第2話 はずだった
――と、思っていたのに。
結局彼はその後、同じ部署で働くことになった。
彼の名前は桐生颯真。三十二歳。
どうやらこの会社の社員だったらしく、今日からこの部署に配属されるらしい。
桐生さんは仕事がとてもできる人で、部長いわく、あの営業部で好成績を残した“期待のエース”なのだという。
ふと、疑問が浮かぶ。
そんな彼が、なぜこの部署に? ……謎だ。
まあ、でも。
見るからに頭も切れそうだし、営業だけでは物足りなくて、企画開発にも携わってみたいと思ったのかもしれない。
* * *
彼がこの部署にやってきてからというもの。
仕事がはかどらない。
女性社員たちは桐生さんに首ったけ。
仕事もそっちのけで彼の後を追いかけたり、媚びを売ったり。いったい何をしに会社へ来ているのだろう。
その後始末は自然と私に回ってくる。だって私はいつも通りだから。
……ほんと、なんなの。勘弁してほしい。
ため息をひとつ吐いてから、桐生さんの方へ視線を向ける。
相変わらず爽やかな笑顔を振りまく彼の周りには、今日も女性たちが群がっていた。
ふん。顔がいいからって、何よ。
……まあ、仕事ができるのは認めるけど。
一緒に仕事をしていて、よくわかった。彼はかなり有能だ。
いくつもの仕事をそつなくこなし、指示も的確。いつ、なにを、どうすればいいのか。
彼の意見はとてもわかりやすいし、渡される資料も明快だった。
何も文句は言えない。
それに加えて、人間関係においても彼は超優秀だった。
常に周りへの配慮があって気配り上手。細かいところにもよく気が付くし、さりげない優しさがある。
こちらも文句なし。
でも、やっぱり納得いかない。
彼のせいで、私の仕事が増えている。桐生さんにうつつを抜かす女性社員たちの仕事が、そのまま私への負荷になっていた。
なんで私がこんな目に。
恨みを込めて彼の顔をにらみつけたそのとき。
桐生さんと、ばっちり目が合ってしまった。
やばっ。
視線をそらす。
そんなことの繰り返しで、なぜかよく目が合ってしまう。
……なんでだろう?
彼はよく周りを見ているってことなのか。さすがだ。
それにしても。
目を逸らしてばかりで失礼かな? と少しだけ心配になる。でも結局、話しかけることはできなかった。
あんな目立つ人に私が話しかけた日には、女性たちからどんな目で見られるかわからない。
恐れ多くて、業務以外では極力関わらないようにしていた。
でも、確かに、目の保養にはなるよね。
だって、あんなに格好いい男性、そうそう近くで拝めるものじゃない。
これは内緒だけど。毎日遠くからそっと眺めている。
私にだって癒しは必要なのよ。
イケメンを見れば、ちょっとだけウキウキもする。
それからもなぜか彼とはよく目が合った。
私が見ているから……? いや、彼が周りをしっかり見ている証拠だ。
やっぱり、優秀だな。そうひとりで感心する。
まさか彼のような人が、私に興味を持つなんて――
思うわけがない。
そんなある日のこと。
「ねえ、望月さん。今日って予定は空いてる?」
「え?」
突然話しかけてきた女性社員を、私は呆然と見つめた。
彼女は佐々木さん。
とても明るく快活な女性で、私とは正反対のタイプだ。同じ部署ではあるけれど、仕事以外で話したことはほとんどない。
不意の呼びかけに戸惑い、視線を彷徨わせながら答える。
「あ、空いてるけど」
予定なんて滅多にない。会社が終われば、いつもまっすぐ家に帰るだけなのだから。
佐々木さんは、期待するようにこちらを見つめた。
「じゃあ、今日の帰り、合コンに参加してほしいの」
ご、合コン……。
私の辞書には存在しない単語だった。行ったこともなければ、誘われたこともない。
「え、あの……私でいいの?」
恐る恐る尋ねる。なぜ私なのか、理由が思い当たらなかった。
佐々木さんは眉を寄せ、両手を合わせてお願いのポーズを取る。
「今日行く予定だった子が、急な用事で来られなくなって。ほかの人にも声をかけたんだけど無理で……一人、どうしても足りないの。お願いっ」
その説明を聞いて腑に落ちた。
人数合わせか、なるほど。それならわかる。
私で役に立つなら、と小さく頷く。
「いいよ。特に予定もないし」
そう答えると、佐々木さんの顔がぱっと華やいだ。
「ほんと? よかったあ、ありがとう。それじゃあ午後七時にここに集合ね!」
そう言って一枚の紙を手渡し、くるりと背を向けて颯爽と去っていった。
私は手元に残ったチラシを見下ろした。
会社の近くにある居酒屋らしい。
名前は知っているけど、一度も足を運んだことはない。前から少し気になっていた店だったからちょうどよかった。
どんなメニューがあるんだろう。どうせ誰にも絡まれないだろうし、隅の方で静かに食事を楽しもうかな。
そんなことを考えながら、少しだけウキウキした気分で残りの仕事に取りかかった。
午後六時。無事に業務終了。
チャイムが鳴ると同時に、同じ部署の女性たち数人がそそくさと部屋を出ていく。
合コンに行く人たちかな。
そんなに急がなくても間に合うのに。待ち合わせの居酒屋は、会社から歩いて十分ほどだ。
家に帰るほどの時間もないし、少し休憩してから向かえばいいか。
私は伸びをしながら、のんびりそんなことを考えていた。
午後七時前に、合コンが開かれる居酒屋に到着する。
店は「居酒屋」とはいえ、今風でお洒落な雰囲気だった。
暗い木目の外壁に、小さな真鍮のプレートが掛かっている。店の名前は「菜音」。
文字は墨で書いたように柔らかく、足元では細い竹が揺れ、石灯籠のような照明がやさしく灯っていた。
……情緒があるな。
癒される、なんて思いながらふっと息をつく。
なんだか不思議。
会社の外で会社の人と会うなんて、初めてかもしれない。そう思った途端、少し緊張してきた。
扉を開けて暖簾をくぐり、一歩足を踏み入れた瞬間――
見覚えのある背中が目に入った。
え?
この立ち姿……もしかして、桐生さん?
思わず立ち止まってじっと見つめていると、その人物がゆっくりと振り返った。
「あ……」
彼の瞳が大きく見開かれた。




