012.社会科見学編-3
重く、軋むような鉄の扉が閉まる音が、警報の余韻と共に遠ざかっていく。
指導官・雲居が去った監視室には、加藤・夏目・氷呉の三人だけが残されていた。
「……だから行かないって言ってるだろ、俺は!」
加藤は両手を振って必死に拒否の姿勢を見せるが、夏目は気だるげに立ち上がりながらのびをした。
「じゃあ、置いてくよ〜?」
「待って! なんで行くのが前提なんだよ! 待機って明確に言われたよね!?」
「いや、あいつらが戻ってこない前提の声だったからさ〜」
さらっと恐ろしいことを言う夏目に、加藤の顔色がさらに青くなる。
それを横目に、氷呉は備品ロッカーから簡易の調査キットを無言で取り出し、腰にぶら下げた。
「おい、一ノ瀬! お前まで!?」
「行く。あの反応、ただの霧じゃねぇだろ。嗅いだことのない“音”がしてた」
「音を嗅ぐなよ! てか音の形容じゃないだろそれ!?」
加藤の絶叫も虚しく、二人は準備万端といった様子で扉の方へ向かっていく。渋々立ち上がった加藤は、自分の肩に指を押し当てながら、涙声で呟いた。
「……レアー、いる?」
「ここじゃ。さっきからずっとおるわ」
肩越しに現れたレアーは、ようやく寝癖を整えたらしく、清楚な銀髪をゆるく三つ編みにまとめていた。
「レアー、あのさ。俺、本当に……こういう危険任務とか、無理なんだけど」
「ならば、何故“外界調査官”などという危険職に配属されたのじゃ?」
「知らないよ! 俺はサラリーマン見学に来たはずだったのに、気づいたら変な施設にぶち込まれてたんだよ!!」
「うるせぇ」
氷呉の一蹴で会話は強制終了。
気がつけば、三人はすでにγ-03区域へと通じる通路を歩き出していた。
◆
通路を抜けた先は、霧が一面を覆う湿地帯だった。天井は高く、外界に近い構造らしい。薄明かりが霧に包まれて揺らめいている。
誰かの息遣いが、妙に大きく響く。霧の中には時折、人型の残像がちらついた。
「……なぁ、あれ。人影に見えるの、俺だけ?」
「見えてる。けど、あれは視認するだけで発狂する類の奴じゃない」
「怖すぎだろそれ!!」
レアーが加藤の背後に現れ、ぎゅっと裾を掴んだ。
「加藤、安心せい。我は“護り”に特化しておる。お主が本気で命を危ぶむことはさせん」
「レアー……頼もしすぎて惚れそう」
「死んだ者が恋しても叶わぬぞ」
「うっせぇな! 生きてるって言ってんだろ!!」
そんなふざけたやり取りの間にも、異変は着実に近づいていた。
突如として、霧が音を伴って脈動する。ぴちゃ……ぴちゃ……という、液体のような音が周囲から忍び寄ってくる。
夏目が無言で、掌から冷気を流した。霧がわずかに凍り、輪郭が浮かび上がる。
そこには──輪郭のない何かがいた。
靄のようなそれは、形が定まっていない。人の顔、獣の足、無数の目、叫びのような口。見るたびに姿が変わるそれが、霧の中からぬっと現れた。
「お、おい、嘘だろ……これ、本物の怪異じゃねぇか……」
「お前、黙ってろ。視線を逸らすな、けど正面から見続けるな」
「無理難題すぎる!!」
氷呉の瞳が淡く光を帯びる。彼の能力《光》が、視界を照らし、怪異の輪郭を意図的にぼかす。
「見えすぎると狂うからなァ。だから見えないように整えてやるよ」
氷呉の足元から螺旋状に光が走り、怪異の周囲に照明の輪を作った。レアーもまた、加藤の前に立ち、腕をかざす。
「《盾壁・純光》……この霧を裂くぞ!!」
白く柔らかな光の壁が加藤を包み込む。夏目も凍気で足場を固め、怪異の動きを鈍らせる。
──そして。
怪異が、顔らしき何かをこちらに向けた。
「ぎ、ぎゃああああああああああ!!!」
「加藤、うるせぇ。黙ってろ」
「怖いもんは怖いんだよ!!」
その時だった。
霧の中、別の方向から走る足音がした。
「雲居……先生!?」
加藤が叫ぶと同時に、白衣姿の雲居が銃を構えて姿を現す。
彼は無言で照準を合わせ、怪異の中心──どこが中心かも不明な部位に向けて、躊躇なく引き金を引いた。閃光弾のような炸裂音と共に、怪異の影が一瞬、強く揺れる。
「後退しろ! 今のうちに!」
雲居の怒鳴り声と共に、三人と一体は一斉に後退した。
霧が晴れた。異様に歪んだ空間の感触も徐々に薄れていく。
それでも、加藤の手はまだ震えていた。地に伸ばしていた両手を、そっと膝に引き寄せる。土の匂い。汗の匂い。恐怖の名残を吸い込んで、彼は大きく息を吐いた。
「……本当に、終わった?」
誰にともなく問いかけた声に、氷呉が淡々と頷く。
「あぁ、消えた。でも……また来るかもな」
「えええ!? やだやだやだやだ!! 俺、もうこの仕事辞める!!」
加藤はその場にぺたんと座り込み、手をばたつかせた。夏目が無言でその隣に腰を下ろし、持っていた飴玉を一つ口に放り込む。
「お疲れ〜。初出動でこれなら、そこそこやれるよ、加藤くん」
「俺はやれない!! あれ絶対ヤバいやつだって!! しかも守護神、呼んだのに出てこなかったし!! レアー!? なんで来なかったの!? あれマジで死ぬやつだよ!!」
「封鎖区域だって言ったろ。精神リンクが通らないんだ」
氷呉の言葉に、レアーが空間の歪みからようやく現れた。寝癖はそのままで、眠そうに目を擦りながら加藤に寄ってくる。
「すまんのう、主を置いて……寝てた」
「寝てたあああああ!?」
「そもそも干渉できんかったのじゃ。虚界は、我ら守護神の領域の外じゃからの……見守ることしかできぬ」
「ぐぬぬぬ……! 俺の命、めっちゃ危うかったんですけど!? 慰めてくれてもいいんじゃない!?」
「よしよし」
雑に頭を撫でられ、加藤はすっかりやる気を失ってぐでんと倒れ込んだ。
「つかれた……帰って風呂入りたい……」
「だーめーだーよー、報告しないと〜」
夏目がひょいと加藤のフードを引っ張りながら、というより引き摺りながら歩く。そこへ重く響く足音と共に、件の指導官・雲居が姿を現した。
「……お前ら、勝手に動いたな?」
その目に宿るのは怒りか、それとも評価か。
「す、すみませんでした!! 氷呉と夏目が止めても聞かなくて! あああああ!」
「連帯責任だよ〜」
「何で!?」と突っ込む加藤に構わず、雲居は三人を一瞥し、淡々と言った。
「……話はあとだ。とにかく戻るぞ。全員、報告室に集合」
「は、はい……」