017.社会科見学編-8
職場体験開始からちょうど五日が経ち、加藤たち三人は日々の訓練と巡回に慣れつつあった。
また、最初の異常存在との接触で生き延びたことで、彼らの間にはある種の連帯が生まれていた。
とはいえ、慣れとは恐ろしいもので、加藤は今日も別の意味で震えていた。
「レポート課題、まだ終わってない……俺、観測報告書を十五行も書かなきゃいけないのに、まだ三行……」
「うるさいよ、加藤くん。昨日も宿題がーって泣いてたじゃん」
夏目は床に座り込みながら、ポテチをかじっている。勤務中にもかかわらず、靴は脱ぎ散らかされ、完全にくつろぎモードだ。
そして加藤の横では氷呉は黙々と端末に何かを打ち込んでいた。
「明日、γ-05区画の再調査入るぞ」
「え、マジで……? γ系とか……また出るんじゃないの!?」
「霧の濃度が基準超えてるからなァ…、たぶん出んぞ」
「うわああああああ!! 俺、今日で辞める!!」
「職場体験だろーが。辞めるほど働いてねぇよ、アホ」
「何か当たり強くない?」
そんな日常の中、ふと警報のような音ではなく、妙な耳鳴りが加藤の中に響いた。音は頭に干渉し、芯がきゅっと締めつけられるような痛みが走る。
「う……あれ、なんか気持ち悪……」
額を押さえて蹲った加藤を見て、夏目と氷呉がすぐに駆け寄った。
「加藤くん?」
「……霊障反応か?」
「わ、わかんない……耳の奥が響いて、なんか……声、聞こえた気がする……」
「声?」
加藤は震えながら口を開いた。
「境界が崩れるって……誰かが、言ったような……」
その言葉を聞いた瞬間、氷呉の顔が強張る。それは夏目も同じだったようで、二人は目を見合わせた。
「夏目。区域スキャン確認しろ」
「おっけー。……あー、マズいかも」
「は?」
夏目がモニターを指差すそこには……完全なる異常値。
霧の濃度、観測される歪曲率、空間の座標値。どれも逸脱のラインを超えていた。
「γ-05区画、急激に異常化してるね〜。虚界の波動、観測データの閾値越えだぁ」
「加藤の反応……まさか、共鳴か?」
「え、えっ、俺!?」
そこへ雲居が部屋へ飛び込んでくる。
「おい、お前ら! γ-05の境界が崩れかけてる。最低限の調査員と交代で入るぞ」
「指導官、僕らも行くんですか!?」
「行く。……ただし、今回は加藤、お前が鍵になる可能性がある」
「なんでぇぇぇえええ!?」
現場へ向かう中、加藤は状況を整理できないまま頭を抱えていた。
(俺、何か……反応してる? 共鳴ってなに?)
現場に着くと、すでに霧が厚く立ち込めており、視界は三メートル先も危うい。
耳鳴りが強くなる。加藤にだけ周囲の空気が震えて感じられた。
「加藤、前に出ろ」
「えぇっ!?」
「お前だけが感じられる何かがあるなら、それに従ってみろ。俺たちがサポートする」
怖い。そんな感情が加藤を包んでいた。だがやがて覚悟を決めると、加藤は少しずつ前に出る。そして、ふと霧の中に誰かの気配を感じた。
「誰……?」
声をかけると、そこにいたのは人影のような、ただの闇だった。形が曖昧で、顔もない。ただ……問いかけてくる気配だけがあった。
(境界とはなにか、お前は知っているか)
「え……?」
(命と死、現実と虚界。意味の狭間。そこに立つ者……お前はそれを選んだ)
「俺は、そんな……選んだ覚えなんて──」
(選ばれた者に、選択肢はない)
ズンッ──と、胸の奥に圧迫感が走った。それは問いでもあり、呪いのようでもあった。
「やめろ……っ!」
加藤は叫ぶと同時に咄嗟にスコップを構え、足元の大地を叩いた。地面が鳴動し、大地の律動とともに因果を定着させる力──《地脈拘束》が発動する。
震える地面から、淡く光る岩の帯が広がり、空間を束ねた。混濁した虚界の波動に重力と秩序が与えられ、揺らぎが押し戻される。
闇はわずかに後退した。そしてやがて、霧が晴れる。
「今のは──」
「お前の能力だ」
氷呉の声に我に返る。
──《大地因果固定》。揺らぐ空間に「固定概念」を与え、起きた現象を地に足のついた現実として確定させる力。
混乱した虚界の波動を安定させるその力は、まさに外界調査官にとって最適だった。
知らぬ間に異常存在は後退し、空間の歪みは収束していた。
霧が消え、やっと現場は静寂を取り戻す。
「……やった?」
「お疲れさま、加藤くん。……さすが選ばれし新人だね〜」
「いや俺、そんな選ばれてないよ! なんか流れで頑張っただけで!」
叫ぶ加藤に、夏目と氷呉が笑った。後ろで見守っていた雲居もまた、深く頷いた。
「……加藤、見込みありだな」
そしてその日の夜。
「……加藤くんさ」
「ん?」
「やっぱり、ちゃんと調査官になれると思うよ。怖がりだけど」
「フォローになってないよそれ!」
(俺はたぶん、怖いまま進むんだ。でも──)
それでも、誰かを守るために。
それでも、みんなが幸せを見つけられるように。