。ぜひ、純文学の領域へ挑戦してみませんか」
編集部の熱い誘いだった。担当編集者・片岡忍の言葉が、メールの端々に滲んでいた。
一条は迷った。いや、迷うというより、胸の奥底で何かが疼いた。新たな挑戦。娯楽の仮面を脱ぎ、自分の中に眠る「本当の言葉」を暴き出すこと。
「やってみるか」
そう呟いて、彼は引き受けた。
それから半年。
一条零士の日常は、静かに、しかし確実に変わっていった。
毎朝、机に向かう。だが、指は動かない。頭の中に浮かぶのは、いつもと同じ軽やかなシーンではなく、重く澱んだ感情の塊。登場人物の内面を掘り下げようとすればするほど、言葉は逃げていく。抽象的な表現が並び、具体性が失われる。読者に「考えさせる」ために書いているはずなのに、自分自身が何を考えているのかわからなくなる。
夜になると、苛立ちが募った。酒を煽り、煙草を灰に変え、原稿用紙を破り捨てる。破り捨てた紙の山が、部屋の隅で雪のように積もっていく。
「俺は、こんなもの書きたかったのか?」
鏡に映る自分に問いかける。かつての笑顔はどこへ行ったのか。目だけが、異様に充血していた。
片岡忍は、そんな一条の変化を、遠くから見守っていた。
編集者として、彼は知っていた。純文学への転向は、多くの作家を苦しめる。娯楽のスピード感に慣れた筆が、突然「深み」を求められると、息が詰まるのだ。
だが、それでも片岡は思う。
苦しみこそが、小説の魂になる。
一条零士が今味わっている痛みは、無駄ではない。むしろ、それこそが彼の四作目を、ただの「面白い小説」ではなく、「残る小説」にするための、必要な試練だと信じていた。
今日も、片岡は一条の自宅兼仕事場へと向かう。
インターホンを押す前に、彼は深く息を吐いた。
「先生、今日も……生きてますか」
ドアの向こうから、物音が聞こえた。




