016.社会科見学編-7
翌朝、加藤貴志は頭を抱えていた。文字通り、両手で頭を抱えながら机に突っ伏している。
「……これ、何枚書けば終わるんだろう……」
机の上には報告書、補足報告書、外界異常記録、個人心理影響報告の用紙が積まれている。加藤の魂は完全に書類に押し潰されかけていた。
「なんで見習いなのに、こんなに仕事多いの!?」
「うん、たしかに多いよね〜。見習いって、もっとコーヒー運んだりするだけじゃないの?」
椅子を後ろ向きにして座る夏目が、ひらひらと記録用紙を扇代わりにして涼を取っている。
「お前は書けよ!? 俺ばっかり頑張ってんじゃん!」
「俺は文章書くと人格変わっちゃうから〜、向いてないの。詩的になっちゃうから」
「問題の方向性が芸術的!! てか、一ノ瀬は?」
視線を向けた先の一ノ瀬はというと、すでに三枚目の報告書を清書中だった。字は綺麗で、言葉選びも正確だ。
「……これ、昨日の波動記録の数値にズレがあんぞ」
「まじで……」
完璧超人だ。加藤は己の未熟さをひしひしと痛感する。悄気ている加藤が負のオーラを放っていると、扉が無言で開いた。
現れたのは、あの鬼教官──雲居。
「加藤、夏目、一ノ瀬。今すぐ中庭へ来い。緊急だ」
「緊急……?」
「また未確定存在っすか……?」
「いや、違う。今回は──お客だ」
*
中庭。
その中央に一人の少女が立っていた。
年の頃は十五、六。薄い金髪が風に揺れ、制服のような黒のワンピースに、鋲付きのチョーカー。目元には黒い涙袋のような化粧。明らかにこの施設の人間ではない。
「……え、誰?」
加藤がぽつりと呟いた瞬間、一ノ瀬が言った。
「違う。あれは人間じゃない」
「え?」
「あれは、波動を持っていない。……でも存在している。観測されることを前提にした構造体だ。つまり──虚界由来の存在だ」
静寂が走る。
その時、少女がふとこちらを見て微笑んだ。
「やっほー、こんにちは。ここのリーダーって、誰?」
「なにこのフランクな侵入者!?」
「俺じゃないよ〜」
「俺でもないです、俺は見習いなので!」
雲居が前に出て、少女と向き合う。
「……所属と目的を答えろ」
「所属? うーん、ないよ?」
「では名前は?」
「あるけど、言っても意味ないと思う。どうせ覚えられないし」
「ふざけるな」
少女が小首を傾げた。
「ふざけてないよ。ただ、名前って“記憶”に依存するじゃん? 私って、記録に残らないからさ。ここを出たら、どうせみんな忘れるよ」
「記録されない存在……お前、ノン・タグか」
「うん、たぶんそれ」
加藤の頭が混乱する。
「ノン・タグ? タグなし?」
「虚界系の存在の中でも、“識別”されないやつ。名前、形、波動、すべて不定で、記憶に残らない。干渉はできるけど、記録できない。最も対話が困難な未確定存在だ」
「そんなのが、なんで喋ってんの!?」
少女は無邪気な笑みを浮かべた。
「話しに来たの。お願いがあって」
「……お願い?」
「観測やめてくれないかなーって」
その言葉に空気が一変した。雲居ですらわずかに目を細めて、警戒態勢をとった。
「観測をやめてくれ? それは虚界全体の意志か?」
「ううん。あくまで、わたしの話」
「では交渉は意味を成さない」
「だよねー」
その瞬間、少女が空中で指を鳴らした。音と共に周囲の空間がゆっくりと歪む。
地面が上へ、空が下へ……世界の上下がひっくり返るような感覚が、加藤たちの脳を揺さぶった。
「うっ……頭が……」
「重力が……おかしい……!」
レアーが即座に姿を現し、加藤を庇うように立った。
「退がれ! これは“概念反転”の類じゃ! 世界の常識を逆転させる力……!」
「おいおいおい、またヤバいやつ出たぞ!!」
しかし、加藤以外は一歩も引かない。氷呉は静かに短剣を抜き低く構える。夏目も待ってましたと言わんばかりに小さく折りたたまれた槍を取り出した。
「加藤、お前は下がれ。……交渉の余地はない」
「敵意はなさそうだけど、ごめんね〜」
夏目が呟いたその時、少女はふと顔を伏せた。
「……なんでこんなに探されてるのかな、私たちって」
「……」
「ただ……向こうから来ただけなのに。意味が狂ってるとか、構造が異質とか、概念が合わないとか……そんなの最初から分かってた。でも、居場所くらいあっていいじゃん」
そう語る少女の表情は寂しげだった。人を放っておけない性格の加藤は、無意識に一歩前へ出る。
「……君は、帰りたいの?」
かけられたことのないほど優しい声に、少女ははっとしたように加藤を見た。
「──うん。君も一緒に……」
その時、背後から警報が鳴り響いた。
警告:ノン・タグ存在の侵入を確認。観測システムが異常状態に移行します。
上空、観測用のホログラムが歪み、裂けるように破壊されていく。
「おい、加藤!」
「くっ……!」
少女がすっと後ろへ引き霧と共に姿を消したと共に、空間の歪みは元に戻り、地面が正位置へと落ち着く。
だが、観測装置は完全に破壊されていた。
数時間後、作戦本部。
加藤たちは、雲居の前に正座していた。
「……つまり、会話したけど、観測装置ぶっ壊されて終わった、ってわけだな?」
「はい……でも、敵意はなかったと思います」
加藤が、ぽつりと呟いた。
「ただ……虚界の存在が、存在していいのかって、自分で分からなくなってる感じがして……」
雲居はしばらく黙っていたが、やがて腕を組んで言った。
「──今後、虚界からの来訪者が増えるかもしれん」
その言葉に、三人の視線が交錯した。やがて夏目が言う。
「加藤くん、やっぱ君って、面倒事を引き寄せる星のもとに生まれてるよね〜」
「何その運命!? 星変えて! 頼むから!」
「もう遅い」
「そんなああああああ!!」