第7話 そんなはずない
次の日、出社した私は足を止めた。
「おはよう、望月さん」
エントランスでばったり出くわした桐生さんが、いつも通りの爽やかな笑顔で声をかけてくる。
「お、おはようございます」
昨日の出来事が頭をよぎり、まともに目を合わせられない。
挨拶だけを済ませると、私はさりげなく視線を外し、足早に歩き出した。
あれ? おかしいな。あれは夢じゃないよね……?
首をひねりながら進んでいると、背後から足音が近づいてくる。
「昨日は楽しかったね。今度は、ふたりで食事でもどう?」
いつの間にか肩を並べる位置まで来ていて、彼は気軽に声をかけてきた。
なに?
なんでこんなに馴れ馴れしいの。
やっぱりモテる人ってこういうことに慣れてるのかな。
このままエレベーターに乗ったら、彼も当然のようについてくる気がした。
そうなったら、ずっと話しかけられるかもしれない。
しかもその様子を女性社員たちに見られでもしたら――あとで何を言われるか想像しただけで、血の気が引いた。
そうだ。
思いついた瞬間、私は進路を変えた。
エレベーターを避け、階段へ向かう。
会社には立派なエレベーターがあり、そちらを使う人がほとんどだ。見かけるのは、せいぜい掃除のおばちゃんくらい。
建物の隅にひっそり佇む非常階段。
私自身も滅多に使わないけれど、背に腹は代えられない。
目の前にそびえるそれを見上げ、しばし立ち止まる。
ここから地獄が始まる。私の部署は十一階。
朝からかなりの重労働だ。普段ほとんど運動していない私には、正直きつい。
……まあたまにはいいか。運動不足だったし。
「よし、行くか」
気合を入れて一歩踏み出した――その瞬間、背後から声がした。
「ねえ、どうして今日は階段なの?」
どこか間の抜けた声音。
嫌な予感におそるおそる振り返ると、やっぱりそこにいた。
「き、桐生さん! あなたこそ、なんでこっちに?」
絶対に来ないと思ったのに。
なんで付いてきてるのよ。
私が目を丸くすると、彼はにこりと笑った。
「だって、望月さんがこっちに来たから」
そう言って、当然のように私の横に並ぶ。
「……へ?」
呆然と見つめる。
なにを考えているのか、さっぱりわからない。
でも……まあいいか。これ以上逃げる場所もないし、階段なら誰にも会わないだろう。
わざわざここを使う人なんて、掃除か運動目的くらいしかいない。
彼がどういう意図でここまでついてきたのか。
さっきからのフレンドリーすぎる態度も含めて、謎は尽きない。
けれど、にこにこと微笑みかけてくる彼を前に、何か言い返す気力はもう残っていなかった。
そのまま階段をのぼり始めると、桐生さんも当たり前みたいに隣を歩きはじめた。
ちらりと横を見ると目が合ってしまい視線を逸らした。
しばらく無言のまま進んでいると、桐生さんが口を開いた。
「ねえ、もしかして俺、避けられてる?」
核心を突く言葉にぎくりとする。
うーん、正解だけど。正直に言うのも違う気がするし、桐生さんが悪いわけでもない。
これは完全に私の問題だ。
「いえ、別に」
前を向いたまま、足を止めず上へ向かう。
「そうかなあ。俺、なにかした?」
少し間を置いて、思い当たったように続けた。
「あ、あれかな。俺が君にナンパしてるように思った?」
軽い調子で聞いてくる。
桐生さんって、もしかしてチャラいのかな。
どうしてそこまで気にかけてくるのか。
不思議でしかたなくて、私はぴたりと立ち止まり、振り返った。
桐生さんも驚いたように立ち止まり、まっすぐこちらを見る。
「ナンパじゃないなら、なんでそんなに構うんですか?」
「え、変……かな」
きょとんとした表情で首をかしげ、純粋そうな瞳を向ける。
「俺としては、ただ君に興味があるんだけど」
それが、わからないのよ。
「それはどういう意味ですか? 私が珍しいタイプだからですか?」
一度、短く息をつく。
「それは、そうかもしれませんね。あなたみたいに女性から人気のある男性には、縁がないタイプでしょうから」
そう言って、ぷいと顔を背ける。
「桐生さんからすれば、珍しくて、興味が湧くのかもしれないですね」
なぜかわからない。無性に腹が立った。
彼みたいな男性が私なんかに興味を持つはずがない。ずっと、そう思って生きてきた。
だから傷つくことなんてないはずだったのに。
それでも、やっぱりそうなんだと突きつけられると、少しだけ落胆してしまう。
認めたくないけど。
本当はこういうことには慣れているはずだった。
なのに、少し気を抜くだけで心の隙を突かれる。心って本当にやっかいだ。
だから人と深く関わるのは好きじゃない。
惑わされて、かき乱されて、傷つくだけだから。
黙り込んでいると、桐生さんが私の前に回り込んだ。
間近で見る表情はどこか焦っている。
「いや、そういう意味じゃなくて。本当に君のことが気になるんだ」
言葉を探すように考え、首を傾げる。
「うーん、伝わらないかな?」
困ったように眉を寄せたあと、ふっと真面目な顔になった。
「じゃあ、はっきり言うね。君に好意がある」
その瞬間、空気が変わった。
私はぽかんとしたまま彼を見つめる。
いま、なんて言った?
好意があるって……?
「えっ、うそっ」
「うそって、どうしてそう思うの?」
柔らかく笑い、穏やかに告げた。
「望月さんは魅力的だよ」
信じられないものを見るみたいに、桐生さんを見つめ返す。
なに、なんなの、この展開。
会社ではエリートで、仕事もできて、女子社員から人気のあるこのイケメンが、私に好意?
そんな、ありえない話が。
じっと見つめていると、桐生さんは照れたように少しはにかんだ。
「そんなに見つめられると、照れるなあ」
その顔がやけにきらきらして見えて、鼓動が早まる。
もう、無理。
私はその場から逃げ出した。
彼と二人でいることが、耐えられなかった。
恥ずかしすぎる。心臓が、おかしいくらいに鳴っている。
だって、初めてだった。
男性から好意があるなんて言われたのは。しかも、あんな素敵な人に。
これは夢だ。そうに決まっている。
でなければ、からかわれているだけ。
頭の中でぐるぐる考えながら、私は全速力で階段を駆け上がっていった。




