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1.愛

 愛というのは彼我の想定しているよりもずっと重たいもので、恋とは違って、無限大の重みを有することがある。それはまさに人間関係の特異点であり、ひいては人間世界の特異点でもあるわけで。一夫多妻でも、一妻多夫でも、それ以外の形態でも、別に構わない。現世でその人と関係を持って、その関係だけは、たとえ神の審判の前でも在り続ける、だから教会で、神父さんの前で、誓うのかしら?あなたと私の間にできた、この愛の永遠を。


 私はあなたに会う以前にどういう風に生きてきたのか、少し忘れてしまっている。数年前に書いた日記の内容をふと目にした時に、

「私、こんなこと書いたかしら」

と細かなことは僅かにも思い出せずいるような、脳みそを直接に掻きたくなる、むず痒い感覚。大雑把な風景だけが脳裏に浮かぶ……。

 あなたに会う前までは、平凡な幸せというもの自体は享受できていた気はする。デパートの一区画に構えた眼鏡屋の一介の店員として、来店される多くのお客様に、様々なニーズに合わせて眼鏡を発注する。色んなお客様が、毎日毎日やってくる。

「眼鏡が壊れた!買い換えさせてくれ!!」

と、常日頃の大事さを忘れて慌てるサラリーマンもいらっしゃれば、

「これほしい!」

と母親にねだる、眼鏡屋が初めての少女もいらっしゃる。最近では初老より少し前の、老眼を気にしてのお客様が多くなって、生活必需品でもあるので、そこそこの売り上げで日々を満足していた。

 この満足、これこそが、私にとって大事なものだった、日々の支えであった。眼鏡と同じで、常なるものこそ、尊い。ご近所さん、週に何度か通うスーパー、毎日歩く道路、よく飲みに行く居酒屋。こういった毎日のものに感謝していた。無常感に背中を押されるような仏教的な尊崇ではなく、ただそれらを尊いと思うことが私にとっては重要で、それらを尊いと思うからこそ、日々に暖かみを感じる。無常観の冷酷さに打ち勝つ為の1つの方法であった。

 そんな時に、あなたは来た。王城の音楽隊のラッパのファンファーレを受けるような胸の高鳴りと共に、その時からようやく人生の彩度が、高まった。

 私は作業の為に小さな丸椅子に座っていて、真正面に吊り下げられた蛍光灯の優しい灯りが、あなたの大きい背の影に消えた。急に暗くなったから、私はお仕事中なのに、無意識に見上げてしまって、それはポカンと口を開けた間抜けな顔つきで、あなたに、初めて出会った。白い肌に着せられた黒いスーツは、真っ昼間の、灯りの十分な眼鏡屋に夜をもたらすかのような黒さに思えた。日焼けの跡もない真っ白な顔は蒼白という病的なものじゃなくて、顔つきからして日本人であることは疑いようが無かったけれど、北欧辺りに過ごしてらっしゃると言われた方が納得できるような、美麗な顔つきであった。高身長にはスーツが似合っていて、客であることすらも忘れるほど、あの時のあなたは仕事人に思えた。

「あ、あの……。」

突然にしどろもどろになってしまって、用件を伺うことさえできなかったから、

「眼鏡を作りたいのですが。」

とあなたの、やや冷たいバリトン声の簡潔な答えを聞いて、自分が眼鏡屋であることを思い出す始末。

「あ!はい!申し訳ありません!!今すぐ、ご用意しますので…!!」

あがってしまう自分の声に、体内が沸騰しそうなほどに恥ずかしくなった。お酒を飲むとすぐに顔が紅潮する私は、それだけで顔を赤らめる。そういう一々の反応がまた、恥ずかしい。顔が熱くなって、後方からの風がやけに涼しく感じた。

 そこで、私は1つの違和感を覚える。すぐ後ろの外と繋がっているドアを振り返った。秋の風が通るほどに開けっ放しになっていた。

「あ、あの……。」

身体を元に戻して、あなたに再び話しかけた。

「はい、なんでしょう。」

「ここ、関係者以外立ち入り禁止なのですが……。」

 あの時私が居た場所は、眼鏡の調整や注文を行うための作業室で、顧客の個人情報もあったため部外者を入れてはいけない部屋であった。あなたの精悍な顔も眉を寄せて、ちょっと困ったような表情になってしまって、それで察することができた。どうやら入り口を間違えてしまったらしい。思いがけない不法侵入。あなたは黒い後頭部をマイペースに、ポリポリと掻き始めた。両者の間の気まずい沈黙。あなたの、びっしりと決まった恰好とのギャップに、コーヒーすら冷めてしまった。けれど、こうした不思議な出会いの方が、反って運命的に、ロマンチックに感じてしまうのはなぜなのでしょう。この後の運命も常人のそれでなかったのだから、とりわけそういう感興が湧いてしまった……「感動」でなく、あくまで「感興」であると、あの時に自覚すればよかったのに、今となっては、大きな、とても大きな悔恨に駆られている、耳鳴(じめい)は止まず、その耳から絶え間なく湧いて出るウジ虫たち、耳を切り落としてしまっても良い、思いっきり掻いて、毟って、振り払いたい!……そう思えるほど巨大な、本当に巨大な悔恨になってしまったのである。

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